Beautiful☆Life

ひとりごと

君が代

2006年09月06日 | 皇国日本
 私は皇室に対して尊崇の念を抱いており、保守的な思想を持っている。若い時からそうだったのかというとそうでもない。高校生の頃までどちらかというと革新的な考え方に魅力を感じていたように思う。これはひとえに日教組という左巻きの連中が迷惑にも私たちに叩き込んだ自虐的な教育の成果といえる。

 オツムの軽い連中には初等教育で教えられたことを一生信じ込ませることは可能だろうが、残念ながら日本人の大多数は勤勉である。日本人のDNAに刷り込まれている伝統と歴史の前には根拠のない言葉は無力なのである。

 私が保守的な思想を持つに至った大きなきっかけは二つある。一つは大学で受けた憲法学の講義である。幸か不幸か保守的な理論で有名な百地章教授(現日本大学法学部教授だが愛媛大学教授の頃、Wikipediaにも項目のある有名人)の授業を受けてしまったのである。正直いうと事前に保守的な答案を書けば「優」がもらえるという情報を得ていたのでその通りにして優の評価を頂いたのも事実だが、先生の授業には共感できる点が多々あったのである。

 今ひとつのきっかけは、今上天皇、皇后両陛下を至近距離でお見かけしたことにある。何年くらい前のことか忘れてしまったのだが、私が住んでいた県に行幸されたことがある。子供の絵画教室の日だったので土曜日だったはずである。いつものように息子Tを絵画教室に車で連れて行って、教室が終わったあと帰る為に車を出そうと思ったら駐車場に面した道路に数十メートルおきに警官が立っていて「通行止め」になっていたのである。両陛下がその夜お泊まりになるホテルまでの道程のため、お車が通過するまで通行止めになっていたのである。どうすることもできないので息子と一緒に道路脇で両陛下をお迎えすることにした。

 今考えるとかなり緊張していました。正直いってテンパッテました。小学校低学年の息子にはお車が通過するときにはお辞儀をして決して指さしたりしないように言い聞かせたことを覚えています。

 私たちが両陛下をお迎えする為に立っていたのは進行方向に向かって左側であったのでお車はすぐ目の前1メートルくらいのところをゆっくりと通過されました。左側後部座席には美智子妃殿下がお座りになっておりました。皇后陛下はお辞儀をしている私たちの前をほほえみながら通過されました。天皇陛下は道路の右側でお迎えしている人たちの方を向かれていたので残念ながらお顔を拝見することはできませんでしたが、目の前で天上の人を拝見できたことに大変大きな感銘を受けたと同時に、皇室がとても身近な存在に感じました。

 皇室は日本国にとって外交的にも非常に重要な存在です。新宮さまのご生誕は君が代(日本国)が永遠(とわ)に存続する神の国であるということだと思います。心よりお慶び申し上げます。

お慶び申し上げます

2006年09月06日 | 皇国日本
 今朝9時頃いつものようにメールチェックを行い、ネットニュースの表題をざっと眺めていた。

「<秋篠宮妃紀子さま>男児ご出産 41年ぶり皇位継承資格者」

目に飛び込んできた文字である。

 親王さまがお生まれになったニュースを目にして、日本国民の一人としてとても晴れやかな気持ちになりました。心よりお慶び申し上げます。秋篠宮親王ご夫妻は直前まで皇族としてのご公務をこなされていたと聞くにおよび尊敬の念を禁じ得ません。新親王さまにおかれましては健やかなご成長を心よりお祈り申し上げております。

愛国心

2006年08月08日 | 皇国日本

 以前このブログで愛国心について書いたことがあります。その時は、「法律で愛国心を強要するなんておかしい」と書き、改正教育基本法に盛り込む事に反対だという主張をしておりました。同時に愛国心を法律に盛り込まなければならない程に日本という国のカタチが壊れ始めているのかと嘆いていました。この時はほんの世間話程度に嘆いていました。

