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履修漏れ高2に盲点 「救済なし」に現場苦慮(高知新聞)

2006-11-09 | アカデミック
履修漏れ高2に盲点 「救済なし」に現場苦慮(高知新聞)

またまた,見識ある教育者の方々が怒り狂うであろうニュースが出てきました.

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(追記)
↑↑これよりもっと怒り狂うべきニュース.
「私学には独自性」必修漏れで東京協会長が文科省批判(asahi.com)

「大学教員」の評価は

2006-11-08 | アカデミック
教授の評価は(asahi.com マイタウン 多摩)

多くの大学で行われている「授業アンケート」についての論評.
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が、氏名無記名であることから、直接教授を中傷するたちの悪いものも出る。… 大学当局はそれを教員にそのまま見せる。
学生は教育される者、修行中の身である。そういった彼らに評価を無記名でやらせれば、こうなるのは自明のことで、ほかのやり方があるのではないかと思う。
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困ったことに,いまどきの学生には「自分が授業内容を理解できないのは教員が一方的に悪いからだ」といわんばかりの屈折した権利意識を持つ人が少なくありません.
私の職場でも,つい先日,前期のアンケート結果が教員に通知され,まさに指摘されたことが起こりました.
私の職場の場合,アンケートシステムを運用している組織が,ここで指摘されている弊害を認識していて,教員側からの「アンケート結果へのコメント」,すなわち反論の機会を設けている点で,まだましなほうです.中傷を書く学生がそれを読むかどうかという問題は残りますが,教員が「やられっぱなし」になることは避けられます.

「教育はサービス業」という指摘を全否定するつもりはありませんが,私は,大学教育は教員が学生に一方的にサービスするものではなく,教員と学生が共同参画して成果を挙げるべき営みだと考えています.そして,学生の参画とは,教員と学生が面と向き合う教室の中で行われるべきもので,匿名のアンケートで不平不満を述べることとは違うはずです.

授業アンケートのもうひとつの問題点を指摘しておきます.大学として組織的にアンケートを行うと,低年次の学生は一度にたくさんの授業のアンケートへの回答を求められ,しかも,回答すること自体の手間がばかになりません.そうなると,いきおい回答に対する態度は投げやりになるでしょう.
私の前の職場でも,授業アンケートの話題が地方紙の社会面に載りましたが,「面倒だから適当に記入した」という学生の本音が記事に書かれていました.
だから,この手のアンケートに実効性を持たせるためには,回答項目を絞り込んで(5項目程度),回答の手間を極限まで少なくすべきです.
私の職場のアンケートは,5~6段階評価が12項目,自由記述が2項目で,しかも各学生が学内ネットワーク端末で回答するシステムなので(学生が自発的にログインする必要がある),回答の手間は馬鹿になりません.もっとも,アンケート実施期間内の任意のタイミングで回答できるという点では,教室でマークシートを配ってすぐに回収する方法よりはよいのかもしれません.

ところで,
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よく言われている10年前のノートをただ読んでいる教授がいることもその一つの表れであろう。
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という指摘については,私の経験から,「そういうステレオタイプな批判があてはまる大学教員はいまや少数で,多くの教員は授業改善に熱心である」と弁護しておきます.
それから,「10年前のノートをただ読んでいる」という決まり文句の揶揄は感心しません.問題点を「10年前のノート」と「ただ読んでいる」に分解して,それぞれの是非を分析すべきです.教える内容に十分な永続性と普遍性があって,10年前のノートが今なお通用する優れたものであれば,それを使い続けることを咎める理由はありません.最新の教科書の中にも劣悪なものはあります.「ただ読んでいる」については,読む対象が10年前のノートであろうと最新の教科書であろうと無関係で,「10年前のノート」と結びつけて揶揄するのは,まっとうな批判とはいえません.

大学の授業も町のパソコン教室以下

2006-11-05 | アカデミック
町のパソコン教室以下Okumura's Blog
実態は「町のパソコン教室」以下 これでよいのか!高校のIT教育(日経コンピュータ)

これで思い出したのですが、私の前の職場での話。
学部4年次対象の「情報××実験」で、課題のひとつが「HTML」でした。何をするかというと、ごく簡単なHTMLの雛形をもとに「私のホームページへようこそ!」程度の顔写真つきウェブページを作るというものでした。当時助手だった私は、若気の至り(^^;)で、当該課題担当の助教授に「あなたの作った課題は町のパソコン教室以下だ。そんな課題で単位を出して学生を卒業させるのは学科の恥だ!」と喧嘩を売ってしまいました。
結局、その課題は時間が短縮されて他の課題に時間が振り向けられましたが、まもなくカリキュラム改変で実験のやり方自体が大幅に変更されて、HTMLの課題は消滅しました。
私は喧嘩を売った落とし前をつけるべく、新しい実験科目(学部3年次対象)の開始にあたって「HTMLによる文書作成技法」と題した課題を提案しました。この課題は1年限りでしたが実施されました。章立てのある論説文をHTMLで適切にマークアップしてCSSで視覚効果をつけるなど、論理的なマークアップに重点を置いた課題でした。

