「命を守る・人が死なない!防災士-尾崎洋二のブログ」生活の安心は災害への万全な備えがあってこそ。命と生活の安全保障を!

防災の第一目的は命を守ること。「あの人を助けなくては」との思いが行動の引き金となります。人の命を守るために最善の行動を!

人が死なない防災-東日本大震災を踏まえて:片田敏孝氏の防災教育

2019年04月23日 08時45分31秒 | 人が死なない防災

尾崎洋二コメント
 防災の第一目的は、「災害ごときで人が死なない」ことです、という片田氏の主張に大賛成です。

 東日本大震災のとき、「釜石市内の14の小中学校、約3000人の子どもたちが、あの大地震、大津波から生き抜いてくれた」ということを、ただ単に「奇跡」とするのは間違いと私は思います。

 奇跡でなく、普段の「脅しや知識ではない」本質的な片田敏孝氏の防災教育の結果だと思います。

 片田敏孝氏の防災教育に全面的に支援して、訓練してくれた先生方と、協力してくれた親たちと、子どもたちの努力の結果です。

 南海トラフ地震発生の可能性(32万人の死亡者が予想されています)が高いといわれいます。

 ぜひこの本を参考に南海トラフ地域の方々は、子どもたちや災害要援護者の命を守るため、「災害ごときで人を死なせない」真の防災に取り組んでいただければと願います。

 またこの著書を気に入られて方はぜひ、片田敏孝氏の「子どもたちに”生き抜く力”」を-釜石の事例に学ぶ津波防災教育:フレーベル館 2012年2月出版(¥1200)を読んでみてください。

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人が死なない防災-東日本大震災を踏まえて
片田 敏孝 著-集英社新書(¥760)

------上記--序章と1章--要点抜粋箇条書き--------

はじめに(序章)

 子供たちの懸命な避難を導いたのは、釜石の小中学校の先生方である。
 津波警報が出ても避難しないことが常態化した家庭や社会に育つ子どもたちが、
このまま「その時」を迎えたらどうなるのか、という私の問いかけに、先生方は
防災教育の必要性を感じ取ってくださった。

 子どもは、与えられた環境の下で自らの常識や行動規範を形成する。
 そして、避難しない環境の育った子どもたちを、いつの日か必ず襲う。
 先生方はその事実に気づかれたのである。

 東日本大震災を経て、今の日本の防災に求められることは、人が死なない防災
を推進することであり、それこそが、防災のファーストプライオリティだと考える。
 この考えに立つとき、完璧ではないにせよ、ひとつの成果を示した釜石の防災教育
は、日本の防災に重要な視座を与えてくれる。


第一章 人が死なない防災-東日本大震災を踏まえて

1-「安全な場所」はどこにもない

台風の巨大化 p26

 ゲリラ豪雨よりもはるかに心配なのが、台風に伴う広域的な大雨です。
これは、台風の巨大化によってもたらされます。
地球温暖化が進むと、ゲリラ豪雨が多くなると同時に、台風が巨大化するといわ
れています。

 かっては「台風銀座」といわれた九州~四国~紀伊半島のあたりは、もはや台風銀座
ではなくなりつつあります。
 これからの台風銀座は、紀伊半島から関東にかけてになってくるだろうと思われます。

 このように、台風の巨大化ひとつをとっても、いわゆる「安全神話」を一刻も早く捨
てて「想定外」に備えなくてはならないことが理解できます。

 災いは、絵空事ではなく、着実に近づいてきています。


2-釜石の子どもたちの主体的行動に学ぶ

津波は「海からの大洪水」 p30

東日本大震災における震源地は宮城県沖ですが、要は、三陸沖から茨城県沖にかけて、
南北約500キロ、幅約200キロにわたって震源域が形成されたわけです。
 
 揺れが非常に長く続いたのは、いっぺんにバーンと破壊したわけではなく、約500キロもの広い範囲が、徐々に破壊されていったからです。

 それに要した時間が、約200秒。
 ということは、3分以上です。
 つまり地震がそのくらい長く続いたということです。

 そして、こんなにも広い領域で海底地盤が持ち上がったために、その上にある海水も、すべて持ち上げられた。
 その水がそのまま陸地になだれ込んできたのが、今回の津波ということになります。

