発見記録

フランスの歴史と文学

移民の波 中国からベルヴィルへ

2008-02-23 21:10:03 | インポート

前回の『ベルヴィルの小学校教師』(1984)には、Lee-Quo という華人少女が登場する。サイゴン生まれ、小柄で「縄跳びをする時でさえ、お辞儀をしているように見える」子。初めて見る黒人少年を物珍しく感じても、「東洋風の作法を教えられている」ので、口には出さない(p.114)。FaridaやMamadouたちの間で、Lee-Quoは特別目立たない。しかし古くからベルヴィルを知るティエリー・ジョンケが『ベルヴィルの静かな日々』 Jours tranquilles à Belleville(2000)で「黄色い台風」と書くほどに、中国系の人たちは街の表情を変えて行ったに違いない。

1980年頃からベルヴィルには中国系住民が急増した。第一の波は、華僑を多く出している潮州(広東省)の出身者。旧インドシナ(カンボジア、ラオス、ベトナム)から難民としてフランスに来た彼らは、中華街のある13区の高層アパートが一杯になるにつれ、ベルヴィルに住み始める。経済的にも力を持ち、よく組織されていた。多くがフランス語を話す。フランスで生まれるか育った子供たちには、学校生活でも言葉の壁がなかった。

1980年代半ばに始まる温州 (浙江省)からの移民は、第二の波となる。今ではベルヴィルの商業の大半で、彼ら温州人が先頭に立つ。同時に不法滞在者も、温州出身が多数を占める。温州にはまた古くからの移民の伝統があった。近年、民営企業主体の経済発展を遂げてきた温州だが、国家の統制の緩みが、一見逆説的な海外への人の流れを生んでいる。親がまずフランスに出て働き、何年もかけて渡航の費用を返済し、農村部の祖父母に預けてきた子供を呼ぶことが多い。この場合子供はフランスの学校に、たやすく適応できない。

中国東北地区Dongbei からの移民は、第三の波と言える。国営工場が基盤の産業構造が解体し、多くの失業者が生まれた。この地方からの移民は主に女性、「呼び寄せられ」型とは異なり、同胞との絆もあまり当てにできない。

第一次世界大戦中、後方での作業や軍需工場での労働に、フランスは多くの中国人を募集した。一部はそのままフランスに残った。中国からの本格的移民の歴史は、この時に始まる。更に「勤工倹学」Travail-Etudesの運動が起こり、鄧小平のような留学生がフランスで働き・学ぶ。以後、中国の共産党政権成立、フランスのインドシナ植民地解放、中仏国交回復、南北ベトナム統一、鄧小平の対外開放政策、これらの出来事がフランスへの移民に影響を及ぼしていく。

主な参考記事
(1) Belleville à l’heure chinoise (Le Monde, 13/06/2006)
(2) "Pour la communauté chinoise, Belleville, c'est Wenzhou à Paris" ( Libération,13/10/2007 )
(3)Problématique de la scolarisation des élèves chinois en France  (PDF)
(Le Casnav de l'académie de Paris) 

casnav.scola.ac-paris.fr/util/telechargement.php?chemin=conf&Fichier_a_telecharger=scola_chinois.pdf

三つの波という整理は記事(1)に拠る。(2)は、アソシアシオン Chinois de France ? Français de Chine 会長Donatien Schramm氏へのインタビューだが、すでに1888年にはフランスに石鹸石(柔らかく彫りやすいので彫刻や印章に、保温性がありストーブなどに用いる)を売りに来た行商がいたという。また同じ浙江省でも温州と青田?Qingtianの出身者は交わりたがらず、リヨン駅近くの中華街 l’îlot Chalon(1970年代に取り壊された)には、専ら青田?の人が集まったとも。中国各地の出身者が住む、この点でもベルヴィルは特別なのかもしれない。

李石曾 Li Shiceng (1881~1973)は1902年に使節の随員としてフランスに渡り、農学を学ぶ。大豆の研究をし、1908年には中国から労働者を招きパリ郊外のコロンブColombesに豆腐の製造会社を設立した。これも移民の先駆けと言えないだろうか。(ドクター嵯峨の近代中国人物余話その3:李石曾を参照)
李石曾の名を知ったのは、 何 長工『フランス勤工倹学の回想―中国共産党の一源流』 (河田 悌一・森 時彦訳 岩波新書、1976)だが、「勤工倹学」の始まりにも李石曾が関わっている。第一次世界大戦中、フランス駐華公使は財政総長(大蔵大臣)の梁士詒に労働者募集の交渉をする。ところが李石曾がフランス政府に献策をした。いわく、梁士詒のような官僚に任せてはいけない、「もしかれらがルンペンや与太者を送ってくれば、仕事ができぬばかりか、フランスの風紀を悪くするやもしれません」 信頼できる人に依頼し「雲南、貴州、四川、広西などという中国西南の各省」で「誠実な農村の子弟」を集めフランスに送り、工場では中国人労働者の教育クラスを開き仏語と「かんたんな国語」、科学の初歩を教えること。もっとも西南各省では人が集まらず、結局は梁士詒がこの「商売」を引き受けた。出かけて行った労働者の多くは華北、山東省の出身者だった。1915年に李石曾の印刷工場と豆腐会社で働く労働者が、察元培、李石曾らの協力で組織したのが「勤工倹学会」である。(『フランス勤工倹学の回想』p.12-14)