「諸君よ、どうか部下の若人たちが、失望、落胆しない様、導いてくれ給え。7万の将兵が汗とあぶらとで、この様な地下要塞を建設し、原始密林を拓いて七千町歩の自活農園まで造った。この経験、この自信を終始忘れずに祖国の復興、各自の発展に活用する様、促してもらいたい」
敗戦して我が身の行く末も定かでは無いにもかかわらず将兵の未来に心を砕くような大人物なのである。更に続けて将軍は指令を下した。
「ラバウル将兵は今後も現地自活を続け、将来日本が賠償すべき金額を幾分なりとも軽減する事を図る。これは我々の外地における最後のご奉公である。」
先行きが見えなくなった将兵達は不安に駆られていたに違いないが、黙々と自ら率先して畑に立つ将軍の姿を見て何も言えなかったという。むしろそのような将軍の姿を見てこの人に付いて行けば必ずや光のあるところに導いてくれると思ったのではなかろうか。今村将軍には人を引きつける何かがある。
外地にいる将兵の内地への引き上げ計画によると、ラバウルにいる今村達の部隊が内地に引き上げることができるのは3年半先の昭和24年になっていた。その間の兵士達の志気と規律を維持するためには目標が必要である。今村は兵士達の復員後の生活や祖国の復興のために兵士達に教育を始める。将兵の中の教職経験者を集め英語や数学、和歌や俳句、漢詩などの教養講座を設ける。敗戦に落胆したであろうに即座に未来を見通す知力と眼力を発揮する今村将軍こそはまさに偉人である。
当時、将兵たちはオーストラリア軍の捕虜となり、無報酬で作業をさせられていた。これは明確な国際法違反なのだが、将兵たちは不満も忘れて、作業の合間に教科書や雑誌に読みふけった。オーストラリア軍のイーサー少将はラバウル戦における戦争犯罪人の調査を終え「戦争犯罪をもって問うべきものは無い」と報告していた(今村の政策は犯罪とは無縁である)。ところが、オーストラリア軍の上部からどんな些細なものも報告せよと命じてきたのである。無理矢理犯罪人を作ろうとしたことは明白である。このように戦犯裁判は総じて違法なものだったのである。連合国側は勝手に戦犯を作り上げたのである。因みに日本の国内法で戦争犯罪人として処罰された者は一兵たりとも靖国神社に合祀されてはいない。靖国神社への参拝を外国人が云々と言うのは内政干渉もいいところである。
上記の不公正な捜査により罪のない69名が戦争犯罪人の容疑者として指名されると言う悲劇が起こる。今村は部下の全ての裁判に介入し全ては命令を下した自分の責任であるとして部下達に有利な判決が出るよう尽力した。最高責任者としての今村の裁判は最後にまわされ10年の懲役刑を受けることになる。部下達の判決に対してはすべて再審の請求をしていたにもかかわらず、自身の判決に対しては何の申し開きもしなかった。武士道の精神である。
オーストラリア軍から判決を受けた後今村は、インドネシアの独立運動に参加した政治犯ら1500人が収容されたジャワのストラスウェイク刑務所にただ一人の日本人として護送され拘留される。オランダ軍の裁判を受けるためにである。
食事を運んできた現地人の世話人がたどたどしい日本語で言った。
「日本時代の最高指揮官がここにはいったことを、みんなとても喜んでいます。それは今夜7時に、歌であなたに伝わるでしょう。」
その夜、7時の点鐘を合図に、地の底から湧き立つような大合唱が始まった。それは今村自身が懸賞募集した、日本人とインドネシア人が双方の国語で一緒に歌う「八重潮」であった。この歌はジャワ島の町から村へと広がり、日本の将兵と現地人が同席すれば、かならず歌われたという。獄中の今村は感動に目を潤ませた。
やがて今村は約700人の日本人戦犯容疑者を収容しているジャカルタ市内のチビナン刑務所に移され、裁判にかけられた。
ある日、百二、三十人いる現地人政治犯の中のインドネシア独立軍の将校二人が今村の房にやってきて、言った。
「これは(インドネシア)共和国からの指示です。もしあなたの死刑が確定したら、共和国政府は、刑場に行くあなたを奪回します。その場合は、ためらわず共和国側の自動車に乗り移って下さい。」
日本統治時代に協力し、今は独立軍を指揮するスカルノは、何としても今村を助けたかったのである。しかし今村はその好意に感謝しつつも、申し出を断った。
「日本の武士道では、そのような方法で生きのびることは不名誉とされている。まして私を救うため、独立軍とオランダ兵が鉄火(銃火)を交え、犠牲者が出るようなことは絶対に避けたい」と今村は言ったそうである。
オランダ軍による裁判では幸い今村の紳士的な態度に共感した裁判官により無罪の判決が下る。そこにラバウルに収容されていた戦犯230名が、マヌス島に移されたという知らせが入った。赤道直下の酷暑炎熱の小島で、重労働と粗食、不衛生な宿舎のため、病人が続出し、半数は生きて帰れないのでは、という悲惨な状況であった。特に今村が去ってからは、豪軍監視兵の虐待、暴行が甚だしいという。
今村は、豪軍裁判による刑期を努めるべく、ただちにマヌス島に自分を送還するようオランダ軍に申請したが、激しい独立軍との戦闘に疲弊し、撤退を決めていたオランダ軍は日本人戦犯700人をすべて巣鴨拘置所に送ることにしており、今村の申し出は聞き入れ
られなかった。
かくして、今村は、昭和25年1月、7年3ヶ月ぶりで日本に帰還した。今村は到着早々、巣鴨刑務所長に何度もマヌス島送還を依頼したが、どうしても応諾してくれない。
ついには、つてを探して、マッカーサー司令部の高官に直接マヌス行きを申請した。これに対し、マッカーサーは次のように言ったと伝えられている。
「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役するためマヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。私はすぐに許可するよう命じた。」
今村将軍の人格はマッカーサー元帥の心をも動かしたのである。
かくて、昭和25年2月21日、今村は横浜からマヌス島に送られた。齢すでに63歳である。今村がマヌス島につくと、その人格力で豪兵の日本人に対する取り扱いも好転、今村の作ったネギをもらった将校がタバコを返礼として届けたり、トマトを与えた現地人の子供が椰子の木に登って実を落としてくれたりと、なごやかな生活を送った。
昭和28年7月、豪軍はマヌス島の刑務所を閉鎖し、全員を日本に送還した。帰国後、今村は軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら、厖大な回想録を出版した。その印税はすべて、戦死者や戦犯刑死者の遺族のために使ったという。
大日本帝国が戦った大東亜戦争には数多くの側面がある。善とか悪とか、白と黒のような単純な公式で評価するのは公平ではない。「正しい歴史認識」を声高に叫ぶ者は本当に正しい認識をしているのかもう一度考えてみるべきだ。
我が国は莫大なODAを注ぎ込んで今もアジアを守り続けているのである。傲慢は武士道に反するのでこのくらいにしておく。