 実際に海水面が一気に10メートルぐらい上がるわけです。
 そして、水位が上がった状態のまま、陸地に流れ込んでくる。
 いわば、「海からの大洪水」というイメージです。


「その時」の釜石 p33

 地震が起きたとき、釜石小学校は、自宅に子どもたちを全部帰していました。
 つまり、ほとんどの生徒が濁流に呑み込まれた地域に帰っていたわけです。
 ある者は海に釣りに行っていたり、またある者は家にいたり、公園で遊んでいたり。
 そんな状況の中で釜石小学校の生徒は一人も亡くなっていません。
 ほかにも、釜石市内の14の小中学校、約3000人の子どもたちが、あの大地震、
大津波から生き抜いてくれたのです。

 
大津波は「想定外」ではなかった。 p35

 想定外という言葉の裏側には、「想定外だから仕方がない」というニュアンスが隠さ
れているように思えてなりません。
 果たして、想定外で片づけていいのだろうか。
 私はそうは思えません。

 一般にいう防災とは、ひと言でいえば、「防御の目標を置く」ということです。
 これくらいまでの規模の災害からは守ろうよ、という目標を置くわけです。

 津波防災の場合は、「確かな記録に残る最大級の津波」を指標にします。
 三陸地域では、明治三陸津波(津波の高さ15メートル)を想定して防災を推進して
きました。
 住民が全滅するような大津波を「想定」していたわけですから、それはすごい防災です。
 
 
「災害保護」状態の住民 p45

 昔は小さな水害があったおかげで、「あそこの一部は水によく浸かるところだ」とか、「あそこの川はあの辺りが危ないから、家は建てないほうがいい」といったような、災いに備える知恵を住民たちが共有していました。
 さらに、小規模の水害ですから、住民みんなで力を合わせて土嚢を積めば、なんとか
防ぐことができた。
 みんなで水防に出て、土嚢を積んで、みんなで地域を守るというような共同体意識や
連帯意識があったのです。

 やがて、100年確率の治水で、立派な堤防が完成します。
 そのおかげで、本当にありがたいことに水害のほとんどはなくなった。
 しかしその一方で、住民たちは災いに備える知恵を失い、そして地域の連帯意識を失
い、いつの間にか水害に対して無防備になってしまった。
 そこに襲いかかるのが、100年確率を超える規模の災害、つまり防災における「
想定外」の災害なのです。

 東日本大震災も、まさしく、そのような状況の中で起こったわけです。
 大きな防潮堤ができたことによって、田老では逃げなかった住民がいた。
 釜石でも、ここは安心できる地だと思った住民がいた。
 そして逃げなかった。
 そこに想定を超える津波が来たのです。

 田老や釜石など東日本大震災で被災した地域は、「想定外」だたったから被害を受け
たわけではありません。
 また、「想定が甘かった」わけでもありません。
 そうではなくて、「想定にとらわれすぎた」のです。

 東日本大震災によって顕在化したのは、防災というものがはらむ裏側の問題です。
 それは防災が進むことによって、社会と人間の脆弱性が増し、住民を「災害過保護」
ともいうべき状態にしてしまうという問題にほかなりません。

 3月11日に襲ってきた津波は、(釜石市)のハザードマップの「想定」をはるかに
超えるものでした。 
 その結果、亡くなってしまったのが浸水想定区域の外側にいた方々です。
 まさに「想定にとらわれすぎた」がゆえの悲劇だと思うのです。

 このような問題をどう解決していくのか。
 どう理解を正していくのか。
 これが防災教育を行っていくうえでいちばん重要なポイントであると、私は考えています。
 現在の日本の防災が陥っている、最も根深いジレンマがここにあるからです。