それはともかく、高校の情報科の授業や大学の情報なんたら学科の授業と、町のパソコン教室とでは、そもそも目的が全く違うので、以上とか以下とかでなく「比較不可能」なはずなのに、そういう認識が乏しいところに、根本の問題がありそうですね。高校の情報科の授業が「町のパソコン教室『以上』」になったらそれでいいのかというと、それは違う(そういう問題ではない)はずです。

新科目「情報」、受験対策にすり替え 入試に出ず

2006-11-05 | アカデミック
新科目「情報」、受験対策にすり替え 入試に出ず(asahi.com)
朝日が取り上げてくれた(Okumura's Blog)

私の職場も「情報」の文字を看板に掲げているので,他人事とは思えず,ブログします.

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(追記)
教科「情報」ってそんなものですか。情報科blog

うーん,笑えない.つい先日,「数理」「情報」の両方を看板に掲げた学科の卒業研究仮配属(学部3年次)があったのですが,「数学とか理論の勉強は嫌,パソコン使って楽しそうにやってる研究室がいい」という学生の好みが露骨に現れる結果になりました.

(追記)
情報科の問題情報科blog
教科「情報」、ちゃんとやってもらいましょうね!ネットで教科「情報」日記

なし崩しの未履修救済策への批判的論調

2006-11-04 | アカデミック
未履修救済策/受験至上主義にもメスを(神戸新聞)
教育の原点から改善を 未履修問題(高知新聞)
履修漏れ救済 責任の所在の検証急げ(中国新聞)

地方紙の社説は連日この問題を論じていますが、あからさまな政治介入による補講時間軽減に対しては批判的な論調が支配的です。
「五十歩百歩」という言葉がありますが、「不足70時間超の生徒の負担が減らされるんだから、不足70時間ちょうどの生徒の負担も減らせ」という主張は、根本的に考え方が間違っているというか、根性が腐っています。筋を通すことこそが生徒の真の救済ではないでしょうか。安直な「なし崩し」を認めているようでは、高校カリキュラムの崩壊を今後食い止めるのはますます困難になるでしょう。

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(追記)
支局長からの手紙:それを言っちゃあ… /京都(Yahoo! ニュース/毎日新聞)

(11月5日追記)
『救済』とう名のゴマカシの尻拭いに大学はもっと怒るべき辰己丈夫の研究雑報

世界史、日本史、地理は関連しており、世界史を学ぶことは無駄ではない

2006-10-31 | アカデミック
各地の高校で補習授業が本格化…生徒は複雑(毎日新聞)

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…教諭は「世界史、日本史、地理は関連しており、世界史を学ぶことは無駄ではない。ピンチをチャンスと置き換える前向きな気持ちで学んでほしい」と語りかけた。
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馬脚を露わすというか,語るに落ちるというか… だったら,最初からごまかさずに,必修科目の指定通りに世界史の授業しなさいよ.

高校必修未履修と高卒認定

2006-10-28 | アカデミック
高校未履修問題救済の逆転の発想を書いているうちに,冗談でなく現実的な救済策(というか「抜け道」)を見つけてしまったので,別記事として書きます.

進学校には最初から浪人前提で受験計画を立てる生徒もいるでしょう.そういう人は,高校が実施する補習授業などあてにせず,単位不足のままあっさり退学して,浪人中に高卒認定(以前「大検」と呼ばれていた検定試験)を受けて自力救済する道があります.その場合,在学していた高校の卒業証書はもらえませんが,大学入学資格と,社会で通用する高卒相当の学力の認証が得られます.

ところで,高認の試験科目に世界史はありますが,芸術・保健体育・家庭・情報はありません.さらに,高校で単位取得済みの科目は高認の受験が免除されます.高認の免除要件は複雑なようでよくわかりませんが,単純に考えると,履修漏れ科目が芸術・保健体育・家庭・情報だけなら,高認は出願するだけで自動的に合格することになりますよね.世界史が未履修であれば,高校が実施する補習のうち世界史だけを受けるか,世界史だけ高認の試験を受ければよいわけです.

