発見記録

フランスの歴史と文学

サンドラール 『リュクサンブール公園の戦争』

2008-05-01 11:19:27 | インポート

On ne peut rien oublier
Il n’y a que les petits enfants qui jouent à la guerre.
何も忘れることはできない
戦争ごっこをするのは 幼い子供だけだ

サンドラールの長詩 ? La Guerre au Luxembourg ?は第一次大戦のさなか、1916年に書かれた。引用は英訳に原詩を付したBlaise Cendrars Complete Poems による。

夏の終わりのリュクサンブール公園、戦争ごっこに興じる子供たちは、列を組み行進し歌う(?Une, deux, une, deux / Et tout ira bien…? / Ils chantaient)松葉杖で男の子が拍子を取る、目には眼帯をして。女の子は伝令や看護の役。そんな情景を見つめているのは、現実の戦争を体験してきた詩人の目だ。やがて夕方になり、子供たちは女中や母親に連れられ家に帰って行く。

「松葉杖で男の子が拍子を」と書いたが、
Un blessé battait la mesure avec sa béquille
Sous le bandeau son oeil
子供が何かを松葉杖代わりに、負傷兵の真似をしていたのか?本物の負傷兵が、子供の行進に調子を合わせていたのではないか。迷うのは戦争と「ごっこ」が隣り合わせだからだ。二つの世界が、二重写しになる。

La Somme Verdun
Mon grand frère est aux Dardanelles
Comme c’est beau
Un fusil
ソンム ヴェルダン
兄さんはダーダネルス海峡にいる
何てきれいなんだ
鉄砲は

飛行船がエッフェル塔に近づくと歓声があがる。
On applaudit le dirigeable qui passe du coté de la Tour Eiffel

アンリ・ルソーは1890年の自画像に気球と、建設まもないエッフェル塔を描きこんでいた。それに似たのどかな光景のように思えるが、大戦中にはツェッペリン飛行船がパリに空襲を行なっている。

少年たちは死者や負傷兵の役をやりたがる。

Puis on relève les morts
Tout le monde veut en être
Ou tout au moins blessé
Coupe coupe
Coupe le bras coupe la tête
On donne tout
Croix-Rouge
Les infirmières ont 6 ans
Leurs coeur est plein d’émotion
On enlève les yeux aux poupées pour réparer les aveugles
J’y vois ! J’y vois !
それから死者を起こす
みんなが死者になりたがる
少なくとも負傷者に
切れ 切れ
腕を切れ 首を切れ
なにもかも
赤十字
看護婦は六歳の子供たち
こころ高ぶり
人形の目をむしり取る 兵士の見えない目を治すために
見えた!見えたぞ!

サンドラールは1914年7月29日、新聞掲載のアピールで、Ricciotto Canudo(イタリアの詩人、映画の理論家)と共に在仏の外国人芸術家に志願入隊を呼びかけた。数日後、自らフランス外人部隊に入隊。9月に戦線に旅立つ前に、ユダヤ系ポーランド女性Féla Poznanskaと結婚。1915年5月、アルトワでの攻撃でフランス軍は膨大な数の死者を出すが、サンドラールは生き延びる。「シャンパーニュの戦い」で9月28日負傷、右腕切断に至る。
この日戦場となった「ナヴァラン農場」laFerme de Navarin跡には、後に納骨堂と一体のモニュメントが作られた。詩は亡き外人部隊の仲間三人に捧げられているが、その一人ポルトガル人Xavier de Carvalhoが戦死したのもこの場所である。
http://www.crdp-reims.fr/memoire/lieux/1GM_CA/itineraire.htm
http://www.crdp-reims.fr/memoire/lieux/1GM_CA/monuments/03navarin.htm#site

この詩は戦時下の検閲を経、問題なく出版されている。声を上げて反戦を歌うわけではない。かといって戦意高揚に役立つとも思えない。ただ、? A PARIS / Le jour de la Victoire quand les soldats reviendrons… ?と始まる結びは、そこだけ取り出せば素朴な「勝利の日」の到来祈願と読めてしまう。驚いたことに1920年刊のアンソロジーErnest Prévost et Charles Dornier,?Le livre épique, anthologie des poèmes de la Grande Guerre?(Librairie Chapelot)では「勝利」の章にはこの最後の部分だけが、「勝利の日」のタイトルで収録されたという。(Michèle Touret, ?Manipulations poétiques : Autour de La guerre au Luxembourg de Blaise Cendrars ? PDF この論考には多くを負っている)

