どことは言いませんが…
大学レベルの数学の質問を扱うweb掲示板があり,そこで,私が出題した離散数学のレポートが,掲示板参加者に「丸投げ」されていました.
しかも,親切に答える参加者もいたりします.
同じ投稿者は,私の同僚が出題したレポート問題(グラフ理論)も同様に丸投げして,回答を得ていました.
まあ,考えてわからないところを人に尋ねるのは悪いことではありませんが,あまりにも露骨な「丸投げ」はちょっとねぇ…
こういう学生は掲示板で得た回答を丸写しするでしょうから,たぶん,レポートを見れば学生を特定できるでしょう.
もっとも,私の授業ではレポートの成績への寄与は小さいので,そこまであがいても結果は変わらないというのが私の予想です.
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(追記)同じ掲示板で,こんどはどこかの大学院入試で見たような問題が…(^^;)
大学レベルの数学の質問を扱うweb掲示板があり,そこで,私が出題した離散数学のレポートが,掲示板参加者に「丸投げ」されていました.
しかも,親切に答える参加者もいたりします.
同じ投稿者は,私の同僚が出題したレポート問題(グラフ理論)も同様に丸投げして,回答を得ていました.
まあ,考えてわからないところを人に尋ねるのは悪いことではありませんが,あまりにも露骨な「丸投げ」はちょっとねぇ…
こういう学生は掲示板で得た回答を丸写しするでしょうから,たぶん,レポートを見れば学生を特定できるでしょう.
もっとも,私の授業ではレポートの成績への寄与は小さいので,そこまであがいても結果は変わらないというのが私の予想です.
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(追記)同じ掲示板で,こんどはどこかの大学院入試で見たような問題が…(^^;)
社説1 教育「井戸端会議」なら全くいらない (5/18)(NIKKEI NET)
細部には必ずしも同意できない部分もありますが,言い得て妙なのでブログしておきます.
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(追記)「日経ブロードバンドニュース」の5月21日「日経朝刊解説」でも,月2回土曜授業の例を挙げて,解説委員が「親が子を『もっと勉強しろ』と叱るのと同じでしかなく,土曜授業が教育や社会にいかなる影響をもたらすか全く議論されていない.教育再生会議の議論は思いつきの放言ばかりで見識がない」とこき下ろしていました.全く同感です.
細部には必ずしも同意できない部分もありますが,言い得て妙なのでブログしておきます.
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(追記)「日経ブロードバンドニュース」の5月21日「日経朝刊解説」でも,月2回土曜授業の例を挙げて,解説委員が「親が子を『もっと勉強しろ』と叱るのと同じでしかなく,土曜授業が教育や社会にいかなる影響をもたらすか全く議論されていない.教育再生会議の議論は思いつきの放言ばかりで見識がない」とこき下ろしていました.全く同感です.
大学院生論文データ捏造の詳細な経緯について,大学の調査委員会による調査報告が公開されています.
大阪府立大学大学院工学研究科大学院生による論文データ捏造に係る教員等の処分について
健全な研究活動の推進と大学院教育のために
事実関係は調査報告に詳しく記載されているのでそちらに譲りますが,ここでは一点だけ,調査委員会による提言で「教員一人当たりの適正な学生数の検討」に言及されていることを指摘しておきます.「教授と助手の2名で約20名の大学院生・学部生を指導していたため,個別の実験に教員が立ち会うことは不可能で,実験は学生に任せきりだった」という実態調査結果を受けての提言の一部です.
大阪府立大学大学院工学研究科大学院生による論文データ捏造に係る教員等の処分について
健全な研究活動の推進と大学院教育のために
事実関係は調査報告に詳しく記載されているのでそちらに譲りますが,ここでは一点だけ,調査委員会による提言で「教員一人当たりの適正な学生数の検討」に言及されていることを指摘しておきます.「教授と助手の2名で約20名の大学院生・学部生を指導していたため,個別の実験に教員が立ち会うことは不可能で,実験は学生に任せきりだった」という実態調査結果を受けての提言の一部です.
