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Boise on my mind

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作文は思考を組織化する

2006-09-28 | アカデミック
コンピュータは人間を進化させるか アラン・ケイ氏インタビュー(PC Watch 後藤貴子の米国ハイテク事情)
電子技術のほとんどは退行的だOkumura's Blog

インタビューは非常に長く,かつ論点が多岐にわたっているのですが,ただ一点,「作文は思考を組織化する」というキーフレーズについてだけコメント.

私がこのフレーズを見てまっさきに思い出したのは,私自身がこのブログに書いた記事「書くことは考えること」です.

大学1~2年生の数学演習答案を採点していると,彼らの多くは計算はできても「考える」ことがまるでできない,そして「証明」が書けないことを思い知らされます.数学の証明は「思考の組織化」の最たるもので,その本質は「作文」と同じです.


…と書き始めたものの,ちょっと今は私自身が思考を組織化するための十分な精神的余裕がありません.とりあえず今日はここまで.

伊吹文科相、小学校の英語必修「全く必要ない」

2006-09-27 | アカデミック
伊吹文科相、小学校の英語必修「全く必要ない」NIKKEI NET

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伊吹文明文部科学相は27日記者会見し、学習指導要領改訂の焦点の一つである小学校での英語必修化を巡り「美しい日本語が話せず書けないのに、外国語を教えてもだめ。必要は全くない」との考えを明らかにした。
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新閣僚の発言ということで,ブログしておきます.

ここにもありました.
小学校の英語「必修化の必要ない」 伊吹文科相asahi.com

数学研究ピンチ 論文、米の5分の1 博士号は6分の1

2006-05-18 | アカデミック
数学研究ピンチ 論文、米の5分の1 博士号は6分の1 (asahi.com)

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日本の数学研究は、論文の数が世界の6位に甘んじ、研究費の伸びも他分野に比べて低いなど、「じり貧」状態…
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という記事の書き出しを読んで、「おぉ、やっと、数学研究の現実に目が向けられるようになったか!」と期待して読み進めたのですが、結論は
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数学者の活躍の舞台は、大学中心の日本に対し、欧米では産業界への進出が盛んで、日本も数学振興のための産学連携が必要…
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となっていて、「なんでそうなるの?」と、がっかりしました。

産学連携はけっこうなことですが、数学の大部分は、産業とは無縁の純粋な知識探求です。その「大部分」の数学の発展なくして、数学研究全体の発展はありえません。数学研究を振興するために真に必要なことは、次のことだと私は考えます。

-- 学問分野に関係なく(数学に限らず)、大学院生やポスドクの経済的地位と研究者としての活動基盤を保障する(奨学金制度の弱体化や助手任期制はこの考えに逆行する!)
-- 研究資金の分配方法を過度に競争的にせず、研究分野の維持に必要な最低限の資金配分を保障する(数学にふさわしい研究資金配分は「狭く厚く」ではなく「広く薄く」である!)
-- 産学連携できる数学の分野が稼ぎ頭になって、連携による収益を、カネにならない純粋数学に流す(数学研究分野の学問的重要性は「金が稼げるかどうか」とは無関係!)
-- 学部教育の「数学科」をこれ以上つぶさない(アメリカではほとんどの大学に数学科がある、日本は数学科のある大学はたった1割!)

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(5月23日追記)あとで気づいたのですが、「アメリカと日本では『数学』の範囲が違う」という可能性はないでしょうか? どういうことかというと、金融工学やリスクマネジメントなど、産学連携によって研究の活性化が図れる分野の研究が、アメリカでは数学に、日本では工学や経済学に分類されていて、そのために、アンフェアな基準で数学研究の規模が比較されてしまっているのではないかと思ったのです。

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(5月29日追記)職場の関係者から,報告書原文に関する情報を受け取りました。
忘れられた科学 - 数学 主要国の数学研究を取り巻く状況及び我が国の科学における数学の必要性
本文は190ページと長いですが、16ページの概要を読むとわかりやすいです。
asahi.com の記事では取り上げられていなかった「基礎的な数学研究を強力に振興するための政府研究資金の拡充」という提言がしっかり盛り込まれています。

米、数学強化へ大統領命令(NIKKEI NET 国際ニュース)

2006-04-19 | アカデミック
仕事柄、気になるニュースを見つけたので、ブログします。

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米、数学強化へ大統領命令(NIKKEI NET 国際ニュース)