機関銃や毒ガスの使用、長い塹壕戦、第一次大戦は戦争のロマン主義を吹き飛ばした。この詩を書いた時、サンドラールの戦争観も1914年夏と同じではありえなかっただろう。しかしそれが「好戦」か「厭戦・反戦」かを二者択一的に問うことに、意味はあるだろうか。

A présent on consulte les journaux illustrés
Les photographies
On se souvient de ce que l’on a vu au cinéma
今度は絵入り新聞や
写真を参考にする
映画で見たことを思い出す

軍の映画部が作られたのもこの時期。フランス中の映画館で、劇映画の前に週刊戦争ニュース les Annales de la guerre が上映された。大量のイメージで戦争を擬似体験する。それは子供だけに限られたことではなかっただろう。現代にも通じる現象への、軽い皮肉を感じ取れなくもない。しかしこの作品全体が―サンドラールは献辞でそれを?ces enfantines ?と呼ぶ―公園の池を海戦の場に変え、大人に負けない情念や衝動を抱えた「幼なごころ」についての省察と言えないか。ヴァレリー・ラルボーの短編集?Enfantines?(1918) を連想させるのは、タイトルだけではない。

生田耕作訳『リュクサンブール公園の戦争』(奢霸都館)を参考にしたかったが古書の値段に仰天。ボードレールやランボーの訳詩集なら数知れずあるのに、サンドラールがあまり訳されていないのは不思議だ。


生きている無名戦士(2) ジャン・アミラ

2008-04-15 17:26:43 | インポート

Omaha_3 Jean Amila La lune d'Omaha (Folio policier)

ノルマンディー上陸作戦の「Dデイ」、物語はLCA(上陸用舟艇)からの視点で書き出される。

 On ne voyait rien que le ciel bas, sauf quand la barque piquait du nez ; alors on distinguait la plage lointaine en rideau grisâtre. La France !

垂れ込めた空しか見えなかった、だが時おり舟の舳先が沈む、すると遠くの砂浜が、灰色がかったカーテンになって見えるのだった。フランスだ!

高波に舟には水が入り、兵士たちはヘルメットで水をかい出す。重苦しい幕開け。オマハ・ビーチ上陸は他の地点と桁違いの死傷者を出した。ライリー軍曹や兵卒ハッチンズにとって、この戦闘はかつて体験したことのないものだった。

二十年後、軍曹は浜を見下ろす米軍墓地の管理人になっている。庭師だった老人、アメデ・ドゥルイの死。老人は死ぬ前、戦後の混乱した時期に、戦死者の骨も牝牛の骨も一緒くたにして埋めたと告白する。軍曹もひそかに感じていた。整然と並ぶ十字架、完璧に手入れされた芝生、星条旗、それらが覆っているのは一つの巨大な共同墓穴だ。? Du bidon pour les familles ! ?(家族のための嘘っ八)

戦場から逃亡し、フランス人ジョルジュ・ドゥルイとして生きていたハッチンズが現われ物語は急展開する。アメデ・ドゥルイはハッチンズが自分の子に成りすますのに協力した代わり、金をゆすり続けていた。アメデの実の子フェルナンとその妻、軍曹と若いフランス人の妻クローディーヌ、軍曹の上官、メイスン大尉と夫人。抜け目のないノルマンディーの農民と、墓地を管理するアメリカ人が形づくる小さな社会に、ハッチンズの帰還は波紋を引き起こす。

ハッチンズの小隊はオマハ・ビーチで、後方にいる味方からの砲撃を受けた。混戦の中、実際にそんなことが起きたのかは(牝牛の話同様)わからない。倒れても倒れても兵士を送り込む、「場」だと感じさせるような作戦。それを計画した者への怒り。兵士が戦場で何かに目ざめ、どんなことをしても生き延びようとするまでは、序章で説得的に描き出されていた。