…ということは,今年度の高認の出願期間は終わっていますが,今から緊急に,今年度中に高認をもう1回実施すれば(さらに高校3年で実質的に履修中の科目も免除対象に加える),問題になっている高校履修漏れ生徒の大部分は,補習授業を行うことなく救済できるのではないでしょうか!?
生徒本人は「在学した高校の卒業証書をもらえない」という形で(実害の少ない)ペナルティを受けることになり,高校で本来の必修科目を修めて卒業した生徒のメンツも立ちます.不正を働いていた進学校にとっては,単位不足の生徒が有名大学に進学しても「卒業生」として宣伝できなくなるので,大きな痛手となります.

まあ,これはあくまで理屈を論じたまでで,そういう形での救済策が適切かどうかは,また別の話です.

高校未履修問題救済の逆転の発想

2006-10-28 | アカデミック
はじめに断っておきます.以下の内容はあくまで冗談です!

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高校必修科目の履修漏れの問題で,冬休みや入試後の補習授業などの救済策が取りざたされていますが,ふと,全く逆の発想の救済策を思いつきました.

簡単なことです.単位不足の生徒は高校を卒業しなきゃいいんです.

そのかわり,国内のすべての大学に,「高校に3年間在学したが履修漏れで卒業できなかった」生徒に入学を認めるように要請するのです.

現状でも,学校教育法第56条第1項および同施行規則第69条で,18歳以上で高卒相当以上の学力ありと大学が認めた者は大学入学可とされていて,各大学の入試出願資格もそれに準拠しているので,その条文の拡大解釈で運用すればよく,荒唐無稽な話ではありません.

高校を卒業しなくても大学に入れるなら,受験対策で必修科目をごまかしていた高校は,補習授業などする必要はありません.開き直って「卒業証書を出さない」と宣言して,堂々と受験一辺倒の授業に突っ走ればいいんです.それでもきちんと生徒を卒業させたいと思う高校は,きっちり不足単位分の補習授業を行うでしょうが,生徒はそれを受けない(卒業を放棄する)という選択が可能になります.

受験対策で必修科目のごまかしを行っていた学校の大半は進学校でしょうし,「受験科目を集中的に勉強したい」のが生徒の本音なのですから,大学の入学資格さえあれば,形式的に高校を卒業できるかどうかなんて,彼らにとってはどうでもいいのではないですか?
彼らの形式的学歴は高校「退学」ですが,大学入試合格という事実をもって,ある程度客観的な学力水準の証明がなされます.
現実的には,社会に出るときに大学卒業は高校卒業の「上位互換」でしょうし,大学に入学したという事実だけでも高校卒業の上位互換としてある程度機能するでしょう.

要するに,「受験科目の勉強に集中したい(させたい),受験科目以外の勉強は無駄」というのが高校・生徒・保護者の一致した言い分なのですから,学習指導要領を履行させることに失敗した教育行政の側が折れて,彼らの言い分を丸呑みするのです.
そのかわり,履修漏れの生徒には「卒業証書を受け取れない」というペナルティを与えることで,行政として示しをつけます.なし崩しで卒業を認める形での救済よりは,筋が通っています.
もっとも,たとえば大学が「高校で情報履修済みの前提で情報教育の授業計画を立てていた」などという場合は,あてが外れて,大学が教育行政の失敗の尻拭いをする結果になりますが,その程度のことは,昨今の学力低下や高校カリキュラムの多様化の影響で,ほとんどの大学がすでに(不本意ながら)やっています.

この方法にはもうひとつ利点があります.過去にさかのぼっての適用が可能なのです.単位不足状態で既に卒業した人には,単に卒業証書を返上させて,大学在学の資格はそのまま保持させればよいのですから(卒業証書を手放したくない人には,高校が大学の休みにあわせて補習授業を実施するとか).

そうなると,履修漏れがなくて順調にいけば卒業できる高校生も,「なんだ,卒業できなくても3年間在籍さえすれば大学に入れるんだ,それじゃ世界史も情報もさぼって自分で受験勉強したほうが得だよね」といって,多くの生徒が雪崩を打って卒業を放棄して,受験に関係ない授業をさぼり始めます.高校のほうも「ウチは進学校だから形式的卒業より合格率アップのほうが大事」とばかりに,受験に関係ない必修科目の授業提供を堂々と放棄するでしょう.
正規のカリキュラムを提供し続ける高校を選んで,まじめに授業を受ければ,卒業証書がもらえますが,それは,高卒で就職する人のためか,あるいは,大学を中退したときのための「保険」程度の役割を果たすことになります.

