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Boise on my mind

ウェブサイト「Boise on the Web アイダホ州ボイジー地域情報」の作者短信、運営裏話など

選択公理2題

2010-03-08 | アカデミック
自分用メモです.

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(1) 「可算集合の可算和は可算集合」をこの本の演習問題に書いたら,演習問題解答作成を手伝ってくれた某氏に「選択公理についてはどういう立場なんですか?」と聞かれました.
はい,白状します,気づいてませんでした,集合論の専門家のくせに.
でも,それは想定される読者の理解を超えた,もっぱら専門家の間での議論になってしまうので,本では演習問題解答の脚注で一言触れるだけで済ませました.想定される読者の99%以上は,可算選択公理すら認めない(積極的に排除する)立場での数学には無縁でしょう.

(2) 某先生の位相空間論の授業を受けていた優秀な学生が私に質問に来ました.
なんでも,「任意の無限集合は可算部分集合を持つ」という演習問題の答えを知ろうといろんな本を調べたら,選択公理がどうのこうのと小難しいことばかり書いてある,で,出題した某先生に質問したら「選択公理なんか要らないはずだ」と答えられたので,わからなくなってしまった,とか.
そうなんです,選択公理がどこで使われているかというのは,えてして,専門家でもうっかり見逃すぐらい暗示的なんです.

大学教員にとって大学への貢献とは

2010-03-03 | アカデミック
某文書に書いた作文の一部を載せます.

(その1)
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数学の研究に必要なのは、継続して思考に集中できるまとまった時間である。1時間の研究時間が10回細切れにあることと、10時間の連続した研究時間とでは、数学研究のための時間としては質的に異なる。これは数学に限らず理論系の学問全般に当てはまるだろう。今回の派遣で研究時間を自由に確保できる立場を得られたことで、あらためてこのことを痛感することとなった。
大学教員として教育や大学運営の仕事をこなすことは重要だが、教員が研究以外の仕事に忙殺されて自分自身の研究が進まない状況になってしまっては、研究者が教育を行う大学の意義は損なわれてしまう。
大学教員が研究能力を存分に発揮するために、教育や大学運営の仕事を一定期間免除して研究に集中させるサバティカル制度は大いに有効である(派遣先のボイジー州立大学数学科にもサバティカル制度はある)。…(以下略)
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(その2)
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大学に属する研究者にとって、研究と教育で成果を上げて大学に貢献しようと努力する意欲の源泉となるのは、何より「大学は自分の研究分野を尊重して、研究者としての自分の実力を正当に評価している」と実感できる大学の姿勢だと、私は考えている。…(以下略)
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(追記)なんでこんなことを書いてるのかって…,「今日もここを見ています」とだけ書いておきます.

《本》だれでも証明が書ける―眞理子先生の数学ブートキャンプ

2010-02-25 | アカデミック
松井 知己 (著) だれでも証明が書ける―眞理子先生の数学ブートキャンプ

いっとき数学セミナーに連載していた企画(→関連記事)の単行本化ですね.
連載では,命題論理における証明の論法をgiven-goal table(名前うろ覚え)という図式で視覚化するという手法を紹介していました.これはアメリカの論理の本,Daniel J. Velleman (著) How to Prove It: A Structured Approachにならった手法です.

私がこの本で世に問うて,今も考え続けている「だれでも証明が書ける」ことへのアプローチは,ちょっと違って,述語論理における証明の手順・論法にこだわっています.実はそういう(述語論理にこだわった)論理の本というのが今まで皆無だったけれど,大学数学教育を念頭に置いた論理の教育では述語論理こそが重要で,「述語論理における証明」の教育の手法を確立しなければならない,というのが私の考えです.

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(追記)
日本評論社のサイトの書籍詳細ページで目次が確認できます.第5章で述語論理の証明の形式について扱っているようです.

√xの定義と「論理的矛盾(?)」

2010-02-14 | アカデミック
どうしても腑に落ちないので,書きます.