 しかーし、今は嘆きを通り越して危機感を感じています。危機感を喚起させてくれたのはお隣の二つの国です。一つは予告もなくミサイルを発射する国で、今ひとつはその国と同一民族でありながら分断されている南側の国です。そうです、訳の分からないことを平気で口走るあのヘンテコな整形大好き大統領の国です。在日のかの国の人たちは7割が無職でありながら普通の日本人よりも裕福な暮らしをしているそうです。

詳しくはこちら
http://3.csx.jp/peachy/data/korea/korea.html

是非読んでみて下さい。読んだ方は出来ればこれを広めて欲しいと思います。

 「愛国心」を教育基本法に盛り込まなければいけないかも知れないと今は考えています。


サムライ 今村均陸軍大将

2006年05月26日 | 皇国日本
 西暦1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し無条件降伏した。ラバウルに駐留していた今村将軍の許に電報にてこの報が届けられたのは翌16日のことである。今村将軍は部隊長ら60人を集めこれを読んで聞かせ、次のように訓示した。

「諸君よ、どうか部下の若人たちが、失望、落胆しない様、導いてくれ給え。7万の将兵が汗とあぶらとで、この様な地下要塞を建設し、原始密林を拓いて七千町歩の自活農園まで造った。この経験、この自信を終始忘れずに祖国の復興、各自の発展に活用する様、促してもらいたい」
敗戦して我が身の行く末も定かでは無いにもかかわらず将兵の未来に心を砕くような大人物なのである。更に続けて将軍は指令を下した。
「ラバウル将兵は今後も現地自活を続け、将来日本が賠償すべき金額を幾分なりとも軽減する事を図る。これは我々の外地における最後のご奉公である。」

 先行きが見えなくなった将兵達は不安に駆られていたに違いないが、黙々と自ら率先して畑に立つ将軍の姿を見て何も言えなかったという。むしろそのような将軍の姿を見てこの人に付いて行けば必ずや光のあるところに導いてくれると思ったのではなかろうか。今村将軍には人を引きつける何かがある。

 外地にいる将兵の内地への引き上げ計画によると、ラバウルにいる今村達の部隊が内地に引き上げることができるのは3年半先の昭和24年になっていた。その間の兵士達の志気と規律を維持するためには目標が必要である。今村は兵士達の復員後の生活や祖国の復興のために兵士達に教育を始める。将兵の中の教職経験者を集め英語や数学、和歌や俳句、漢詩などの教養講座を設ける。敗戦に落胆したであろうに即座に未来を見通す知力と眼力を発揮する今村将軍こそはまさに偉人である。

 当時、将兵たちはオーストラリア軍の捕虜となり、無報酬で作業をさせられていた。これは明確な国際法違反なのだが、将兵たちは不満も忘れて、作業の合間に教科書や雑誌に読みふけった。オーストラリア軍のイーサー少将はラバウル戦における戦争犯罪人の調査を終え「戦争犯罪をもって問うべきものは無い」と報告していた(今村の政策は犯罪とは無縁である)。ところが、オーストラリア軍の上部からどんな些細なものも報告せよと命じてきたのである。無理矢理犯罪人を作ろうとしたことは明白である。このように戦犯裁判は総じて違法なものだったのである。連合国側は勝手に戦犯を作り上げたのである。因みに日本の国内法で戦争犯罪人として処罰された者は一兵たりとも靖国神社に合祀されてはいない。靖国神社への参拝を外国人が云々と言うのは内政干渉もいいところである。

 上記の不公正な捜査により罪のない69名が戦争犯罪人の容疑者として指名されると言う悲劇が起こる。今村は部下の全ての裁判に介入し全ては命令を下した自分の責任であるとして部下達に有利な判決が出るよう尽力した。最高責任者としての今村の裁判は最後にまわされ10年の懲役刑を受けることになる。部下達の判決に対してはすべて再審の請求をしていたにもかかわらず、自身の判決に対しては何の申し開きもしなかった。武士道の精神である。