後ろに座る学生、教員に厳しく自分に甘く 産能大調べ(asahi.com)
後ろに座る学生ほど成績が悪く授業評価は厳しい(Okumura's Blog)
件の記事は大教室かつ大人数での講義ですが,私の経験では,60人教室で出席者が20~30人程度だと,後列と窓際,壁際の席だけが埋まり,中央部から前列の広い範囲が空席になることが多いです.
後列はともかく,窓際壁際の前列は黒板を見るにはむしろ不適な位置です.
後ろに座る学生ほど成績が悪く授業評価は厳しい(Okumura's Blog)
件の記事は大教室かつ大人数での講義ですが,私の経験では,60人教室で出席者が20~30人程度だと,後列と窓際,壁際の席だけが埋まり,中央部から前列の広い範囲が空席になることが多いです.
後列はともかく,窓際壁際の前列は黒板を見るにはむしろ不適な位置です.
リスニング不具合、8割が「思いこみ」 センター試験(asahi.com)
リスニング不具合について,私の主張は既に1年前の記事で言い尽くしていますが,「やはり」と思える記事なのでブログしておきます.
2ヶ月前に私が書いた,センター試験のICプレーヤー(Okumura's Blog)へのコメントから一部自己引用.
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機器故障等による再テストへの移行は,基本的に,受験者の自己申告に基づいて行われます(申告時点で再生されていたと推定される問題以後のみ再テストで解答可能というルールです).実際に機器が故障しているかどうかはその場では一切不問です.極端な話,単に受験者本人が動揺して問題を聞き逃しただけでも,故障を申告して再テストに移行することが許されます.これは,個別音源方式のリスニング試験は「立ち会い」ができない(個々の受験者に何が聞こえているかを監督者がモニタする手段がない)ことに由来する本質的制約です.したがって,たとえ機器が100%故障フリーであっても,受験者の操作ミスなど,試験実施者側が管理不可能な原因による「故障の申告」はなくならないでしょう.
========
(追記:2008年1月20日)
「単に受験者本人が動揺して問題を聞き逃した…」について注釈.
センター試験の受験案内には「機器故障に関する虚偽申告は不正行為として扱うことがある」という注意書きがあります.受験者が「動揺して問題を聞き逃した」ために故障申告した場合,もちろん事故対応マニュアルに従って再開テストに移行しますが,試験結果の有効性については大学入試センターの判断に委ねられることになるでしょう.なお,受験者が機器不良を申告した場合,機器は(イヤホンプラグを抜いたりせずそのままの状態で)回収され,受験者の受験番号,機器のシリアルナンバー,不具合発生時の機器の様態(ランプ点灯状態など),不具合内容などを記した調査票とともに大学入試センターに送られ,大学入試センターで不具合の検証が行われます.
リスニング不具合について,私の主張は既に1年前の記事で言い尽くしていますが,「やはり」と思える記事なのでブログしておきます.
2ヶ月前に私が書いた,センター試験のICプレーヤー(Okumura's Blog)へのコメントから一部自己引用.
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機器故障等による再テストへの移行は,基本的に,受験者の自己申告に基づいて行われます(申告時点で再生されていたと推定される問題以後のみ再テストで解答可能というルールです).実際に機器が故障しているかどうかはその場では一切不問です.極端な話,単に受験者本人が動揺して問題を聞き逃しただけでも,故障を申告して再テストに移行することが許されます.これは,個別音源方式のリスニング試験は「立ち会い」ができない(個々の受験者に何が聞こえているかを監督者がモニタする手段がない)ことに由来する本質的制約です.したがって,たとえ機器が100%故障フリーであっても,受験者の操作ミスなど,試験実施者側が管理不可能な原因による「故障の申告」はなくならないでしょう.
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(追記:2008年1月20日)
「単に受験者本人が動揺して問題を聞き逃した…」について注釈.
センター試験の受験案内には「機器故障に関する虚偽申告は不正行為として扱うことがある」という注意書きがあります.受験者が「動揺して問題を聞き逃した」ために故障申告した場合,もちろん事故対応マニュアルに従って再開テストに移行しますが,試験結果の有効性については大学入試センターの判断に委ねられることになるでしょう.なお,受験者が機器不良を申告した場合,機器は(イヤホンプラグを抜いたりせずそのままの状態で)回収され,受験者の受験番号,機器のシリアルナンバー,不具合発生時の機器の様態(ランプ点灯状態など),不具合内容などを記した調査票とともに大学入試センターに送られ,大学入試センターで不具合の検証が行われます.