 【ワシントン=藤井一明】ブッシュ米大統領は18日、数学教育の向上を目的とした諮問機関をつくるため大統領命令に署名した。教育省に置く諮問機関は 30人程度の専門家を集め、基礎的な代数から高等数学まで、教師の訓練法まで含めて最適な教育法を幅広く検討する。来年1月までに中間報告をまとめる。同大統領は米国の競争力強化策の一環として数学教育のてこ入れを打ち出している。 (20:43)
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日本では、大学生の数学力低下が問題になって久しく、私の職場でも数学教育の方法論の話題が出ない日はないといっても過言ではありません。そういう状況にあって、日本の政府諮問機関での議論はいかがなものかというと、いささか旧聞に属しますが、まぁ、次のようなものです。

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◆2次方程式 上野 健爾 (日本評論社「数学のたのしみ」No.9より)
教育課程審議会長の三浦朱門氏は雑誌「週間教育Pro」1997年4月1日号のインタビュー記事『「教育」今後の方向』の中で、教科内容の厳選に関して、教科のエゴをなくすために、たとえば数学では『曾野綾子のように「私は2次方程式もろくにできないけれども、65歳になる今日まで全然不自由しなかった」という』数学嫌いの委員を半数以上含めて数学の教科内容の厳選を行う必要があると発言している。この発言から1年2ヶ月ほどたった今年の6月に教課審の審議のまとめが出され、2次方程式の解の公式は中学数学から姿を消すことになった。
(以下略)
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小学校の英語教育

2006-02-27 | アカデミック
小学校の英語教育、教研集会でも賛否両論(読売新聞) (News@nifty)

上記の記事だけでは、あまりにも短すぎて議論の中身が全く理解できませんので、論評は差し控えます。しかし、一般論として、小学校での英語教育について、私は下記のページの意見を全面的に支持します。

日本の小学校で、今、(正規の授業として)英語教育を導入すべきか?だまらん

センター試験リスニング:「吊し上げ」はもうたくさん

2006-01-28 | アカデミック
タイトルだけで言いたいことはほぼ終わってしまいますが、ニュースサイトやブログのセンター試験リスニング批判はもうたくさんです。結局のところ、「吊し上げ」に終始して、「それではどうすればよいのか?」という建設的な議論がさっぱり見当たらないからです。
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(1月29日追記)「ICプレーヤーのメーカー名を公表しろ」という批判も散見されますが、論外です。それはペーパーテストの問題印刷ミスで印刷屋を非難するのと同じです。紙であろうとICプレーヤーであろうと、試験問題の内容と表現手段に関しては試験の実施主体(センター試験の場合は大学入試センター)がすべての責任を負うのであって、納入業者を叩くのは全く筋違いです。
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私の意見は簡単で、
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センター試験でICプレーヤーを使ったリスニングテストを続ける限り、トラブルは不可避であり、今年と同様のトラブルは起こり続ける。だから、とるべき道は「今年と同程度のトラブルを許容したうえで同じ方式を続ける」「やめる」の二つに一つ!
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です。そして、どちらを選ぶかを考える上での基準は、前の記事で論じた「費用対効果」がすべてです。

念のために付け加えると、中学・高校の英語教育でコミュニケーション能力を重視することと、その教育効果を高めるために学校外で何らかの技能検定を実施するというアイデアには、私は反対しません。ただ、その「技能検定」をセンター試験の一部分として行うことの妥当性について、私は「費用対効果」の観点から疑問視しているのです。

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(1月29日追記)リスニングテストとは直接関係ありませんが、英語コミュニケーション能力の教育方法論に関する批判的考察として、次のページを紹介しておきます。
日本の小学校で、今、(正規の授業として)英語教育を導入すべきか? - だまらん

センター試験リスニングテストいろいろ

2006-01-24 | アカデミック
センター試験の英語リスニングテストのトラブルについては、ウェブ上のニュースサイトやブログでさまざまな論評がなされていますが、私の立場はほぼ次の2件のブログ記事が代弁してくださっているので、ここではできるだけ重複を避けて、これらの記事にない論点にしぼります。
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センター試験リスニングの「トラブルによる『再試験』」の裏側 - 辰己丈夫の研究雑報
英語(リスニング)も無事終了 - Okumura's Blog
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総じて感じるのは、トラブルだのなんだのと騒がれていることのほとんどが、リスニング試験をICプレーヤーを使って行うと決めた時点で予想されていたことで、「想定の範囲内」だったということです。再テストにしても、ほとんどのケースは最初から用意されていたマニュアルに従ったまでです。予想を超える事故で教室全体、あるいは会場全体で試験が無効になるような事態は起こっていないのですから、私はむしろ「よくやったものだ」と感心したぐらいです。運悪く不良機器にあたった受験生の方々はお気の毒ですが。