 オーストラリア軍から判決を受けた後今村は、インドネシアの独立運動に参加した政治犯ら1500人が収容されたジャワのストラスウェイク刑務所にただ一人の日本人として護送され拘留される。オランダ軍の裁判を受けるためにである。

 食事を運んできた現地人の世話人がたどたどしい日本語で言った。
「日本時代の最高指揮官がここにはいったことを、みんなとても喜んでいます。それは今夜7時に、歌であなたに伝わるでしょう。」
 その夜、7時の点鐘を合図に、地の底から湧き立つような大合唱が始まった。それは今村自身が懸賞募集した、日本人とインドネシア人が双方の国語で一緒に歌う「八重潮」であった。この歌はジャワ島の町から村へと広がり、日本の将兵と現地人が同席すれば、かならず歌われたという。獄中の今村は感動に目を潤ませた。

 やがて今村は約700人の日本人戦犯容疑者を収容しているジャカルタ市内のチビナン刑務所に移され、裁判にかけられた。
 ある日、百二、三十人いる現地人政治犯の中のインドネシア独立軍の将校二人が今村の房にやってきて、言った。
「これは(インドネシア)共和国からの指示です。もしあなたの死刑が確定したら、共和国政府は、刑場に行くあなたを奪回します。その場合は、ためらわず共和国側の自動車に乗り移って下さい。」
 日本統治時代に協力し、今は独立軍を指揮するスカルノは、何としても今村を助けたかったのである。しかし今村はその好意に感謝しつつも、申し出を断った。
「日本の武士道では、そのような方法で生きのびることは不名誉とされている。まして私を救うため、独立軍とオランダ兵が鉄火(銃火)を交え、犠牲者が出るようなことは絶対に避けたい」と今村は言ったそうである。

 オランダ軍による裁判では幸い今村の紳士的な態度に共感した裁判官により無罪の判決が下る。そこにラバウルに収容されていた戦犯230名が、マヌス島に移されたという知らせが入った。赤道直下の酷暑炎熱の小島で、重労働と粗食、不衛生な宿舎のため、病人が続出し、半数は生きて帰れないのでは、という悲惨な状況であった。特に今村が去ってからは、豪軍監視兵の虐待、暴行が甚だしいという。
 今村は、豪軍裁判による刑期を努めるべく、ただちにマヌス島に自分を送還するようオランダ軍に申請したが、激しい独立軍との戦闘に疲弊し、撤退を決めていたオランダ軍は日本人戦犯700人をすべて巣鴨拘置所に送ることにしており、今村の申し出は聞き入れ
られなかった。

 かくして、今村は、昭和25年1月、7年3ヶ月ぶりで日本に帰還した。今村は到着早々、巣鴨刑務所長に何度もマヌス島送還を依頼したが、どうしても応諾してくれない。
 ついには、つてを探して、マッカーサー司令部の高官に直接マヌス行きを申請した。これに対し、マッカーサーは次のように言ったと伝えられている。
「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役するためマヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。私はすぐに許可するよう命じた。」
今村将軍の人格はマッカーサー元帥の心をも動かしたのである。

 かくて、昭和25年2月21日、今村は横浜からマヌス島に送られた。齢すでに63歳である。今村がマヌス島につくと、その人格力で豪兵の日本人に対する取り扱いも好転、今村の作ったネギをもらった将校がタバコを返礼として届けたり、トマトを与えた現地人の子供が椰子の木に登って実を落としてくれたりと、なごやかな生活を送った。

 昭和28年7月、豪軍はマヌス島の刑務所を閉鎖し、全員を日本に送還した。帰国後、今村は軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら、厖大な回想録を出版した。その印税はすべて、戦死者や戦犯刑死者の遺族のために使ったという。