大阪府立大院生が論文データを捏造 理想的な数値1千個(asahi.com)
大学院生が論文データを捏造、大阪府立大が発表(NIKKEI NET)
論文ねつ造:大阪府立大院生認める 想像で数値データ入力(MSN毎日インタラクティブ)
絶句…
大学院生が論文データを捏造、大阪府立大が発表(NIKKEI NET)
論文ねつ造:大阪府立大院生認める 想像で数値データ入力(MSN毎日インタラクティブ)
絶句…
Alan Kayの講演(Okumura's Blog)
言い得て妙のフレーズに感心したので,とりあえずブログします.
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フロアからの「インターネットやGoogleについて全然話がなかったがどうしてか」という質問に対して,いやインターネットは重要だしOLPCでもネットにつなげるようにしているといった話をされた後で,ただしGoogleで調べるような教育は最悪だとぼそっとおっしゃった。
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言い得て妙のフレーズに感心したので,とりあえずブログします.
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フロアからの「インターネットやGoogleについて全然話がなかったがどうしてか」という質問に対して,いやインターネットは重要だしOLPCでもネットにつなげるようにしているといった話をされた後で,ただしGoogleで調べるような教育は最悪だとぼそっとおっしゃった。
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記述式指導、戸惑う教師 研究者らは「良問」と評価(asahi.com)
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最大の特徴は、問題文を読み取って自ら文章にまとめ、記述式で答える問いが含まれていたことだ。
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全国学力テストの予備調査の問題に関するニュースです.
私は全国学力テストの実施自体には賛成しませんが,記事で紹介されている出題方針は「あっぱれ」です.
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最大の特徴は、問題文を読み取って自ら文章にまとめ、記述式で答える問いが含まれていたことだ。
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全国学力テストの予備調査の問題に関するニュースです.
私は全国学力テストの実施自体には賛成しませんが,記事で紹介されている出題方針は「あっぱれ」です.
あなたは家からショッピングモールまで車で買い物に出かけようとしています。どうすれば車を運転してショッピングモールにたどり着けるでしょうか? この問いへの典型的な2種類の答を考えてみましょう。
(1)「手順記述型」
車の運転席に座る。キーを回してエンジンをかける。アクセルを踏む。左にハンドルを切る。xxメートル進む。右にハンドルを切る。xxメートル進む。…(中略)… ショッピングモールの駐車場に入ったら、駐車ロットに車を止める。エンジンを切る。車を降りる。ドアをロックする。
(2)「状況把握型」
家は町の中のこの位置にある、ショッピングモールは町の中のあの位置にある。町には幹線道路がこのように通っている。ショッピングモールの駐車場入り口はあの道路に面している。だから家からこの道を通って幹線道路に出て…(後略)
この日常的な問いに対して、まさか(1)の「手順記述型」で答える人はいないでしょうね。きっと、誰もが(2)の「状況把握型」の答をするでしょう。
で、なぜこんな話題を出したかというと、
-- 情報機器に不慣れな人の「パソコン年賀状ソフト」や「ビデオ予約録画」の操作
-- 高校生や大学生の数学試験問題の解き方
を見ていると、彼らはしばしば(1)の「手順記述型」で問題解決しようと悪戦苦闘して、結果として失敗しているように思えてならないからです。
私たちは、車の運転を覚えるときに、もっぱら運転操作の手順を記憶することに集中するでしょうか。そうではないはずです。自動車の構造に対する原始的な理解(「エンジンで駆動し、ブレーキで制動し、ハンドルで操舵する」程度で十分)が最初にあって、その理解を基礎に、自分で運転操作を体験することによって、無意識的に適切な運転操作の手順ができるようになっていくのです。