もっとあきれたのは、次のニュース記事。
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センター試験 ICプレーヤー実は“受験生買い取り” - Yahoo!ニュース/河北新報
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記事の要点は「今年度から検定料が値上げされた」「ICプレーヤーは持ち帰れるが他に用途がない」ですが、これらもすべて最初からわかっていたことで、試験が終わってから槍玉に挙げることではありません。

むしろ、より本質的な問題は、それだけの受験生や実施者の負担に見合う教育上の効果がリスニングテストにあるのか、という「費用対効果」を論じることだと思います。トラブル自体をあげつらうのでなく、「そこまでしてリスニングテストを行う必要があるのか」という根本的な問題こそ、われわれが論じるべきことであり、大学入試センターが責任を持って答えるべきことだと思います。
これについて、私は現時点では、リスニングテストの問題内容や、新課程の中学生・高校生が受けてきた英語コミュニケーション能力の教育の実態について、十分な情報を持っていないので、評価を下すことは避けます。大学入試センターを吊るし上げるばかりでなく、高校教員や予備校講師などによる試験内容の論評など、より本質的な問題提起がなされることを期待します。

センター試験への記述式問題導入を考える

2006-01-20 | アカデミック
明日からセンター試験です。私の職場も試験会場になり、受験生と試験要員以外は入構禁止になります。
今年のセンター試験について、職場でのもっぱらの話題は英語のリスニング試験です。試験要員には分厚いトラブル対処マニュアルが配られ、事前の説明会やリハーサルも繰り返し行われたようですが、いざ本番となるとどんなトラブルが起こるかわからない、ということで、試験要員の方々の気苦労は相当なものでしょう。

ところで、センター試験を前に、ふと思いついたことがあります。
センター試験といえば、共通一次の時代から「マークシート」が常識でしたが、私が考えたのは「センター試験の問題の一部を記述解答式にする」という可能性です。

当たり前ですが、記述式の解答をコンピュータで自動的に採点することはできません。大量の答案を一括して人手で採点することも不可能です。それではどうするか? 簡単です。大学入試センターの役割は問題作成と試験の実施だけにして、採点は各大学に任せてしまうのです。

技術的なアイデアは次の通りです。
マークシート用紙の表面をマークシート解答欄、裏面を記述解答欄にします。大学入試センターでは,表面のマークを読み取って自動採点するとともに、裏面はスキャナで画像として取り込んで、画像データを受験番号に紐付けしてデータベースに保存します。
2次試験の出願が終了した後に、大学入試センターは各大学に出願者のセンター試験の得点情報を送りますが、そのときに出願者の記述解答欄のデータも同時に送ります。各大学では、送られた記述解答欄のデータを印刷(あるいは画面表示)し、採点担当者が採点します。画像データの読み取り不鮮明などがあれば、大学入試センターにマークシート用紙の再読み取りを要求します。
記述式問題の解答例と配点は、センター試験終了直後に開示しますが、具体的な採点基準は各大学の採点担当者の裁量に任せます。
当然、同じ受験生の答案に対する点数がA大学とB大学で異なることが起こるでしょう。でも、それを問題視するのは的外れです。そもそも大学入試とは各大学の裁量で行うものです。その大学の中で一貫した採点基準に基づいた採点がなされていれば、同じ問題に対する採点基準が大学ごとに異なっていても、問題はありません。

大学入試における最も困難な仕事は、問題の作成です。センター試験が記述式の問題を提供し、全国一斉に試験を実施すれば、採点が各大学の負担になったとしても、出題と試験実施の手間がかからない分だけ、各大学にとってはメリットになります。作問の負担が大きすぎるためにセンター試験だけで合否判定をしている大学にとっては、採点の負担を受け入れるだけで記述式試験を合否判定に取り入れることができます。
何より、「多肢選択だけでは満点は取れない」「選ぶだけでなく自力で解答を記述しなければならない」という方式を示すことで、受験生の勉強のしかたが変わるでしょう。その効果は非常に大きいと思います。