計算とは何か 一回目の授業(Researchlog by Noriko Arai)
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ここで、興味深いのは、彼らは、「 x^2=4 を満たすxを求めよ」という問題には「2, -2」と正しく答え、電卓の√ボタンに4を入力すると、2と表示されることは認識していながら、それでも、「√xとは、二乗するとxになる数」と答えてしまう、という点です。
つまり、(1) x^2=4 を満たすx、(2)具体的に√ボタンに非負の数を入力した際の挙動、と自分の答えが論理的に矛盾しているにもかかわらず、それに気付かない、ということを意味します。
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で,新井紀子氏は,生徒のこの回答は「論理的矛盾を内包している」という前提で,その後の議論を展開しています.
その議論に対して,Twitterで一部のフォロアーから「論理的矛盾に気づくのは高校生にとって簡単ではない」という立場からの批判や議論がなされたようです.

私は,Twitterでの批判とは異なる方向からの批判を試みます.

そもそも,
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(1) x^2=4 をみたす x は 2,-2 のふたつ.
(2) √4=2
(3) √x は2乗すると x になる数
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という三つのステートメントを生徒が続けて述べたことは,ほんとうに「論理的矛盾」なのでしょうか? これを「論理的矛盾」の一言で切って捨てることのほうが,実は数学研究者の「偏見」であるという可能性はないでしょうか?

ここで,私は大胆にも「生徒は間違っていない」という擁護を試みます.
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生徒の意識の中では,(1)(2)(3)を述べるときに,『議論の対象とする数の全体』がそれぞれ変化している.
(1)では,『議論の対象とする数の全体』は実数全体の集合.
(2)(3)では,『議論の対象とする数の全体』は非負実数全体の集合.
だから,(1)(2)(3)はそれぞれ単独ではすべて正しいし,(1)と(2)(3)では『議論の対象とする数の全体』が変化しているのだから,論理的に一貫している必要はない.
そもそもの問題は,(1)(2)(3)を答えさせるうえで『議論の対象とする数の全体』を何とするかについて,明示的な約束事を設けなかった(意図的に注意を喚起しなかった)点にある.
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√x を定義しようとする意図は,言うまでもなく「2乗する操作の逆」です.このことは,授業を受けたすべての生徒が理解していることです.
ところが,単に「2乗する操作」といっただけでは,写像としての始域(source)と終域(target)が明示されていません.そこで,始域と終域の両方を「実数全体の集合」とすると,「2乗する操作」は単射でも全射でもないので,「逆」を定義するために技術的な約束事が必要になります.すなわち,「2乗操作の値域(range)から外れる負の実数は √x の定義域(domain)から外す」「正の実数については逆対応が2価になるので正のほうの値を選択する」というふたつの約束事を明示的に述べて,はじめて,素朴な直観のままでははっきりしない「逆操作」を明確な数学的定義の形にすることができます.
中学数学での √x の定義は,この立場からなされています.

ここで,「2乗する操作の逆」という素朴な直観を √x の数学的に妥当な定義に落とすには,もうひとつ別の立場があることを指摘します.
答えは簡単で,「2乗する操作」の始域と終域の両方を「非負実数全体の集合」と規定してしまうのです.そうすれば「2乗する操作」は全単射ですから,「逆」にあいまいさがなくなり,単に「√x は 2乗すると x になる数」と述べるだけで数学的定義として成立します.
始域と終域を非負実数に制限するというのは,恣意的に議論を曲げることではなく,歴史的,直観的な観点からはむしろ自然な考え方です.
そもそも平方根の観念は,「正方形の面積と辺の長さの関係」として,ユークリッド幾何や古代インドの数学にすでに存在していたものです.そして,幾何の世界ではもっぱら非負実数で表される量を扱うわけで,そもそも負の実数自体が思考のプロセスに現れません.
中学生や高校生にとっても,平方根の観念に対する最も素直な直観は「正方形の面積と辺の長さの関係」であって,平方根を考えるときに非負の平方根だけに着目するのは自然なことです.そして √x が「非負の平方根」を表現することはその自然な直観に合致しています.
むしろ,(負の実数を含めた)実数全体を議論の対象とする立場で √x の定義を述べようとするのは,近代的な代数学の立場であって,長い数学の歴史の中ではむしろ特異ともいえるのです.