やがて,高校の卒業証書を得た学生と,そうでない学生が,ともに大学を卒業して,社会に出ます.そのとき,高校で学習指導要領に則ったカリキュラムで世界史も情報も学んだ人が,そうでない人と比べられたときに,社会においてどれだけのアドバンテージを得るでしょうか.実のところ,周囲からは大学を卒業した事実しか注目されず,何のアドバンテージも生じないことは十分考えられます.

かくして,「高校卒業って何? 必修科目なんて何の役に立つの?」という世論が支配的になり,学習指導要領に基づく高校カリキュラムは崩壊します.その一方で,大学入試は事実上の高校卒業検定として,本来とは異なる役割を負うことになります.

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「先生に丸をもらえればいい」の延長

2006-10-26 | アカデミック
そろそろ情報にも手が回ってきたか不定期戯事

高校未履修科目問題に関するリサーチで見つけた記事ですが,より一般性のある意見と考えたので,別記事としてブログします.

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…そしてそれは,学生時代の「先生に丸をもらえればいい」の延長にあるものだ。社会人になれば先生が上司や役所に代わるだけのことで,本質的なところは何も変わってはいない。マンションの強度偽装,岐阜県庁の裏金…世を賑わしたそれらの事件も根は同じ,誰かに自分の行動を採点してもらって丸(あるいはハンコ)をもらうことが目的だと勘違いした結果だ。君たちは自分の行動を自分で採点できる大人になってほしい。
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これについては,まさに私の本業に関わります.私が関与する学生たちからも,「答案の書き方がわかりません」「答の書き方はこれでいいんですか?」「演習問題の模範解答はもらえないんですか?」という質問というか文句をさんざん聞いています.
もっとも,大学は全人教育の場でもあるので,そういう学生の態度を一方的になじるのでなく,「自分の行動を自分で採点できる大人」を育てるための手だてを考えることも重要でしょう.

私はそういう考えで,今学期から,1年生対象の数学(微積分・線形代数)の演習科目は,試験形式でなく発表形式で行うことにしました.答の書き方を丸暗記しただけの学生は,発表させるとボロが出ます.また,宿題を出題しますが,宿題答案を形式的に提出させることはせず,宿題と同じ(または類似の)問題を「小テストに出題する」か「発表させる」ことにしました.宿題を提出させると,友人の答案を(何も考えずに)丸写しする輩が必ずいるからです.いったん自分でとことん考えて答えに至った問題なら,直後にテストで問えば困難なく再現できるはずです.

高校必修教科履修漏れ問題

2006-10-26 | アカデミック
やはり,というか,なんとまあ,というか,あきれてものが言えない状態はまだ続いていますので,目についた報道記事やブログ投稿をチェックするにとどめます.

必修教科 のしろの徒然日記
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なぜその科目が必修なのか、本当の意味を考えればわかるはずだが、皮肉にも今回の事件のようなことが発生するのはどこか教育の進み方が間違っているからだと思わざるをえないのが残念である。
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10月26日(木)「進学ぼけ高校」 (紀伊民報)
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高校の学習指導要領では、必修の世界史に加え、日本史か地理のどちらかを教えなければならない。それを1科目だけにした。必修科目を節約して、受験に必要な科目の時間をひねり出したのである。こういうのを進学ぼけ高校という。
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必修履修せず197人卒業ピンチ 富山・高岡南高

2006-10-24 | アカデミック
必修履修せず197人卒業ピンチ 富山・高岡南高(asahi.com)

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同校や県教委によると、学習指導要領では世界史、日本史、地理の3教科から2教科を選ぶことになっていて、世界史は必修となっている。しかし、同校では昨年春ごろ生徒から「受験に必要な教科だけにしたい」との声が上がり、昨年度は3教科から1教科だけの選択でも可能とするようにした。
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呆れてものもいえないので,ブログだけしておきます.


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(追記)他のブログでの反応.

必修をごまかすとOkumura's Blog
必修教科を真面目にやる先生を支援しよう辰己丈夫の研究雑報

通勤ラッシュの力で発電-JR東日本が東京駅で実験(SANSPO.COM)

2006-10-08 | アカデミック
通勤ラッシュの力で発電-JR東日本が東京駅で実験SANSPO.COM

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1人が改札を通過するごとに約70―100ミリワットを発電、改札脇に設けるパネルで実際の発電量を表示する。1日約70万人が利用する東京駅の全改札に設置したとしても発電量は100ワット電球が10分程度点灯する約70キロワットにとどまり、発電効率の向上が大きな課題だ。
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記事で言及されている技術的可能性自体はおもしろいのですが,この記事には,科学的な面で大きな誤りが含まれています.さて,どこが誤りなのでしょう?

答えは,エネルギーの単位です.発電量を表す単位は「ワット」でなく「ジュール」でなければなりません.