マークシート方式のセンター試験の弊害はすでに語りつくされていますが、その弊害を取り除くための具体的方策はあまり語られていないように思います。たとえば、多肢選択の問題に「これらの中のどれでもない」という選択肢を付け加えるだけで、現在のセンター試験よりはかなり試験の効果が高まると思いますが、そのような議論はなかなか見かけません。私の「記述式問題の導入」のアイデアはなかなかの妙案だと思うのですが、いかがでしょうか。

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(2月4日追記)似ているけれど少し趣旨が違うアイデア: NPOによる全国一斉入試への参入 (辰己丈夫の研究雑報)

アイダホ州の自動車運転免許の筆記試験では、多肢選択の問題の大半に "None of the above" という選択肢がありました。

関数の連続性とETC深夜割引

2006-01-06 | アカデミック
「関数の連続性」といえば高校数学や大学教養数学の微積分で出てくる概念ですが、それが現実の社会問題とどうつながっているか、というお話です。

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<トラック滞留>午前0時前、ETC深夜割引待ち 東名上り

深夜の東名高速道上り線で、路側帯などに違法駐車する大型トラックが急増している。ETC車対象の高速料金の深夜割引が始まる午前0時を待つためで、日本道路公団(昨年10月に分割民営化)の改革が思わぬ副作用を招いた形だ。年末から三が日こそ見られなかったものの、これから再現されそうで神奈川県警は「駐車違反であり、危険」と呼びかける。だが、輸送業界は厳しいコスト競争にさらされ、改善の兆しはない。
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あまりにも容易に予測できたはずの事態なのに、何の対策もとらなかった道路公団/道路会社の愚かさに呆れ返ります。世間では「道路公団が民営化されれば経営努力でサービスがよくなる」などと能天気なことばかり語られていますが、これほど簡単な数学もできない人々が経営方針を決めているようでは、先が思いやられます。

要するに、何が問題かというと、出口通過時刻と通行料金の関係が「午前0時」という点で不連続であること、それに尽きるわけです。

問題の解決は簡単で、出口通過時刻と通行料金の関係が連続になるように、制度設計を変更すればよいのです。
現行のETC深夜割引制度は「通行時間の一部が0時~4時にさしかかれば3割引」と私は理解しています。これだと、0時と4時の2点で、「割引なし」「3割引」という大きな不連続が発生します(他の割引制度を考慮しない場合)。この不連続を避けるための制度設計として思いつくのは、次の2つの方法です。

(1) 通行時間の一部が1時~3時にさしかかれば割引率30%、0時59分~3時1分なら29.5%、…0時1分~3時59分なら0.5%、というように、割引率を分単位で細分する。(首都高速のETC深夜割引がこれに似た制度だったと思います)
(2) 割引率が通行時間に占める割引時間帯の比率に比例するようにする。たとえば、0時から2時に通行すれば30%、11時から1時なら(全通行時間の半分が割引時間帯なので)15%、というように。

欠点として、料金制度が複雑で告知が困難であること、利用者が事前に割引率を予想するのが困難であることが考えられますが、いずれも取るに足らない問題です。トルゲートでの現金徴収では実現不可能な複雑な料金制度を実現できることこそがETCのメリットであり、「料金制度は単純でなければならない」というのは後ろ向きな考えです。正確な金額を事前に予想できないのは電気代や水道代も同じことで、重大な欠点とはいえません。

関数の連続性というのは、大学教養の微積分で「ε-δによる連続性の定義は難しいだけで役に立たない」などと、さんざん悪者扱いされていますが、このように、しっかり現実の問題と結びついているのです。数学を受験や大学卒業の手段としかみなさず、入試の難問奇問は解けても現実の問題を数学の考え方で解決できないのは、あまりにも愚かです。

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(1月7日追記)同趣旨のブログ記事を見つけたのでリンクします。
ITの活用(階段関数で価格を決めることからの脱却)

《本》世にも美しい数学入門

2005-05-18 | アカデミック
世にも美しい数学入門 ちくまプリマー新書
藤原 正彦 (著), 小川 洋子 (著)