このように考えると,√4 でも √x でも,√という記号が出てきた時点で,それを見た生徒が,無意識のうちに「√の中に入る数も,√が表す数も,非負実数であることが前提である」と判断してしまうのは,無理もない,というか,むしろ素直な感覚であるとすら思えます.つまり,√という記号が出てくる(局所的な)文脈では,無意識的に,議論の対象となる数の全体を『非負実数全体』と規定してしまう(そして,たいていの場合はそれでうまくいく)わけです.

思うに,上述の(1)(2)(3)を続けて述べた生徒の意識は
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(1)は代数方程式の形をしている,代数方程式の解を論じるという文脈では,議論の対象となる数の全体は「実数全体の集合」だ.
(2)(3)は√が単独で扱われている式だ.だから,議論の対象となる数の全体は「非負実数全体の集合」だ.
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であって,この時点で(1)と(2)(3)の間で論理的一貫性が保たれる必要がなくなっているのです.
この意識に基づいてなされた生徒の回答に対して,「(1)(2)(3)は論理的矛盾を内包している,あなたたちは間違っている!」と決めつけることは,教育者あるいは教育研究者として真にふさわしい態度なのでしょうか?

結局のところ,問題は,
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「数」や「計算」について論理的な議論を始めるときには,「議論の対象とする数の全体」を明示的に宣言する必要がある
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という考えについて,

-- 現状の高校までの数学の教育に,そういう考えが欠けている
-- 新井氏もこの考えを論点として認識していなかった

ということではないかと思います.

論理とか√xの定義とか(改)

2010-01-29 | アカデミック
(数学セミナー2009年5月号「よこがお」に書いた作文)
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なぜ論理や集合は学生にとって難解なのか?私は「教えるための理論」の不在が原因だと思っています.数学の記述手段としての論理や集合は数学者にとって空気のような存在のため,数学者自身も理論的に学んだ経験がほとんどなく,教えるための理論を持たないのです.数理論理学の知見を活かして,多くの数学者や学生に受け入れられる「教えるための論理と集合の基礎理論」を確立できないものかと思案しています.
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私の持論は,数学の論理というのは「習わなきゃ(教えなきゃ)使えるようにならない」です.現代の数学で用いられている論理というのは,「人間に本来備わっている普遍論理」とか「ビジネス自己啓発書的ロジカルシンキング」とかの内容からかけ離れたレベルで,現代の数学を記述するためにものすごく特殊化された論理なのです.なのに,数学の教科書はそのような「ものすごく特殊化された」論理を当然のように断りなく使って,教える人も当然のように断りなく(それを教える「必要」すら認識せず)使っています.学習者は「数学特有の論理」を学習する機会がないまま放り出されるのです.
数学の文脈で論理を正しく使って議論できる能力を養うためには,「論理的に考えましょう」という精神論だけでは絶対ダメで,「数学記述のために特殊化された論理」というのを,ある段階で,何らかの方法で教育する必要があると思っています.

…で,そのための最初のチャレンジとして,1年前にこういう本を出版したわけですが,実は,私はすでに「次はこんな本を書きたい」という構想(野望?妄想?)を持っていたりします.すでに出した本が「理論編」なら次のは「実践編」という感じです.まだアイデアだけの段階で,商業出版の可能性とかは全くの白紙ですが.


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√xまとめをめぐって,一時,何人かのブログやTwitterで興味深い議論が起こりましたが,関係者が次々に論を引っ込めて立ち消えになったようなので(これは残念なことだと思いますが…),しかなたく,私も一時公開していた記事を引っ込めました.この記事は,引っ込めた記事から,元の議論から独立して読める部分を切り出したものです.

センター試験:問題訂正板書ミス?