家からショッピングモールへの道順を考えるときも、最初に町の中の道路の位置関係に対する理解があれば、その理解を基礎に適切な道順を見つけ出すことができます。そうして見つけ出した道順は、「ここで左折して、xxメートル進んで、右折して、それから…」と記憶しなくても、道路の位置関係に対する理解を元に、容易に再現することができます。
状況把握型理解が手順記述型理解より決定的に優れている点は、「予想外の誤りや困難に対処できる」ことです。道順のたとえでいえば、最初に予定した道が事故で通行止めになった場合に、手順記述型ではどうしようもありませんが、状況把握型だと、その時点であらためて道順を考え直して、適切な迂回路を見出すことができます。
つまり、車の運転や道順の決定を行う場面では、状況把握型の理解をしなければならないし、どんな人も無意識的にそれをしているのです。もっと大きくいえば、すべての人には、未知の状況に置かれたとき(初めて車を運転する、知らない町に引っ越す、など)に、「状況を把握して理解する」ことによって問題を解決する能力が備わっているはずなのです。
それなのに、「情報機器に不慣れな人にとっての年賀状ソフトやビデオ予約」「高校生や大学生のとっての数学試験」という状況になると、とたんに「状況把握型理解」ができなくなって「手順記述型理解」に陥り、そして失敗してしまいます。年賀状ソフトは少しでも意図と異なる動作をしたり予想外のエラーが出たりしたらお手上げ、数学試験は記憶済みの類型と異なる問題には全く対処できないし自分の計算ミスで明らかな矛盾が生じても気づかない、など…
明らかに、これらの失敗に陥っている人々は、状況を把握して理解するすべを持っていないのです。
これって、なぜなんでしょう? 思い当たる理由はいくつかあります。
(a) 情報機器も数学も「根源的な仕組み」が見えにくい
(b) 教える側が「根源的な仕組み」を理解させることから逃げて「手順記述」に走っている
(a)はやや無理からぬことかとも思うのですが、(b)のほうは気になります。
受験勉強の悪弊は完全に(b)に由来しています。予備校講師が合目的性のために開き直って(b)の方針を採るのは、それはそれで理解しますが、そうでなくて、高校数学の場合、教師がそもそも「根源的な仕組み」を理解させる能力を持っていないために「手順記述」でしか教えられないという状況さえあるのではないかと思っています。
情報機器については、最近、特に(b)の傾向を強く感じています。初心者向けをうたう年賀状ソフトには、ユーザインターフェース自体が「手順記述」を強く打ち出したものもあります。Windowsのインストーラやウィザード、Microsoft Officeのユーザインターフェースなどを見ても、「根源的な仕組み」をブラックボックス化して、ユーザには「手順」の部分だけを見せる、という思想が感じられます。
情報機器操作や数学教育で、どうすれば手順記述に陥らずに状況把握型の理解に至らしめることができるのか? たぶん、理解の基礎となる「根源的な仕組み」として、何を、どうやって教えるべきか、そこにかかっていると思います。
情報機器の「根源的な仕組み」とは? コンピュータが扱うすべての情報は最終的にビット列で記述される、オペレーティングシステムが扱う情報は「ファイル」の形をとっている、プログラムとはあらかじめ決められた手順に基づく自動処理である、などなど、ワープロやプレゼンテーションソフトの操作方法より前に理解しておくべき「根源的な仕組み」はいろいろあるはずです。
高校数学や大学初年次数学の「根源的な仕組み」とは? たとえば、線形代数なら線形空間の構造(1次独立性・基底・次元など)でしょうか。線形空間の構造に対する本質的な理解があってこそ、固有値問題や対角化を学ぶ意味があるのであって、単に固有値の計算手順を覚えるだけでは線形代数を学んだことにはなりません(固有値・固有ベクトルの計算はできるが固有値・固有ベクトルの定義をわかっていない学部学生や大学院生があまりにも多くて辟易しています)。
(1)「手順記述型」
車の運転席に座る。キーを回してエンジンをかける。アクセルを踏む。左にハンドルを切る。xxメートル進む。右にハンドルを切る。xxメートル進む。…(中略)… ショッピングモールの駐車場に入ったら、駐車ロットに車を止める。エンジンを切る。車を降りる。ドアをロックする。
(2)「状況把握型」
家は町の中のこの位置にある、ショッピングモールは町の中のあの位置にある。町には幹線道路がこのように通っている。ショッピングモールの駐車場入り口はあの道路に面している。だから家からこの道を通って幹線道路に出て…(後略)
この日常的な問いに対して、まさか(1)の「手順記述型」で答える人はいないでしょうね。きっと、誰もが(2)の「状況把握型」の答をするでしょう。