 大日本帝国が戦った大東亜戦争には数多くの側面がある。善とか悪とか、白と黒のような単純な公式で評価するのは公平ではない。「正しい歴史認識」を声高に叫ぶ者は本当に正しい認識をしているのかもう一度考えてみるべきだ。
 
 我が国は莫大なODAを注ぎ込んで今もアジアを守り続けているのである。傲慢は武士道に反するのでこのくらいにしておく。

今村均陸軍中将 その2

2006年05月20日 | 皇国日本
 最初に書き忘れていたが、オランダとの戦闘状態は日本軍が先に仕掛けた訳ではない。真珠湾攻撃に驚いたオランダが危機を感じ先に日本に対して宣戦布告をしてきたのである。したがってジャワ島進撃は奇襲ではない。

 今村は19才のとき父虎尾を亡くす。経済的理由から一高(現東京大学)への進学をあきらめ陸軍士官学校に進む。その後(1915年)陸軍大学校をなんと首席で卒業している。秀才である。因みに同期にはあの東条英機(成績11番)もいたそうだ。

 さて、ジャワ島のオランダ・イギリス軍を制圧した後、今村司令官は「布告第1号」を発する。その内容とは次のようなものであった。

1.日本人とインドネシア人は同祖同族である
2.日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする
3.同一家族・同胞主義に則って、軍政を実施する

「共存共栄」という言葉にインドネシア人達がずいぶん驚いたことは想像に難くない。今村司令官という人は「大東亜共栄圏構想」という思想を真に理解し実践しようとした人物だったことに疑いの余地は無い。

 ジャワを占領した今村の許には、投獄されていた民族独立運動家のスカルノ(後のインドネシア初代大統領)とハッタ(同副大統領)を釈放して欲しいという現地人からの嘆願書が多数届いた。これを受けて今村はスカルノ、ハッタ両氏と面談し次のように述べたといわれている。
「戦争終結後インドネシアがどのような状態になるかは、日本政府とこの国の指導者階級とが決めるべき事で、(一軍人である)自分の権限外だが、自分の軍政中は、オランダ統治時代よりもよりよい政治と福祉を約束する。」

 スカルノ、ハッタの情熱に感銘を受けた今村中将は、更に次のようにも言ったそうである。
「独立というものは、与えられるものではなく、つねに戦い取るべきものだ。かれらが戦い取ることのできる実力を養ってやるのが、われわれの仕事だ、、、」
そして、彼らの独立運動を支援した。スカルノは今村の言葉を信じ、協力を誓った。

 今村の執った政策は次のようなものである。
・農業改良指導
・小学校の建設と、児童教育の奨励
・新聞「インドネシア・ラヤ」の発刊
・英・蘭語の廃止と、公用語としてのインドネシア語採用
・5人以上の集会の自由
・多方面でのインドネシア人登用
・インドネシア民族運動の容認
・インドネシア人の政治参与を容認
・軍政府の下に「中央参議院」を設置
・各州・特別市に「参議会」を設置
・ジャワ島全域に、住民による青年団・警防団を組織
・「インドネシア祖国義勇軍」(PETA)の前身を創設

 学校を作り、病院を作り、より多くの現地人を採用した行政機関を作り、新聞による言論の場を作ったのである。もはやこれは占領下におかれた圧政などでは決してない。独立するための完全な準備過程である。更に驚くことにインドネシア人自身による自衛軍(後のインドネシア祖国義勇軍)を創設するための訓練までも行ったのである。反乱が起これば最も危険な諸刃の剣になる勢力をも鍛えたのである。現地人と日本軍との篤い信頼関係は疑いようもない(これらについては後述の予定)。

 これらの政策は今村司令官自身の独断によるところが多かった。そのため軍部内には批判的な声が有ったことも事実である。が、今村はそれにもひるまなかった。

 今村の融和的な方針は功を奏し、敵が破壊した石油精製施設の復旧に、民衆は全力を挙げて日本軍に協力した。今村は石油価格をオランダ時代の半額とし、民衆は石油が安く使えると喜んだ。