2010-01-17 | アカデミック
センター試験725会場で インフルなどで追試683人(asahi.com)

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また、16日には北海道北見市の北見工業大学会場の1教室で、試験監督者が1時限目の公民の試験に関する説明をする際、間違って2時限目の「世界史A」の問題訂正文を板書してしまうミスがあった。この部屋では33人が公民を受験。世界史Aの訂正個所が外部に漏れるのを防ぐため、1限目終了後、受験生をトイレ以外は教室の外に出さない措置をとった。
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問題が起こった場所が場所だけに(^^;)気になって言及しますが…
いちおう,「センター試験の実施要員になりうる人」の立場からのコメント.

記事ではもっぱら試験監督者の過誤のように書かれていますが,これは監督者というより「試験本部」の過誤であって,監督者を責めるのは気の毒です.
まあ,どちらにしても「北見工業大学試験場」の内部でのミスには違いないので,部外者の立場から見ればあまり違いはないでしょうが.

センター試験では,会場ごとに(広い会場の場合は会場内複数箇所に)「本部」が設けられます.試験問題や解答用紙などのマテリアルは本部で厳重に管理し,科目ごとの試験の開始前に,本部担当者から各試験室の監督者に,厳格な確認作業に基づいてマテリアルの引渡しが行われます.試験終了後にも同様な確認作業を行いながら答案紙などのマテリアルを本部に引き渡します.
で,公民の試験が行われる直前には,公民の試験に関連するマテリアルが本部から監督者に引き渡されます.この時点で公民の問題訂正があることがわかっていれば,公民の問題訂正紙が厳封された状態で引き渡されます.監督者は解答開始を宣言した直後に,問題訂正紙の内容を板書して受験者に告知します.
報道内容から推定するに,ミスが起こった試験室では,本部が誤って監督者に「世界史の問題訂正紙」を引き渡してしまい,監督者はそれに気づかず(それを「公民の問題訂正紙」であると誤認して)試験開始直後に板書してしまったようですね.

もちろん,このプロセスでの最大のエラーは,本部が誤ったマテリアルを監督者に引き渡したことにあります.公民の試験の時点で(後に実施される)世界史の問題訂正紙が試験室に存在したこと自体が,あってはならないエラーだったのです.
もっとも,監督者も「本部からの引渡しの時点」と「板書のために開封して内容を見た時点」にエラーに気づくチャンスがあったわけですが…

受験者の試験室カンヅメは,運悪くそれに該当した受験者は気の毒ですが,交通混乱などによる試験時間繰り下げでも行われることで,それほど珍しいことではないと思います.

センター試験リスニング機器不良再開テストの動向

2010-01-17 | アカデミック
記録として今年も書いておきます.

センター試験725会場で インフルなどで追試683人(asahi.com)
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5回目となる英語のリスニングは志願者の91.6%に当たる50万6912人が受験。全国で計224人(午後10時現在)がICプレーヤーの不具合を申し出るなどして試験を中断、うち辞退者4人を除く220人(昨年249人)が終了後に同じところからやり直す「再開テスト」を受けた。
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センター試験:インフルで欠席 初日は全国426人(毎日jp)
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一方、5年目の英語のリスニングでは、今年もICプレーヤーの音声が聞き取りにくいなどのトラブルが相次いだ。181会場の224人が、試験終了後に他の機器で中断したところからやり直す「再開テスト」の対象となった。
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昨年は249人,一昨年は181人,ということで,たぶん「50万人中200人前後(0.04%)の再開テスト発生」というのが機器品質管理と現場での運用の両方を考え合わせた「限界」なのでしょうね.
リスニング試験実施形態に対する私の見解はこの記事を書いた時点と変わりません.

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(追記)
今回からICプレーヤーの仕様が変わったようですね.この写真やDNCのウェブサイトを見てみると,形が長方形から正方形に変わり,記録媒体がメモリースティックからSDカードに変わっています.裏面に滑り止めがついて,試験室で「滑り止めの輪ゴムを巻く」という面倒な手順が不要になったようです.ボタンやランプの配置は以前とほぼ同じ.