これはほとんどの一般人が誤解しているのではないかと思いますが,「ワット」とはエネルギーの単位ではなく,「仕事率」,すなわち単位時間あたりのエネルギー(の発生量または消費量)を表す単位です.
エネルギーの量を表す最も標準的な単位は「ジュール」です.ジュールの正確な定義をわかりやすく説明するのはちょっと難しいですが,たとえば,質量1キログラムのおもりを垂直に1メートル持ち上げるために必要なエネルギーは,およそ10ジュールです.1リットルの水の温度を1度上げるためには,およそ4キロジュールのエネルギーが必要です.
そして,エンジンや発電機が1秒あたり1ジュールのエネルギーを生み出すとき,そのエンジンや発電機の「仕事率」は1ワットであるといいます.逆に,仕事率1ワットの発電機を1秒運転すれば,1ジュールのエネルギーが発生します.
「100ワット電球」というのは,1秒あたり100ジュールのエネルギーを消費するという意味です.

ここまで理解すれば,引用した記事は,次のように書き直さなければならないことがわかるはずです.

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1人が改札を通過するごとに約70―100ミリジュールを発電、改札脇に設けるパネルで実際の発電量を表示する。1日約70万人が利用する東京駅の全改札に設置したとしても発電量は100ワット電球が10分程度点灯する約70キロジュールにとどまり、発電効率の向上が大きな課題だ。
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10分=600秒なので,100ワットの電球を10分点灯させるために必要な電力量は60000ジュール=60キロジュール,ということで,計算が合います.
「改札脇に設けるパネル」で表示するのは,もしかしたら,発電された総量としての発電量ではなく,その時々の発電の仕事率かもしれません.そうだとすると,その単位はジュールでなくワットでなければなりません.

家庭の電力の検針票に書かれている消費電力量の単位は,多くの人は「キロワット」と思い込んでいると想像しますが,実は「キロワット時(kWh)」です.1キロワット時は,1キロワットの仕事率で1時間(=3600秒)に供給されるエネルギーなので,ジュールで表すと,1キロワット時=3600キロジュールとなります.

ところで,「ワット数」について,私も勘違いしていたことをひとつ.電子レンジの「500W」「700W」などの表示は,その電子レンジが消費する単位時間あたりの電力量ではなくて,電子レンジの庫内に向かって照射される電磁波の単位時間あたりエネルギー,すなわち「庫内の食品を加熱する仕事」の仕事率なんですね.我が家の「700W」の電子レンジに記された定格消費電力を見ると1.26kW,つまり,発生させる電磁波のエネルギーの2倍近いエネルギーを消費しているわけです.

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(10月17日追記)
ラッシュの雑踏、省エネに? 東京駅で「発電床」実験asahi.com

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ただ、発電量は1日かけても100ワット電球が1分強点灯するだけ。
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こちらは突っ込みどころのない無難な書き方になっています。

続・作文は思考を組織化する

2006-09-29 | アカデミック
昨日の記事で言及した奥村さんのブログ記事へのコメントで紹介されていた関連記事.

ポップ・カルチャーは危険な文化 --- アラン・ケイが描くパソコンの未来像(後編)(ITpro)

読むべきところはたくさんありますが,私が注目したのは次の部分.

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教育問題を解決するには、世界からテレビをなくしてしまうことだろう。現実には難しいことだが。なぜなら、たいていの親自身がテレビを見たがるし、またテレビを子供に対するベビーシッター代わりにすることを望んでいる。今の大人は、テレビを見ながら育ったので、その弊害について想像したこともないのだろう。
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この思想はまさに,テレビを消すことMother Leaf in America)で言及されているシュタイナー教育と同じです.
私も全く同感で,私が結婚して家庭を持つときに絶対にしたくないことのひとつが「居間にテレビを置くこと」です.最大限の譲歩は,「テレビ部屋」を作って見たい人だけがそこで見る,音声は指向性スピーカかイヤホンで聞く(周囲の静寂を壊さない!),子どもに対してはテレビ部屋への入室時間と番組内容を厳しく管理する,です.「テレビが半永久的に壊れている」よしみさんの家庭がうらやましいです.

(追記)
テレビの教育への影響について,もうひとつ引用.
メディアが持つ「手の本数」は減らせない辰己丈夫の研究雑報
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手の本数が少ないメディアを味わうには、想像力が欠かせない。子供の頃からテレビや、PCゲームなどに慣れてしまうと、想像力が育たないまま大人になってしまう。自分だって他人のことをいえる義理ではないが、小学生や中学生がカラフルな教科書でないと理解できないという現状は、このことの現れのように思う。
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