妻に付き添われ、ジョルジュ・ドゥルイと名乗って現われた時、ハッチンズには今の生活を捨てる気はない、ただ老人の死で恐喝が終わることを願っていた。じっと息をひそめ生きてきた男が、やがてジョージ・ハッチンズに戻ろうとする、その劇的な変わり様。夫の保護者を演じていた妻ジャニーヌ、脇役にすぎなかった軍曹の妻クローディーヌ、彼女たちの役割も刻々変化して行く。謎解き小説の技巧とは異なるが、作劇術の見事さで引き込み、驚かせてくれる小説。初版は1964年の叢書「セリ・ノワール」版。

アミラ(1910-1995)の本名ジャン・メケールによる?La marche au canon?(1939~40年の「奇妙な戦争」を一兵卒の目で描く)の巻末伝記によれば

パリ10区で1910年11月24日生まれる。第一次大戦中の1917年、アナーキストの父は塹壕から脱走、妻子を捨てて新たな人生を始める。噂を止(や)ませるため、母親は夫が「見せしめに銃殺」されたことにする。メケールは「セリ・ノワール」の一冊として出版された小説で、この修正された家庭ドラマに肉付けを行なうだろう。驚くべき混同現象によって、虚構が現実に取って代わる。作者に当てられた伝記的記事はみな、小説版をメケール/アミラの実人生として示すだろう。作家自身、インタビューでの問いには、その時次第、どちらかの答え方をしている。
銃殺されたか否か、いずれにせよ夫を失いメケール夫人の精神的安定は乱される。隣近所の目には夫人はボルシェヴィキであり、彼らの態度は、状況をいっそう耐えがたくする。彼女は二年の間ル・ヴェジネの病院に収容され、ジャンはクールブヴォワのプロテスタント孤児院で四年を過ごすことになる。

Hurlus_3 八歳の少年ミシェルが主人公のLe Boucher des Hurlus (Folio policier)がその「小説版」である。父は1917年、突撃の命令に従わず銃殺された。休戦からまだまもない頃、「臆病者」の妻と子は日々罵られ侮辱を受ける。ある日、同じアパートの女に傘の先で打たれた母親は、たまりかね反撃する。女と亭主の訴えで、母親は警察署に連れて行かれる。孤児院に入れられたミシェルは、同じように父親が銃殺された三人の少年と脱走、兵士に無意味な犠牲を強(し)い、屋 le Boucher と仇名された将軍に復讐しようとする。

戦争の長期化につれフランス軍の士気は低下した。1917年には西部戦線で、ニヴェル将軍の指令による「シュマン・デ・ダームの戦い」la bataille du Chemin des Damesが多くの犠牲者を出し、厭戦・反戦の気運を高める。この年「五月から六月にかけて、三万~四万の兵士が不服従の行動にでた。『反乱』兵のうち五五四人に死刑判決がくだされ、四九人が処刑された」(福井憲彦編『フランス史』山川出版社)
戦後、少数だが「反乱」兵士のための記念碑が設けられた。クレルモン=フェランに近いリオム Riom の墓地には、「祖国に命を捧げた」戦死者の記念碑と向かい合って、銃殺された兵士のためのオベリスクが立っている。1922年の除幕式では警官隊が介入し、「戦争と戦おう」Guerre à la guerre と記された横断幕や旗をもぎ取ろうとした。(?Dès 1922, Riom a érigé un monument pour les fusillés de 1917?, Le Monde 12.11.98)
休戦80周年の1998年にはジョスパン首相が、クラオンヌCraonneの式典席上、シュマン・デ・ダームの戦いのさなか銃殺刑を受けた兵士の名誉回復を図り、シラク大統領らがこれに異議をはさんでいる。(World War I Sets Off A New Battle In France -The New York Times)