自らの命を守ることに主体的たれ p51

我々は災害にどう対応すべきなのか。それは、「大いなる自然の営みに畏敬の念をもち、行政に委ねることなく、自らの命を守ることに主体的たれ」ということに尽きると思います。

 自然は我々に大きな恵みを与えるとともに、時に大きな災いをもたらします。
 それは、行政が想定した規模を超え、人為的に造りだした防御施設をはるかにしのぐ大きさで襲いかかることも当然あり得ます。
 そこから自らの身を守るためには、災いから逃れること、すなわり避難することしかない。
 しかし現状は、行政主導で邁進してきた防災の中で、住民には「防災は行政がやるもの」との認識が根付いており、そのような認識のもとで、住民は災害に対する安全性を行政に過剰なまでに依存し、そして自らの命までも委ねてしまっている状態にあるのです。

 自然が時にその営みの中でもたらす大いなる災いから身を守るためには、自らがそうした自然の営みの中に生きる一構成員であることを自覚するとともに、人為的に与えられた想定にとらわれることなく、また自らの命を行政に委ねることなく、主体的にそのときの状況下で最善を尽くすこと以外にありません。

 
避難の三原則 p60

その1「想定にとらわれるな」

 ハザードマップではこうなっているけれど、だからといって「必ず安全」というわけではない。これは一つの例にすぎなくて、このとおりにならない可能性も考えておかなくてはならない。
 ハザードマップを配り、それを否定するという一連の流れを通して、「想定」にとらわれてる自分に気づく。
 さらに、「次の津波はここまで」という固定観念をもってしまっている自分に気づく。
 そういう自分に気づかせるためにも、この「想定を信じるな」という教えがあります。


 その2「いかなる状況においても最善を尽くせ」 p63

 「この次来る津波がどのようなものかはわからない。
 しかし、どのような状況下においても、君にできることは最善を尽くすこと以外にない。」

 
 「最善を尽くせ。
 しかし、それでも君は死ぬかもしれない。
 でも、それは仕方がない。
 なぜならば、最善というのは、それ以上の対応ができないということだ。
 それ以上のことができないから、最善というんだ。
 精いっぱいやることをやっても、その君の力をしのぐような大きな自然の力があれば、死んでしまう。
 それが自然の摂理なんだ。」


 正直、ここまで述べた上記二つの教え方は、学校の先生方には評判が良くありませんでした。でも、今は自信をもって「こう教えることが正しい。間違いない」と思っています。
 なぜなら、釜石の子どもたちの行動が、それを示してくれたからです。

 
 
 その3「率先避難者たれ」 p73

 
 「人を助けるためには、まず自分が生きていなければどういにもならない。だから躊躇なく、まず自分の命を守り抜くんだ。」

 子どもたちは、「先生、自分だけ逃げていいの?自分だけ助かっていいの?」と聞いてきます。
 やはり、子どもたちの倫理観にも影響するわけです。 

 それでも私は、「いいんだ。君が逃げることが、周りの多くの人たちを救うことになるんだから」と説得しました。


 「人間っていうのは元来逃げられないんだ。みんなが『大丈夫だよな』といいながらその場にとどまっていると全員が死んでしまう。

 だから最初に逃げるっていうのはすごく大事なこと。
 だけど、これが難しいんだ。

 考えてみよう。
 非常ベルが鳴って最初に飛び出すのって、カッコ悪いだろ。

 だいたいが誤報だからね。
 戻ってきたら、みんなに冷やかされる。

 そんなことを考えると、逃げたくなるよね。

 でも、本当に災害が起こったとき、みんなが同じことを考えて逃げないでいると、みんなが同じように死んでしまう。

 だから、君は率先避難者にならなくてはいけない。

 人間には『集団同調』という心理もあって、君が本気で逃げれば、まわりも同調して、同じように逃げはじめる。

 つまり君が逃げるということは、みんなを助けることにつながるんだ」

 