 また日本では衣料が不足して配給制となり、ジャワで生産される白木綿の大量輸入を申し入れてきた。しかし、白木綿を取り上げたら、現地人の日常生活を圧迫し、さらに死者を白木綿で包んで埋葬する彼らの宗教心まで傷つける、と今村は考えて、日本政府の要求を拒んだ。

 今村の政策は日本軍幹部などから批判を浴びた。しかしその実情を調べに来た政府高官達、軍幹部は、「原住民は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念し、華僑に至っては日本人に迎合これつとめており」、あるいは、「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調達において、ジャワの成果がずばぬけて良い」などと報告して、今村の軍政を賞賛した。

 その後今村は第8方面軍司令官となりラバウルに移ることになる。前後して今村は陸軍大将に昇進するが戦況は思わしくなく、本土からの補給は今後期待できないと考え自給自足のシステムを作り上げると同時に地下壕を作って難攻不落の砦へと変貌させる。連合軍を指揮するマッカーサーもラバウルを攻め落とすことは諦め迂回してフィリピンへと矛先を変えたぐらいである。

 しかし、皇紀2605年8月15日遂に終戦の日を迎える。今村大将は戦犯として投獄されることになる。一方、今村以下それに追随する日本軍の将兵によって独立の準備がすっかり出来上がっていたインドネシアでは、終戦からわずか二日後、スハルトによって「独立宣言」が行われるのである。

 終戦後、再び植民地支配を目論むオランダ軍がインドネシアに押し寄せるが、日本軍によって育てられ旧日本軍の武器弾薬を継承したインドネシア祖国義勇軍は4年間の戦闘の後オランダ軍を追い払うのである。

 旧日本軍の将兵のうち約2千名はそのままインドネシアに残り、インドネシア独立戦争に身を投じ約400名が命を落としたと言われている。いまもインドネシアの英雄墓地には11名の旧日本兵が英雄として祀られている。

 独立宣言書の日付は「皇紀2605年8月17日」と記されている。皇国日本は営々とその歴史を積み重ねている。建国200年そこそこの国などとは格が違うのである。

 これは「大東亜共栄圏」の一部である。

 次回はその後の今村将軍について書きたい。(つづく)

今村均陸軍中将

2006年05月19日 | 皇国日本
 二日前にちょこっと書きました。インドネシア独立の陰には大日本帝国があったと。インドネシアの独立宣言は1945年8月17日、終戦からわずか2日後に後の初代大統領スカルノによって宣言されました。独立を記念して建てられた記念塔の地下に保管されている独立宣言書の原本に記された日付は「05年8月17日」とあります。05年って?と思うでしょ。これは2605年の下二桁だけを記してあるのです。2605年って?と更に思うでしょ。

 これは西暦なんかでは決してありません。3世紀にもわたって植民地支配していたオランダが使っている西暦なんか使いたくもなかったのでしょう。採用された暦は日本国の「皇紀」です。初代神武天皇の即位した年を元年とした暦です。彼らは敗戦国である日本国に最大の敬意をはらってくれています。終戦前の3年5ヶ月の間大日本帝国の軍政下におかれていたのに何故なんでしょう。

 1942年(昭和17年)3月1日、第16軍司令官今村均陸軍中将は4万(5万5千とも言われている)の将兵を率いてジャワ島への上陸作戦を敢行します。主目的は油田の確保でした。当初制圧には3ヶ月はかかるだろうと言われていたにもかかわらず、わずか10日間でオランダ軍を全面降伏させます。オランダ軍は主要道路脇の樹木を切り倒すなどして道路にバリケードを築き、日本軍の進撃をなるべく遅らせようと目論みますが、現地の民衆が積極的に日本軍に協力してバリケードの撤去を手伝ってくれたそうです。