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Souain-Perthes- lès-Hurlus では四人の伍長が処刑されたが、1915年のこと。キューブリック監督の『突撃』は「一部この事件に霊感を得」( Wikipédia)ている。それに似た出来事が、1917年にもあったのか?(アミラの小説では、「屋」将軍の名は戯画的な Des Gringuesになっている)
孤児院から逃亡した子供たちはパリの東駅で、軍の「フィアンセ」に会いに行く娼婦たちと出会う。女将のマダム・ジェルメーヌは子供たちに同情、列車に乗せてもらうことになる。「戦争孤児」を盾に取り、大人を利用してしまうあたりの皮肉なおかしみ。Châlonsから先は危険な「荒廃地帯」les régions dévastés だが、「何とか大尉」le capitaine Machinの好意で軍用バスに同乗。将軍殺害の武器を戦場で手に入れるはずだったが、あるのはただ堆く積み上げられた骨の山、村は跡形もない(Perthes-lès-Hurlusはそのまま復興されることなく、Souainと合体して一つのコミューンになる)
将軍を殺す計画も、空想好きの少年たちならではのとんでもないもので、おかしさも、挫折の物悲しさも、大人を主人公にしたのでは得られなかっただろう。この作品も、謎解き小説ではない。1982年の作。


生きている無名戦士

2008-03-31 06:46:35 | インポート

Unknownsoldier Jean-Yves Le Naour The Living Unknown Soldier (Arrow Books)

英訳本。原題 は?Le soldat inconnu vivant?

1935年、?L’Intransigeant?紙に連載された記事は、第一次世界大戦中に記憶を失い、いまだ身元の知れない男の物語だった。1918年2月1日、リヨンのブロトー駅をさまよっているところを見つけられたという。たどたどしく口にした名から、仮にアンテルム・マンジャンAnthelme Manginと呼ばれた男は、早発性痴呆dementia praecoxと診断され、ロデス(ロデーズ)の精神病院には16年以上いた。記憶を取り戻すことのないまま、1942年パリのサン・タンヌ病院で息を引き取る。

記事の「さまよっていた」は正確でなかった。ドイツから、同様に精神に異常をきたした捕虜たちと共に送還されたのだ。著者ル・ナウルは真偽ないまぜの新聞記事、またバルザック『シャベール大佐』やアヌイ『荷物のない旅行者』(1937年初演)などの文学作品を挙げ、「生きた無名戦士」をめぐる物語の形成過程をたどる。

第一次世界大戦が終わった時点で、行方不明のフランス軍兵士は30万人以上いた。捕虜の帰還と遺体捜索が進むにつれ不明者の数は減って行く。だが塹壕戦の死者を捜すのは、容易でなかった。本書が引く「祖国のために死んだ息子の父母の会」会報の数字では、1919年から39年までにおよそ7万人の遺体が発掘された。

第一次世界大戦は「砲弾(シェル)ショック」と呼ばれる戦争神経症の患者を生んだ。記憶を喪失した兵士も、アンテルム・マンジャン一人ではなかった。挿絵として収められた?Le Petit Parisien?紙の広告には、マンジャンら6名の顔写真に収容先、身体の特徴などが付記される。マンジャンの場合が特異なのは、わが子、わが夫だと信じる家族が続々と現われたことだ。しかしマンジャンは誰と会ってもほとんど反応を見せない。そもそも意思の疎通が困難な状態だった。ロデスの病院施設は前近代的で、開放病棟も設置されていなかったが、マンジャンは特別待遇、快適で風通しの良い個室を与えられた。いわば有名人であり、結核の初期で治療が必要だったからだ。

一人の人間を、何組もの家族が奪い合う。争いは法廷に持ち込まれる。最終的には、有力候補であるピエールとジョゼフ、モンジョワンMonjoin父子(ジョゼフの兄オクターヴは1914年にドイツの捕虜となり、16年以後音信を絶っていた)に、マンジャンが夫マルセルだと信じるリュシー・ルメーLucie Lemayを始め、それぞれに強い確信を持った数家族が挑む構図となった。
オクターヴ・モンジョワンは捕虜収容所でやはり早発性痴呆の診断を受け、1918年1月31日、捕虜を帰還させる列車に乗車した。ドイツの資料でこのことが確認され、オクターヴ・モンジョワンとアンテルム・マンジャンの同一を疑う余地はなくなった。1937年11月にはロデス裁判所がこれを認める。ルメー夫人らは、判決を不服としてモンペリエ控訴院に訴えるが1939年3月敗訴。しかし同年にはモンジョワン父子ともに亡くなってしまう。破棄院での審理は開戦により中断。
出生率減少を憂うフランスでは、ナチス・ドイツのように精神障害者の強制不妊手術や抹殺こそ計画されなかったが、戦時の配給制の下、精神病院の患者は十分に食糧が与えられず飢えに苦しんだ。患者がゴミを漁るような状況で、自発的に食事を取ろうとさえしないマンジャンが生き延びることは難しかった。衰弱死したマンジャンはパリの郊外バニュー墓地の共同墓穴に葬られる。憤りの声も上がり、1948年になって故郷サン=モールSaint-Maur-sur-Indreの墓地に、オクターヴ・モンジョワンとして埋葬された。