防災教育の本質 p78

「脅し」「知識」はダメ。大事なのは「姿勢」

 人間は、脅えながら生きていくことなんてできません。
 だから脅えはちゃんと忘れるようになっているんです。

 また、「ここに津波がくると、こんなに死者が出ますよ」という教え方をしていると、教えられた人は、その地域のことが嫌いになります。

 釜石の子どもたちは、釜石のことが嫌いになってしまう。
 
 こういう防災教育は何も残りません。
 いずれにしろ、外圧的に形成される危機意識は、長続きしないのです。


 もう一つの間違いは、「知識の防災教育」です。
 与えられる知識は、主体的な姿勢を醸成しないからです。

 また、知識を与えられることによって災害のイメージを固定化し、その災害イメージを最大値にしようとします。
 それが、「想定にとらわれる」ことにつながってしまう。

 
 こと防災に関する教育については、知識を与えることによって正しい行動をとらせようとしても、非常に難しいのです。

 なぜなら、人間というのは、都合の悪い話は積極的に考えようとしないからです。

 
 「脅しの防災教育」も「知識の防災教育」も間違いです。
  私が子どもたちに教えてきたのは、主に「姿勢の防災教育」です。

 

「危険をしっかり伝えれば、人間は逃げる」というのは嘘です。 p84

 津波というのはほとんどの場合海溝型の地震で発生しますから、周期性をもって襲来するわけです。
  
 つまり、「釜石に津波が来るか、来ないか」という議論はナンセンスです。
 津波は絶対に来る。
 それがいつなのか、という問題だけです。

 それなのに、住民はなかなか逃げようとしない。
 これも、私は人間らしいと思います。

 しかし、「人間とはそういうものである」ということを知ったうえで、せめて、「その日、その時」だけは合理的な行動をとりましょう。
 それがこの土地で生きるたえの作法です、説き聞かせることが、私なりの防災教育です。


「津波てんでんこ」 p93
 
 「津波のときには、てんでんばらばらで逃げろ」
 無理を承知のうえで、このような言葉を先人が語伝えたのは、そうしなくてはならない理由があるのです。

 それは、「家族の絆がかえって被害を大きくする」という、つらく悲しい歴史を繰り返してきたからです。
 子どもが親のもとまで行って、両方とも死んでしまう。
 お母さんが子どもを迎えに行って、両方とも死んでしまう。
 一家滅亡、地域滅亡という悲劇ばかりを繰り返してきた。

 そういう中でできた言い伝えが、「津波てんでんこ」なのです。
 ですから決して軽い言葉ではありません。

 私は、「津波てんでんこ」が求めて入ることについて、こう理解しています。
 一つは、老いも若きも一人ひとりが自分の命に責任を持つということ。

 そしてもう一つは、一人ひとりが自分の命に責任をもつということについて、
家族がお互い信頼し合おう、ということです。

 「お母さんはちゃんと逃げているだろう。だから、僕もちゃんと逃げる。
そうすれば、後で迎えに来てくれるはずだ」と思えるからこそ、子どもたちは、一人で一生懸命逃げようという気持ちになれるわけです。

 家族間の信頼があってこそ、「津波てんでんこ」が初めて可能になるわけです。
 つまり、「津波てんでんこ」の教えとは、一人ひとり逃げろ、ということだけではなくて、「津波てんでんこが可能な家族たれ」ということにほかなりません。

 

東日本大震災では、なぜこれだけ多くの犠牲者が出たのか? p106

1-想定に縛られていたため、十分な避難をしなかった。

2-身体的理由から避難することができなかった。
  高齢者をはじめとする災害要援護者の避難に関する課題の解決なくしては、
災害犠牲者ゼロの実現はあり得ないとっても過言ではない。

3-状況的に避難することができなかった。(警察官や消防署・消防団員、行政職員、鉄道事業者など) 
  高齢者を含む災害要援護者の避難支援の課題にあたっては、災害要援護者の避難を支援する者の命を守る方策を合わせて検討することが重要である。

 


 
  


 

 

 

 


 
 

 

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