どうしても腑に落ちないので,書きます.
計算とは何か 一回目の授業(Researchlog by Noriko Arai)
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ここで、興味深いのは、彼らは、「 x^2=4 を満たすxを求めよ」という問題には「2, -2」と正しく答え、電卓の√ボタンに4を入力すると、2と表示されることは認識していながら、それでも、「√xとは、二乗するとxになる数」と答えてしまう、という点です。
つまり、(1) x^2=4 を満たすx、(2)具体的に√ボタンに非負の数を入力した際の挙動、と自分の答えが論理的に矛盾しているにもかかわらず、それに気付かない、ということを意味します。
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で,新井紀子氏は,生徒のこの回答は「論理的矛盾を内包している」という前提で,その後の議論を展開しています.
その議論に対して,Twitterで一部のフォロアーから「論理的矛盾に気づくのは高校生にとって簡単ではない」という立場からの
批判や議論がなされたようです.
私は,Twitterでの批判とは異なる方向からの批判を試みます.
そもそも,
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(1) x^2=4 をみたす x は 2,-2 のふたつ.
(2) √4=2
(3) √x は2乗すると x になる数
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という三つのステートメントを生徒が続けて述べたことは,ほんとうに「論理的矛盾」なのでしょうか? これを「論理的矛盾」の一言で切って捨てることのほうが,実は数学研究者の「偏見」であるという可能性はないでしょうか?
ここで,私は大胆にも「生徒は間違っていない」という擁護を試みます.
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生徒の意識の中では,(1)(2)(3)を述べるときに,『議論の対象とする数の全体』がそれぞれ変化している.
(1)では,『議論の対象とする数の全体』は実数全体の集合.
(2)(3)では,『議論の対象とする数の全体』は非負実数全体の集合.
だから,(1)(2)(3)はそれぞれ単独ではすべて正しいし,(1)と(2)(3)では『議論の対象とする数の全体』が変化しているのだから,論理的に一貫している必要はない.
そもそもの問題は,(1)(2)(3)を答えさせるうえで『議論の対象とする数の全体』を何とするかについて,明示的な約束事を設けなかった(意図的に注意を喚起しなかった)点にある.
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√x を定義しようとする意図は,言うまでもなく「2乗する操作の逆」です.このことは,授業を受けたすべての生徒が理解していることです.
ところが,単に「2乗する操作」といっただけでは,写像としての始域(source)と終域(target)が明示されていません.そこで,始域と終域の両方を「実数全体の集合」とすると,「2乗する操作」は単射でも全射でもないので,「逆」を定義するために技術的な約束事が必要になります.すなわち,「2乗操作の値域(range)から外れる負の実数は √x の定義域(domain)から外す」「正の実数については逆対応が2価になるので正のほうの値を選択する」というふたつの約束事を明示的に述べて,はじめて,素朴な直観のままでははっきりしない「逆操作」を明確な数学的定義の形にすることができます.
中学数学での √x の定義は,この立場からなされています.
ここで,「2乗する操作の逆」という素朴な直観を √x の数学的に妥当な定義に落とすには,もうひとつ別の立場があることを指摘します.
答えは簡単で,「2乗する操作」の始域と終域の両方を「非負実数全体の集合」と規定してしまうのです.そうすれば「2乗する操作」は全単射ですから,「逆」にあいまいさがなくなり,単に「√x は 2乗すると x になる数」と述べるだけで数学的定義として成立します.
始域と終域を非負実数に制限するというのは,恣意的に議論を曲げることではなく,歴史的,直観的な観点からはむしろ自然な考え方です.
そもそも平方根の観念は,「正方形の面積と辺の長さの関係」として,ユークリッド幾何や古代インドの数学にすでに存在していたものです.そして,幾何の世界ではもっぱら非負実数で表される量を扱うわけで,そもそも負の実数自体が思考のプロセスに現れません.
中学生や高校生にとっても,平方根の観念に対する最も素直な直観は「正方形の面積と辺の長さの関係」であって,平方根を考えるときに非負の平方根だけに着目するのは自然なことです.そして √x が「非負の平方根」を表現することはその自然な直観に合致しています.
むしろ,(負の実数を含めた)実数全体を議論の対象とする立場で √x の定義を述べようとするのは,近代的な代数学の立場であって,長い数学の歴史の中ではむしろ特異ともいえるのです.
このように考えると,√4 でも √x でも,√という記号が出てきた時点で,それを見た生徒が,無意識のうちに「√の中に入る数も,√が表す数も,非負実数であることが前提である」と判断してしまうのは,無理もない,というか,むしろ素直な感覚であるとすら思えます.つまり,√という記号が出てくる(局所的な)文脈では,無意識的に,議論の対象となる数の全体を『非負実数全体』と規定してしまう(そして,たいていの場合はそれでうまくいく)わけです.
思うに,上述の(1)(2)(3)を続けて述べた生徒の意識は
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(1)は代数方程式の形をしている,代数方程式の解を論じるという文脈では,議論の対象となる数の全体は「実数全体の集合」だ.
(2)(3)は√が単独で扱われている式だ.だから,議論の対象となる数の全体は「非負実数全体の集合」だ.
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であって,この時点で(1)と(2)(3)の間で論理的一貫性が保たれる必要がなくなっているのです.
この意識に基づいてなされた生徒の回答に対して,「(1)(2)(3)は論理的矛盾を内包している,あなたたちは間違っている!」と決めつけることは,教育者あるいは教育研究者として真にふさわしい態度なのでしょうか?
結局のところ,問題は,
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「数」や「計算」について論理的な議論を始めるときには,「議論の対象とする数の全体」を明示的に宣言する必要がある
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という考えについて,
-- 現状の高校までの数学の教育に,そういう考えが欠けている
-- 新井氏もこの考えを論点として認識していなかった
ということではないかと思います.