で、なぜこんな話題を出したかというと、
-- 情報機器に不慣れな人の「パソコン年賀状ソフト」や「ビデオ予約録画」の操作
-- 高校生や大学生の数学試験問題の解き方
を見ていると、彼らはしばしば(1)の「手順記述型」で問題解決しようと悪戦苦闘して、結果として失敗しているように思えてならないからです。
私たちは、車の運転を覚えるときに、もっぱら運転操作の手順を記憶することに集中するでしょうか。そうではないはずです。自動車の構造に対する原始的な理解(「エンジンで駆動し、ブレーキで制動し、ハンドルで操舵する」程度で十分)が最初にあって、その理解を基礎に、自分で運転操作を体験することによって、無意識的に適切な運転操作の手順ができるようになっていくのです。
家からショッピングモールへの道順を考えるときも、最初に町の中の道路の位置関係に対する理解があれば、その理解を基礎に適切な道順を見つけ出すことができます。そうして見つけ出した道順は、「ここで左折して、xxメートル進んで、右折して、それから…」と記憶しなくても、道路の位置関係に対する理解を元に、容易に再現することができます。
状況把握型理解が手順記述型理解より決定的に優れている点は、「予想外の誤りや困難に対処できる」ことです。道順のたとえでいえば、最初に予定した道が事故で通行止めになった場合に、手順記述型ではどうしようもありませんが、状況把握型だと、その時点であらためて道順を考え直して、適切な迂回路を見出すことができます。
つまり、車の運転や道順の決定を行う場面では、状況把握型の理解をしなければならないし、どんな人も無意識的にそれをしているのです。もっと大きくいえば、すべての人には、未知の状況に置かれたとき(初めて車を運転する、知らない町に引っ越す、など)に、「状況を把握して理解する」ことによって問題を解決する能力が備わっているはずなのです。
それなのに、「情報機器に不慣れな人にとっての年賀状ソフトやビデオ予約」「高校生や大学生のとっての数学試験」という状況になると、とたんに「状況把握型理解」ができなくなって「手順記述型理解」に陥り、そして失敗してしまいます。年賀状ソフトは少しでも意図と異なる動作をしたり予想外のエラーが出たりしたらお手上げ、数学試験は記憶済みの類型と異なる問題には全く対処できないし自分の計算ミスで明らかな矛盾が生じても気づかない、など…
明らかに、これらの失敗に陥っている人々は、状況を把握して理解するすべを持っていないのです。
これって、なぜなんでしょう? 思い当たる理由はいくつかあります。
(a) 情報機器も数学も「根源的な仕組み」が見えにくい
(b) 教える側が「根源的な仕組み」を理解させることから逃げて「手順記述」に走っている
(a)はやや無理からぬことかとも思うのですが、(b)のほうは気になります。
受験勉強の悪弊は完全に(b)に由来しています。予備校講師が合目的性のために開き直って(b)の方針を採るのは、それはそれで理解しますが、そうでなくて、高校数学の場合、教師がそもそも「根源的な仕組み」を理解させる能力を持っていないために「手順記述」でしか教えられないという状況さえあるのではないかと思っています。
情報機器については、最近、特に(b)の傾向を強く感じています。初心者向けをうたう年賀状ソフトには、ユーザインターフェース自体が「手順記述」を強く打ち出したものもあります。Windowsのインストーラやウィザード、Microsoft Officeのユーザインターフェースなどを見ても、「根源的な仕組み」をブラックボックス化して、ユーザには「手順」の部分だけを見せる、という思想が感じられます。
情報機器操作や数学教育で、どうすれば手順記述に陥らずに状況把握型の理解に至らしめることができるのか? たぶん、理解の基礎となる「根源的な仕組み」として、何を、どうやって教えるべきか、そこにかかっていると思います。
情報機器の「根源的な仕組み」とは? コンピュータが扱うすべての情報は最終的にビット列で記述される、オペレーティングシステムが扱う情報は「ファイル」の形をとっている、プログラムとはあらかじめ決められた手順に基づく自動処理である、などなど、ワープロやプレゼンテーションソフトの操作方法より前に理解しておくべき「根源的な仕組み」はいろいろあるはずです。
高校数学や大学初年次数学の「根源的な仕組み」とは? たとえば、線形代数なら線形空間の構造(1次独立性・基底・次元など)でしょうか。線形空間の構造に対する本質的な理解があってこそ、固有値問題や対角化を学ぶ意味があるのであって、単に固有値の計算手順を覚えるだけでは線形代数を学んだことにはなりません(固有値・固有ベクトルの計算はできるが固有値・固有ベクトルの定義をわかっていない学部学生や大学院生があまりにも多くて辟易しています)。