マンジャンの運命は、裁判以後忘れ去られて行った。終章で著者はそのわけを考える。まず謎が解けたことで、世間の興味が薄らいだ。だが忘却には、より深い意味がある。凱旋門下の「無名戦士の墓」に眠る兵士は、名前も家族もないことで、すべての死者を象徴し得た。名前を持ったマンジャンは「生きている無名戦士」のステイタスを喪失したのだ。
フランスにとって第一次世界大戦の勝利はあまりにも苦いものだった。おびただしい数の死者に対して繰り返される儀礼。喪失と衰退と、帰還しなかった者への深い負い目の感覚は、長く尾を引いた。1918年の英雄が死んだ兵士だとすれば、1944年の「解放」で始まる新たな時代には、雄々しく野蛮と戦い勝利したレジスタンスの闘士、生きた英雄が求められていた。


フォークランドの鯨 ピエール・ブール La baleine des Malouines

2008-03-17 09:46:16 | インポート

Pierre Boulle, La baleine des Malouines (Julliard, 1983)
『フォークランド戦争―" 鉄の女 "の誤算』(サンデー・タイムズ特報部編/宮崎正雄編訳 原書房 1983)

Locationfalklands 1982年春、英国とアルゼンチンとの間にフォークランド諸島の領有権をめぐり戦争が起こる。ピエール・ブールの小説?La baleine des Malouines?(「マルヴィナス(フォークランド)の鯨」)は翌年に刊行された。

洋上の英国艦隊に、最高司令部から緊急連絡が入る。エディンバラ公は王立鳥類保護協会の集まりで、海軍に警告を発された。「注意なさい!鯨目( 鯨・いるか)はレーダーではよく潜水艦のように見えます」(? Attention ! Les cétacés apparaissent souvent sur les radars comme des sous-marins.?)世界自然保護基金総裁としての発言だった。
折りも折り、駆逐艦「デアリング」Daringの艦長クラーク少佐は当直士官の報告を受ける、レーダーが未確認物体を検知した。艦にはフォークランド出身の元捕鯨船乗組員ビョーグBjorgが同乗する。北欧系で、捕鯨の英雄時代を知る祖父の物語を聞き育った。退職後は英国でイルカの訓練師に。作戦行動のガイドとして雇われたのだ。
物体がレーダーから消えた。マッコウクジラなら、1マイル以上潜れるんだ―ビョーグが鯨の知識を披露する。物体が雌と雄、二頭のシロナガスクジラだとわかるまでのサスペンス。

シャチの群れに襲われ、鯨の一頭は死ぬ。もう一頭が、助けを乞うように艦に接近して来る。少佐はためらった末、シャチへの一斉砲撃を命じる。鯨の目は「ほとんど人間のよう」、駆逐艦に「なつき」、「犬のようについて来る」。
「マルゴおばさん」と呼ばれるようになった鯨の体に、びっしりと寄生虫がつく。海軍の「騎士たち」は大掛かりな掃除作戦に取り掛かる。グルカ兵(山岳戦に強いネパールのグルカ族出身)が、鯨の体によじのぼる。
艦隊がフォークランド島に近づくにつれ、緊張が高まる。鯨が何かをおもちゃにしていると思えば、機雷だ!掃海に協力し、上陸作戦のさなか、海に投げ出されたビョーグを救った鯨は、最後には旗艦空母を敵の魚雷から守るため命を捨て、ヴィクトリア十字勲章を授与される。
海には古来から魔物が潜む。将校から兵士まで艦隊挙げての鯨熱を、海軍大将はenvoûtement (呪術、魅惑、とりこにする)と呼ぶ。自然保護や環境・エネルギー問題に皮肉な目を向けることの多かったブールだが、辛辣さは抑制され、珍しく無垢な、気持ちの良い作品になっている。
エピグラフにも用いられたエディンバラ公の警告は、創作ではないようだ。

Philip Fears Whales Will Perish in Conflict
SPECIAL TO THE NEW YORK TIMES
Published: May 12, 1982
The Duke of Edinburgh expressed his regret today that the conflict over the Falkland Islands would probably lead to the death of many whales.