各点収束+単調増加=一様収束

2009-12-16 | アカデミック
某数学関係掲示板で見つけた問題がなかなか面白いので,自分用覚え書きとしてブログします.
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有界閉区間I⊂(R)上の連続関数の列{fn}が次の条件を満たす
(1) 任意のx∈Iに対してf_k(x)≦f_(k+1)(x)
(2) I上の連続関数fに各点収束する
ならば、{f_n}はfに一様収束していることをε-N論法を用いて示せ
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「有界閉区間」という制約を外せば反例が作れるので,定義域のコンパクト性を積極的に使わないと証明できません.
コンパクト性の帰結についての知識をいろいろ使えば証明方法はいくらでも思いつきますが,直接にε-N論法でいくとなると,けっこう面倒です.まあ,本質的なところに気づいてしまえば,あとは一本道ですが.

私の学科のカリキュラムにはズバリ「位相空間論」という名の科目がありますが,それを受けた学生でも,この問題を解けるのは1学年に1人いるかいないか,だろうなぁ…

ちなみに,掲示板では投稿者が教えを求めているのですが,当該掲示板の仕様と私の現在の接続環境の技術的制約(プロキシ経由投稿禁止)で,私自身は教えたくても(直ちには)教えられません.

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(追記)
あとで考えて気づきましたが,実は条件(1)は落とせますね((1)があれば簡単な証明が可能だけれど,なくても証明できる).定義域がコンパクトなら各点収束と一様収束は同等というのは関数解析の古典的な定理のような…

で,抽象化が大好きな数学者の視点としては,当然「各点収束と一様収束が同等」から「定義域のコンパクト性」は導けるか? という問題を考えるわけですが… たぶんそれは無理で,せいぜい可算コンパクトかスードコンパクト(pseudocompact)ぐらいしか出てこないでしょう.ちゃんと考えてはいませんが.

「スイカは果物である」は命題か?

2009-06-04 | アカデミック
とある授業で「命題,述語」などを教えていますが,演習問題のネタ探しでいろんな離散数学の教科書を見ているうちに,次の演習問題を見つけました.

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次の主張は命題といえるだろうか.命題の場合はその真偽を求めなさい.
(1) 略 (2) 略 (3) 数学は美しい学問である (4) スイカは果物である
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この教科書の立場では,「真偽がはっきりする主張」が命題である,としています.
この基準によって,(3) は「命題でない」と結論されます.

ただし,この結論は,「学問の美しさの判断は主観や立場に依存するもので,社会的な合意といえる統一的な判断基準は存在し得ない」という認識に基づいていることに留意する必要があります.
もし,何らかの合理性のある基準で「美しい学問」と「美しくない学問」の区別が定義されて,それに明に異を唱える人がいない(内心では基準の内容に賛成しない人がいたとしても,その人が基準そのものの存在を否定する言動をとらない)という状況が起こったならば,その定義によって「数学は美しい学問である」の真偽ははっきりするので,「数学は美しい学問である」は命題であることになります.

さて,(4) 「スイカは果物である」はどうでしょう.
これが「命題である」と判断されるためには,「果物」の定義があって,しかも,それが社会的に合意された統一的なものでなければなりません.あるいは,定義が複数あったとしても,「現在の文脈では○○による定義を採用する」と決めて,議論に関係する人すべてがその決定に合意すれば,「スイカは果物である」の真偽は「○○による定義」によってはっきりするので,命題として扱うことができます.
そうでない限り,「スイカは果物である」は「数学は美しい学問である」と同様に,「命題でない」と判断せざるを得ません.

それで,気になって,その教科書の演習問題解答のページを見てみると,(4)の答は
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命題である.F(偽).
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となっていました.

つまり,著者の解釈では,「果物」の概念については社会的に広く合意された唯一の定義があって,その定義ではスイカは果物ではない,ということになるのでしょうね.

うーん,私はその立場には賛成できないのですが…
ウェブをちょっと調べただけでも,スイカを果物と野菜のどちらに分類するかは,栽培の立場では「野菜」だけど流通や利用の面では「果物」に分類するほうが合理的とか,植物学的には木でなく草なので野菜とすべき(この基準ではイチゴも野菜)とか,西洋文化ではスイカはfruitとみなされるとか,いろんな答がでてきて,はっきりしません.