もうちょっと うだうだ帳: うつくしいもの」で紹介されているのを見つけたので、記録しておきます。
藤原氏の著作はまだ読んだことがなく、Amazon のレビューでも良書かどうか判断つきかねるのですが…

リンク先のブログ記事を読んで、ふと思い出したことがあります。
人づての人づてのそのまたうろ覚えで、正確なセリフは覚えていないのですが、ある天才数学者が、自分の子供に、自分のしている仕事を「人の心の中にしかない、目に見えない美しいものをつくっているんだ」と語った、というエピソードです。
数学は自然科学の一部とみなされることが多いですが、私は、「自然科学は人間の外部に存在する世界を研究する学問、数学は人間の理性に内在する世界を研究する学問」と思っています。

そういえば、私自身も先日の記事に、大見栄を張って
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学問は芸術です。中でも数学は最高級に属する「芸術的な」学問です。
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なんて書いてしまいました。いや、実際そう思うのですが、自分がそれに値する芸術的な仕事をしているか、と我が身を振り返ると… まだまだ修行が必要ですね。

「家」のつく職業

2005-05-14 | アカデミック
きょうのつぶやき: 物書きという人」で、「作家とは何か」という疑問を発端に、「作家」や「ライター」に関する考察が展開されていますが、ここではちょっと違う切り口で「作家」という職業名について考えてみたいと思います。

「作家」には「家」の字がついていますが、同様に「家」がつく職業は世の中にたくさんあります。画家、書家(書道家)、写真家、彫刻家、陶芸家、作曲家、演奏家、舞踊家、落語家、漫画家、演出家… ついでに言うと、「作家」をそのまま含む劇作家、放送作家などという職業もあります。それでは、これらの職業に共通する特徴は何でしょうか? おおかた、次の2点に集約されるのではないかと思います。

1. 創作・表現するものに何らかの意味での芸術性がある
2. その名前が指し示す活動を生業としている

1.の意味でこれらの職業を総称すると「芸術家」、2.の意味だと「専門家」となって、どちらにしても「家」がつきますね。
柔道家などの「武道家」は、芸術家とは違いますが、その道を究めて芸術の域に達した人、と考えれば、上の特徴づけに含まれると考えてよいと思います(単なる柔道選手を「柔道家」とはいわないでしょう)。

この観点で「作家」という職業を見直すと、「作家」を名乗るためには、書いている作品が「文芸」でなければならない(必ずしも小説(フィクション)である必要はないが)ということになります。
「物書きという人」で物書き論を展開したよしみさんは、自分の本に「私は作家だ」と繰り返し書いているエッセイストに反発していますが、それはつまり、よしみさんがその人の書いたものを文芸とはみなさなかった(芸術性を認めなかった)ということでしょう。
よしみさんは「物書きという人」で、作家の条件として、
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つまりどんな題材を扱うにしろその人固有の世界を創造している人は、作家と呼べるのではないかと私は思います。
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と述べていますが、この見解は、「作家」=「書いたものが『文芸』である」という私の解釈と、それほど違っていないように思います。

ちなみに、上述の特徴づけにあてはまらない(2.を満たすが1.を満たさない)職業名として、法律家、実業家、評論家、政治家などがあります。私は、(個人的な意見として)最後の二つは「評者」「政治者」で十分だと思いますけどね。建築家はちょっと微妙ですが、建築には芸術性を認めてよいと思います。
まぁ、ほかにも、収集家、愛好家、美食家など、職業とはいえない「家」もいろいろありますが…

ところで、私の職業を言葉で言い表すと、研究者、科学者、数学者、学者… どれをとっても「者」がつく職業名で、「家」はつきません。
ここで、あえて声を大にして言いましょう。学問は芸術です。中でも数学は最高級に属する「芸術的な」学問です。その意味で、われわれは研究家、科学家、数学家、学術家などと名乗ってよいはずです。でも、そのような呼び方は一般的ではありません。学問に携わる人々はなんと謙虚なのでしょう!
関孝和、建部賢弘など、和算(江戸時代の日本独自の数学)の研究者は「和算家」と呼ばれています。上述の「家」のつく職業の特徴づけと、和算の数学としての価値を考えるなら、「和算家」という呼称はきわめて適切であるといえます。


(余談)これを書く途中で、頻繁にMicrosoft Bookshelfで「○○家」を引きましたが、だんだん「逆引き広辞苑」が欲しくなってきましたねぇ(笑)。