''The British task force in the Falklands area obviously has to protect itself against submarines,'' he told a meeting of the Council for Environmental Conservation. ''Unfortunately for the whales they return an echo which is like that of a submarine. I can only assume that a great many ofthem have been killed as a result.''

http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9E0CEFD61438F931A25756C0A964948260&sec=&spon

領有権争いは19世紀にさかのぼる。『フォークランド戦争―" 鉄の女 "の誤算』(サンデー・タイムズ特報部編)によれば1820年にアルゼンチンの艦隊がフォークランド諸島を占拠、26年には植民が始まった。しかし1833年、英国の砲艦が来襲、アルゼンチン守備隊は島を撤退。建国まもないアルゼンチン共和国の威信は、大きく傷ついた。
英国政府は1852年、「フォークランド諸島会社」に設立勅許を与えた。事業内容は主に羊の放牧。1978年に島を訪れた記者は書いていた、「良かれ悪しかれ、フォークランドは会社の島なのだ」
第二次大戦前には領有権をアルゼンチンに与え、英国が借り受ける「租借」案が協議された。戦後も交渉が行なわれたがまとまらない。1976年アルゼンチンに軍事政権が成立して情勢はにわかに緊迫する。英国による占領150周年の1983年1月までにアルゼンチンが何らかの行動に出ることは、あらかじめ予想された。にもかかわらず、英国の情勢判断は「救いようがないほど楽観的」だった。外務省も、海外情報を評価し首相に伝える「統合情報委員会」も、十分に機能していなかった。
アルゼンチン側にも読み違いがあった。英国の行なった二つの決定(南ジョージア島の南極観測基地の廃止、流氷哨戒艇エンデュランス号の廃船)から、英国はフォークランド諸島を守る気が薄れたと判断した。英国は誤まったメッセージを与えてしまった。もっと明確に武力行使の意志を示すべきだった。これは「起きなくてもよかった戦争」だった。

戦いに勝ち、サッチャー政権の支持率は一気に上昇した。しかし英国側にも多くの犠牲者が出た。敵空軍への優勢を確保しないうちにフォークランド諸島に上陸するのは、軍事的に無謀だった。英国とアルゼンチンの空軍には「タカとムクドリ」の力の差があったが、必死のムクドリは予想以上に手ごわかった。

英空軍の垂直離着陸機「ハリアー」は、ふいに高度を上げる飛行法「ヴィフィング」viffing で、アルゼンチンのミラージュ戦闘機との空中戦に「圧勝」する(もっともWikipediaはこの点、留保をつける)。軍事マニアでなくても興味を引かれるところだが、『鯨』には「ハリアー」や「エグゾセ」の名は出てこない。ブールが南ジョージア島攻略をわずか5行で片づけるのは、早く鯨との遭遇に進みたいからだ。鯨、鯨!

海軍大将が言う、アメリカ海軍なら、レーダーが検知してすぐ、鯨に火の雨を降らせていただろう。英国的性格の不思議、これは『戦場にかける橋』(関口英男訳 ハヤカワ文庫 1975 原著は1952年刊)と『鯨』に共通の主題である。


フランス勤工倹学とリヨン中仏大学

2008-02-28 17:40:24 | インポート

(前出『フランス勤工倹学の回想―中国共産党の一源流』とリヨン市図書館のL’Institut Franco-Chinois de Lyon (1921-1946)による)