入試のためのおべんきょ(不定期戯事)
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「欲ばり過ぎるニッポンの教育」(苅谷剛彦・増田ユリヤ著,講談社,URN:ISBN:4-06-149866-5)では,「お受験」のための幼児教室の様子を説明した後で
----
お受験で人気の私立小学校の先生に話を聞くと,「困るんですよね。一年生に入ってきたときに,幼児教室で同じように教育されちゃってるから,型にはまっていて。とにかくほぐすのに一年かかります」と言っていました。
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と書いている。たぶん同じようなことはあちこちにあって,大学は高校に,高校は中学に,同じ思いを持っているんじゃないのかな。
========
「私立小学校の先生」さんは控えめに「ほぐす」という言葉を使っていますが,私は大学1年生対象の数学基礎科目で「冷や水を浴びせる」ことに躍起になっています.
受験勉強の弊害はさまざまなところで語られていて,屋上屋を架すのそしりを免れないでしょうが,私が数学の講義・演習を実施していて困るのは次のことです.
-- 式を見るなり反射的に(というより「盲目的に」「やみくもに」)「計算」を始めてしまう.
-- 意味を考えればすぐにわかることを,計算で解こうとするために,極端に複雑なことをしてしまう.そして間違う,あるいは解けない.
-- 答の正しさ(妥当性)を確かめようとしない.明らかに矛盾した結果が出ても平気で解答する.
-- 答案の書き方(模範解答の文言)を覚えようとする.見本がないと自力で解答を書けない.
ところで,
========
だったら入試問題を工夫して上手に選抜すればいいというのは正論なのだけど,一部の学校だけがそれをやると受験生に嫌われてしまう罠。
========
という指摘に対して,大学入試に関与する立場からひとこと弁明.
「入試問題を工夫」することが困難な理由は,受験生に嫌われることより,むしろ「全体の出来が悪くなって選抜試験として機能しなくなる」ことです.
資格試験や高校・大学の期末試験と違い,大学入試の本質は「競争選抜」です.入試が選抜の手段として有効に機能するためには,成績がばらつく必要があります.全員が満点をとってしまう問題や全員が0点をとってしまう問題は,入試に出す意味がありません.
入試問題を「工夫」すると,型にはまった勉強をしてきた受験生にとっては「難しい」問題になり,「全員が0点」になる危険があります.出題者はそれを最も恐れます.
たとえば,ある問題で10%の受験生だけが満点,ほかの受験生は0点という成績分布になったとします.合格率が10%なら,この問題は選抜の基準としてうまく機能したといえます.しかし,合格率が50%なら,選抜という視点では,この問題を出題した効果はほとんどなかったことになります.そして,凝った問題を出題すると,白紙答案が続出してこういう結果になる可能性があるのです.
もちろん,公開されている過去の入試問題は,受験生に対するメッセージとして重要な意味を持つので,出題者としては(たとえ受験生に嫌われても)問題を工夫したいのが本音だと思います.しかし,上述の事情によって,凝った問題を出したくても出せないジレンマがあるのです.
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「欲ばり過ぎるニッポンの教育」(苅谷剛彦・増田ユリヤ著,講談社,URN:ISBN:4-06-149866-5)では,「お受験」のための幼児教室の様子を説明した後で
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お受験で人気の私立小学校の先生に話を聞くと,「困るんですよね。一年生に入ってきたときに,幼児教室で同じように教育されちゃってるから,型にはまっていて。とにかくほぐすのに一年かかります」と言っていました。
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と書いている。たぶん同じようなことはあちこちにあって,大学は高校に,高校は中学に,同じ思いを持っているんじゃないのかな。
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「私立小学校の先生」さんは控えめに「ほぐす」という言葉を使っていますが,私は大学1年生対象の数学基礎科目で「冷や水を浴びせる」ことに躍起になっています.