 インドネシアでは長きにわたる植民地支配の間に一つの伝説が生まれていた。「その者異国の蒼き衣を纏いて金色の野に降り立つべし」あっ違った、これはナウシカだ。「いつか北から同じ人種がやってきて、トウモロコシが芽を出して実をつけるまでに(約3ヶ月半)インドネシア人を救ってくれる」というのが本当。背が低く自分たちと同じ肌の色をしている日本軍の兵士達を見たインドネシア人達は伝説が本当だったと信じた。
 一人の老人が現れ、今村に言った。
「この国では何百年も昔から「いつか北方から同じ人種が来て、我々の自由を取り戻してくれる」と語り伝えられていますが、あなた方は同じ人種でしょうか。」
今村は答えた。
「われわれ日本民族の祖先の中には、この国から船で日本に渡ってきた人々もいるのです。あなた方と日本人とは兄弟です。我々はあなた方に自由を得させるために、オランダ軍と戦うのです。」
 今村のこの言葉が統治を円滑にするための単なる方便などではないと言うことは、その後彼が行った政策を見れば明らかである。(つづく)

愛国心

2006年05月17日 | 皇国日本

 最近「愛国心」が話題になっているようである。教育基本法の改正に絡んでの話だが、「愛国心」を法律で押し付けなければならない状態というのもどうかしている。愛国心なんてものは有って当然のものであって誰かに押し付けられて初めて身に付くものなんかでは決してないはずである。ところが、気が付くと当然有って然るべきものが無くなって居たわけである。このような状況は国家にとって致命的である。

 はっきり言う。日の丸や君が代を拒否するような教師がこの国を駄目にしているのである。靖国神社の英霊(戦犯を含むか含まないかに関しては読者の判断)に対して恥ずかしくないのか。彼らは純粋な気持ちで命を賭してこの国を守り抜いてくれたのである。

 敗戦国としての偏りすぎた自虐的な歴史教育が元はと言えば悪いのである。もちろん先の戦争で日本は何も悪いことをしていないとは言わないが、良いことも沢山しているのである。
 韓国は驚異的な経済発展を遂げた。彼らの言うところの「漢江(ハンガン)の奇跡」である。彼らはこれを自分たちだけで遂げたように言うが、実は大日本帝国がその礎を作っていたことには一言も触れようとはしない。朝鮮半島を大日本帝国に併合した時(1910年)、半島の状況はというと道路網などのインフラが全く整備されてなく村や町は分断されて経済発展はおろか生活水準は非常に低かったそうである。日本は本土の莫大な国税を投じてインフラを整備し学校や病院を作ったのである。彼らは日本語教育で言葉まで奪ったと言うが、初めてまともな教育を受けたことには言及しない。実は併合時代の朝鮮半島では人口が増加したそうである。これをどう解釈するのか。他の諸国、例えば満州国でも同じ政策が採られた。その代表は満州鉄道である。いまも中国にとって東北部(満州)は重要な産業地帯である。

 これらの政策は欧米が行っていた植民地政策とは全く違うものである。欧米列強は植民地から搾り取れるだけ搾り取って何も投資しなかったばかりか、完全な差別政策をとっていた。そう言う時代に日本は現地の人たちのために学校を作り病院を作ったのである。現地の人たちも日本国臣民として差別せず扱っていたのである。日本人でもなることが難しいのに、韓国人の将官が居たことはあまり知られていない。将官級に被差別民族の外国人を登用するなんて考えられないが、みんな日本国臣民だとしたら何ということはない。

 インドのイギリスからの独立を支えたのも日本。オランダと独立戦争を戦ったインドネシアの兵士達を育てたのも日本なのである。これが「大東亜共栄圏構想」が残したものなのである。欧米列強の植民地化の魔の手から亜細亜を守り、亜細亜の諸国が共に発展していくことを構想したのである。結果、尖兵たる日本は志半ばで倒れたが、構想どおりではないものの亜細亜を守り抜いたのである。

 英霊に敬礼しないなんて信じられない。