勉強に集中するため、何長江(かちょうこう)は同じ中国人学生のいる大都市を避け、サン=セルヴァンSaint-Servan-sur-Mer (現在はサン=マロの一部)の学校を選ぶ。教会学校だが校長は共産党員、総合的な中等技術学校で、工場も付設されていた。夏休みにはパリで働く。臨時工から街のごみ掃除までやった。第一次大戦で荒廃した北部の町で「現場の片づけ」もした。中国の留学生は二派に分かれていた。「一派は、官費留学生と裕福な自費留学生である。もう一派は、すなわちわれわれ勤工倹学生であった」
勤工倹学は理念の上では画期的なものだった。中国の軍学校や外国語学校で近代的教育を受けたわけではない、また富裕家庭の子でもない青年に、海外で学ぶ機会を与えた。技術的・専門的知識、免状の取得よりも、彼らが「慎ましい生活と辛い仕事に固有の習慣と生活様式を習得し、同時にフランスに固有の進歩的・共和主義的価値と理想を、自然に身につける」l’acquisition d’habitudes et modes de vie propres à une vie frugale et au dur labeur, tout en s’imprégnant des valeurs et des idéaux progressistes et républicains (Le mouvement travail-études ) ことが目的とされた。
しかし不況下、工場閉鎖の相次ぐフランスで、学生が職を見つけられず窮乏化するのも無理はなかった。強固な財政基盤を持たない中仏教育会は、結局本国からの援助が頼り、学生の力になることができない。青年たちが思想的に一様だったとは想像し難いが、中には十月革命に影響を受け、直接行くのが困難なソ連の代わりにフランスに来た者もいた。勤工倹学を提唱し中仏教育会を設立した呉稚暉(ごちき)や李石曾(りせきそう)さえ、何長江の目には「フランス資本家の走狗」に過ぎない。彼らと勤工倹学生との間には、明らかに政治的な開きがあった。中国とフランスの協力で開設されたリヨン中仏大学 (l’Institut Franco-Chinois de Lyon 里昂中法大学 )は、激しい衝突の舞台になる。

絹織物の産地リヨンは、中国と古くから経済的文化的な縁がある。リヨン大学には1900年から極東文明の講座が設けられていた。李石曾たちとしては、学生が政治活動に気を散らさず勉学に励むのに、パリよりも適していると考えたようだ。リヨンの西、丘の上の、もともと兵舎だった建物が校舎になる(Fort Saint-Irénée 写真はLyon historique ? Les remparts de Lyon に) 初代校長は呉稚暉と決まった。開校が迫り、規約が明らかになるにつれ、入学を認められるのが中国国内の試験合格者(何長江によれば、官僚や富豪の師弟ばかり)だと知り、勤工倹学生は激怒した。1921年秋の「リヨン進撃」la marche sur Lyonとして知られる抗議行動は、校舎の占拠、武装警官の出動に至る。行動に参加した学生の大半が中国に強制送還された。入学試験がフランスに住む中国人対象と限られるのは、1920年代末のことである。
リヨン中仏大学は終始財政難に苦しむが、1946年までに登録された学生の数は473名に上る。名簿(PDF) 「彼らの中の多くはその後帰国して働くことになり、多くが我が国の科学界、教育界と文化の芸術界の中堅の力にな」った。(神州学人---里昂中法大学??始末 
Exciteの中→日自動翻訳による)

第二次大戦後フランスは国の復興に取り組まねばならず、中国では国民党と共産党の内戦が再燃する。大学のこれ以上の存続は困難だった。1946年10月1日、石貞德  Shi Zhende という化学専攻の女学生が登録されたのが最後になる。

大戦中から大学も図書館も、活動を停止していた。建物はフランスの軍事病院に、またリヨンのゲシュタポ諜報本部に徴用された。 この間、図書と大学の文書記録を隠し守ったのは、中仏大最後のフランス側会長でリヨン大学中国語学科教授ジョルジュ・デュバルビエ(Georges Dubarbier 1888-1972 邦訳に『近代中国史』文庫クセジュ 1955)である。蔵書はその後le Fonds chinoisとしてリヨン市図書館に移管された。

本来「西学」を学ぶ場に、定期刊行物を含む多分野の中国語書籍が集まった経緯は定かでないが、この時代の中国の知的状況を反映した貴重な記録になっているという。詳細は、IFLA(国際図書館連盟)2006年ソウル大会での発表 From the “Library of Chinese students in France” to the “Chinese collections of the Lyon Municipal Library” (Valentina De Monte, Bibliotheque municipale de Lyon )(PDF)