受験勉強の弊害はさまざまなところで語られていて,屋上屋を架すのそしりを免れないでしょうが,私が数学の講義・演習を実施していて困るのは次のことです.
-- 式を見るなり反射的に(というより「盲目的に」「やみくもに」)「計算」を始めてしまう.
-- 意味を考えればすぐにわかることを,計算で解こうとするために,極端に複雑なことをしてしまう.そして間違う,あるいは解けない.
-- 答の正しさ(妥当性)を確かめようとしない.明らかに矛盾した結果が出ても平気で解答する.
-- 答案の書き方(模範解答の文言)を覚えようとする.見本がないと自力で解答を書けない.
ところで,
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だったら入試問題を工夫して上手に選抜すればいいというのは正論なのだけど,一部の学校だけがそれをやると受験生に嫌われてしまう罠。
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という指摘に対して,大学入試に関与する立場からひとこと弁明.
「入試問題を工夫」することが困難な理由は,受験生に嫌われることより,むしろ「全体の出来が悪くなって選抜試験として機能しなくなる」ことです.
資格試験や高校・大学の期末試験と違い,大学入試の本質は「競争選抜」です.入試が選抜の手段として有効に機能するためには,成績がばらつく必要があります.全員が満点をとってしまう問題や全員が0点をとってしまう問題は,入試に出す意味がありません.
入試問題を「工夫」すると,型にはまった勉強をしてきた受験生にとっては「難しい」問題になり,「全員が0点」になる危険があります.出題者はそれを最も恐れます.
たとえば,ある問題で10%の受験生だけが満点,ほかの受験生は0点という成績分布になったとします.合格率が10%なら,この問題は選抜の基準としてうまく機能したといえます.しかし,合格率が50%なら,選抜という視点では,この問題を出題した効果はほとんどなかったことになります.そして,凝った問題を出題すると,白紙答案が続出してこういう結果になる可能性があるのです.
もちろん,公開されている過去の入試問題は,受験生に対するメッセージとして重要な意味を持つので,出題者としては(たとえ受験生に嫌われても)問題を工夫したいのが本音だと思います.しかし,上述の事情によって,凝った問題を出したくても出せないジレンマがあるのです.
情報処理学会の提言について(総合学科「情報」日誌)
大学における高校「情報」教員養成課程に言及して…
========
しかし、教育実習生や新採用教員と接するにつれ、大学の教職課程の脆弱性が見えてしまう。本人たちに罪はない、むしろ、学生集めのキャッチコピーとして「情報免許取得可」をあげ、4年をかけても専門教科情報どころか情報A/B/Cすら教えられない状態で送り出してしまう大学側の問題である。
========
ぎくっ(^^;;;)
私自身は今のところ関わっていませんが,私の職場は全学共通の「情報科教育法」を提供する立場にあり,他人事ではありません(ちなみに,私の職場は「数学科教育法」も提供していて,私はそちらに関わりました).
私の職場が提供した「情報科教育法」については,同僚から漏れ聞いたことから察するに,もしかしたら「専門教科情報どころか情報A/B/Cすら教えられない状態で送り出してしまう」のそしりを免れないのではないかと危惧します.というのも,うちのように教員養成系学部・学科を持たない大学では,教職科目というのは…(以下検閲により削除(^^;))
大学における高校「情報」教員養成課程に言及して…
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しかし、教育実習生や新採用教員と接するにつれ、大学の教職課程の脆弱性が見えてしまう。本人たちに罪はない、むしろ、学生集めのキャッチコピーとして「情報免許取得可」をあげ、4年をかけても専門教科情報どころか情報A/B/Cすら教えられない状態で送り出してしまう大学側の問題である。
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ぎくっ(^^;;;)
私自身は今のところ関わっていませんが,私の職場は全学共通の「情報科教育法」を提供する立場にあり,他人事ではありません(ちなみに,私の職場は「数学科教育法」も提供していて,私はそちらに関わりました).
私の職場が提供した「情報科教育法」については,同僚から漏れ聞いたことから察するに,もしかしたら「専門教科情報どころか情報A/B/Cすら教えられない状態で送り出してしまう」のそしりを免れないのではないかと危惧します.というのも,うちのように教員養成系学部・学科を持たない大学では,教職科目というのは…(以下検閲により削除(^^;))
うまく考えがまとまらないのですが、気になるのでブログします。
情報リテラシーのない人が情報リテラシーについて質問すること(辰己丈夫の研究雑報)
記事の内容には全く同感なのですが、そのような現象は、今に始まったことではなく、未履修問題に関する議論に限らず、情報教育に携わる人々に限らず、あらゆる時事問題に関してあらゆる個人ウェブサイトやブログでみられる現象だと、つねづね感じていました。端的に言えば、「情報リテラシー」の範疇にとどまらず、むしろ「文章を書くこと、自分の意見を述べることに対する真摯さ」が欠けていると感じるのです。
このブログの過去記事「書くことは考えること」の一部分を再掲します。
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ウェブサイトやブログの文章というのは、他人に読んでもらうために書くものです。情報提供を目的とする記事であれば、その文章は必要な情報を的確に伝えるための文章でなければなりません。意見表明や評論を目的とする記事であれば、事実の正確な把握、冷静な立場での論点整理、そして理路整然たる意見陳述がなされなければなりません。
いずれにしても、ただ書き手が好き勝手に書いただけでは、他人に読んでもらうための文章にはなり得ません。「読んでもらうために書く」ためには、その準備として、まずは情報の収集、分析、整理を行い、そのうえで自分の意見や著述の方針を固め、そして最後に、読んでもらうための「適切な作文」を行わなければなりません。
この一連の「書く」ための作業で、最も労力を費やすのは、「考える」ことだと思います。その意味で、私は「書くことは考えること」だと思っています。
(中略)
現実の個人ウェブサイトやブログの世界はどうでしょうか。残念ながら、真剣に考えて書かれた文章で構成されたものはごく一部で、書き手が好き勝手に書き散らかしているだけのウェブサイトやブログがあまりにも多いと感じています。ブログの流行とともに「ブログ=個人日記・私生活露出」という認識が広まっていることで、「書き散らかし」の傾向はますます強まっているように思えます。
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情報リテラシーのない人が情報リテラシーについて質問すること(辰己丈夫の研究雑報)
記事の内容には全く同感なのですが、そのような現象は、今に始まったことではなく、未履修問題に関する議論に限らず、情報教育に携わる人々に限らず、あらゆる時事問題に関してあらゆる個人ウェブサイトやブログでみられる現象だと、つねづね感じていました。端的に言えば、「情報リテラシー」の範疇にとどまらず、むしろ「文章を書くこと、自分の意見を述べることに対する真摯さ」が欠けていると感じるのです。
このブログの過去記事「書くことは考えること」の一部分を再掲します。
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ウェブサイトやブログの文章というのは、他人に読んでもらうために書くものです。情報提供を目的とする記事であれば、その文章は必要な情報を的確に伝えるための文章でなければなりません。意見表明や評論を目的とする記事であれば、事実の正確な把握、冷静な立場での論点整理、そして理路整然たる意見陳述がなされなければなりません。
いずれにしても、ただ書き手が好き勝手に書いただけでは、他人に読んでもらうための文章にはなり得ません。「読んでもらうために書く」ためには、その準備として、まずは情報の収集、分析、整理を行い、そのうえで自分の意見や著述の方針を固め、そして最後に、読んでもらうための「適切な作文」を行わなければなりません。
この一連の「書く」ための作業で、最も労力を費やすのは、「考える」ことだと思います。その意味で、私は「書くことは考えること」だと思っています。
(中略)
現実の個人ウェブサイトやブログの世界はどうでしょうか。残念ながら、真剣に考えて書かれた文章で構成されたものはごく一部で、書き手が好き勝手に書き散らかしているだけのウェブサイトやブログがあまりにも多いと感じています。ブログの流行とともに「ブログ=個人日記・私生活露出」という認識が広まっていることで、「書き散らかし」の傾向はますます強まっているように思えます。
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