2019年 読んだ本
2020年読んだ本
2021年読んだ本
2022年読んだ本
2023年読んだ本
2019年から2023年まで トータル234冊
今年は今のところ21冊
この手の本を読む人はどんな人物か?
それは自分だが、そう言う人と話し合いたいものだ
ほとんど覚えていないとしても、血肉になっている実感はある
2019年 読んだ本
2020年読んだ本
2021年読んだ本
2022年読んだ本
2023年読んだ本
2019年から2023年まで トータル234冊
今年は今のところ21冊
この手の本を読む人はどんな人物か?
それは自分だが、そう言う人と話し合いたいものだ
ほとんど覚えていないとしても、血肉になっている実感はある
夜中の3時半頃、雨が降り始めた
ずっと期待していた雨、地表が冷えて連日の猛暑から逃れられることを期待した
だが、直ぐ止んでしまう気もした
それでも思いのほか雨は粘って、雨という自然現象を久々に実感した
木々も草も虫たちも、本当に久しぶりの雨を喜んだに違いない
今朝、埼玉の妹からラインで今朝は曇り空なので朝顔が元気に咲いている
と連絡があった
生き物たちには本当にきつい今年の暑さ
これが今年からずっとなのか、今年だけのことか、、少し不安が残る
ところで、どこかにあったはず!と本棚から見つけたのがこのノート
購入した本(読んだ本)、購入したCD、見に行った映画、聴きに行ったコンサート、
見に行ったサッカーの試合、出かけた旅、そしてコーチしていたサッカーの試合の結果
書き残されている
思い出のタイトルを英語で書いたが情けないことにスペルが違っていた
正しくはMemoriesだった
記録はもっとたくさん残っていると思っていたが、1997年から1999年までだった
別冊を探したが今のところ見つかっていない
このノートは自分の内面を育てた具体的なものの記録だ
こうしたものにお金を費やしていたことは、今見ると懐かしいし
どこか誇らしい気もする
始めの1997年は読んだ本(購入した本)は25冊
購入したCDは59枚(セットも一枚とみて)
映画は5本
コンサートは6回(クラシックコンサート)
スポーツ観戦はグランパスの試合で4回
子どもたちのサッカーの体外戦は5試合で4勝1敗
(負けた試合は風邪が流行っていて一人少ない状態だった)
1998年は本が19冊
CDが28枚
映画が4回
コンサートが4回
サッカー観戦が3回
少年サッカー(小学生)は12試合(勝敗は半々くらい)
中学生は10試合(引き分けが数試合、勝ち負けは半々)
旅は京都へ
1999年は本が26冊
CDが15枚
映画が8本
旅は京都、東京、
これらを眺めると、1997年当時は読む本はフィクション主体の軽めが多かった
ところが徐々に真面目な本も多くなっている
キリスト教の死海文書関係とか須賀敦子の本とか
フィクションではない本が増えている
こうしてみると、いつ頃から哲学系、社会学系(ベルクソンとかオルテガとか)が
増えてきたのか気になる
確か今年読んだ本で記録に残しているから、いつかチェックしてみよう
購入したCDはどの年もがクラシック関係
バッハから現代音楽(メシアン)まで種種雑多で今も愛聴しているものがある
ただ、つくづく変な曲を聞いているものだと思う
市場性はないアルバムばかりだから、売りに出したら二束三文の口だ
母の父、祖父は何でも記録に残しておく人だった
今もとっておけば昔の良い記録になっただろうが
メモ魔だったという記憶しか残っていないのが残念だ
母はその血を受け継いで何でもメモしている
家計簿をつけているが面倒だからといって合計金額を出していない
その血をついで自分は、こんな感じの記録を残した
それがどうした、、といえば、それまでだが
こうして眺めてみると何かが残っているというのは
大したものだとも思う
あっ!
思わず声が出た
朝、手を洗おうとして水道の蛇口を捻ったら温かい水が流れてきた
まるでお湯のようだ
今年の夏は半端なく暑い
昨夜は寝苦しいほどの暑さだった
エアコンは切っているから0時半くらいに目が覚めた
ほんの少しだけエアコンを入れて、団扇で煽って寝ようとする
窓を開けて風を入れようとすると
ホコリの匂いを含んだ生暖かい風が入るだけだ
窓の外、南側の庭に打ち水しようかな、、とさえ思いつく
打ち水をすると気化熱で風が冷たくなるよりは
蒸し暑さが増してくるのだろうか、、との不安もある
結局、何もしないで寝ることに専念する
背中は少し汗が滲んでいる
室内で熱中症にかかる人が多いとニュースでは報道されている
体力が落ちてきた同居人が心配だが、思いの外、眠れているときが多い
こんなに熱い水だと、そうめんをしめることもできない
同居人がなにかに怒っているようにつぶやく
7月20日くらいから今日の8月18日まで、雨という雨は全く降らないでいる
地面が冷える機会がまったくないので、熱は溜まる一方
毎日が熱の足し算のようで、朝になっても爽やかな空気ということはない
ホント、怒れちゃう、、
このクソ暑さは、人間どもの悪政を天が懲らしめている
と無邪気に信じでいた平安時代は、今よりもマトモだったかも知れないと思ったりする
もっと心に素直に従えば良かった
「光る君へ」で、まひろが久しぶりに道長と逢瀬を迎えた時に
実感したことはこれだった
歳を重ねると、きっと誰もがこのような後悔の念を覚えるのだろう
例外もなく、自分もそうだった
「ちんくしゃ」
犬のちんが、くしゃみをした時の顔を想像させるということで
彼女につけられたニックネームだった
男たちはそれで通っていたが、彼女は知っていたかどうかはわからない
ただ、よく動く大きな黒目と少し肩がすくんだところは
まさにニックネーム通りでうまいこと名付けたものだと思っていた
高校一年の同じクラスに彼女はいた
普通は話してみて人は理解し合うのだが、初めて見たときから
気になって仕方なかった
どこか心が動いて、何時も気づかれないように彼女を見ていた
彼女は美人の部類に入って多くの男子は彼女に惹かれていたと思う
クラスには委員長の役を自ら引き受ける元気な男がいた
彼は自分の気持ちを隠さずに彼女にアプローチし
しばしば彼女と話し込んだり、一緒に行動したりしていた
でも、僕を見る時にふっと見せる彼女の視線は
「もしかしたら!」と思わせるものだった
その実感みたいなものはクラスが変わっても3年間は続いた気がする
例の元気な彼はクラスが変わって、その後どうなっていたかは知らない
もし仮に自分の実感通りだったとしたら、自分は彼女の眼の前で
やってはいけないことをしてしまった
ある時、日記にはその人の名前ばかりが書かれたひとつ下の人に話しかけた
話しかけた内容は、付き合ってくれといった内容ではなくて
今も思い出すと笑えてしまうが、これからはこうした方がいいよといった内容だった
なんで、そんなことを言ったのか、、、
いつも頭の中でその人のことを思っていたから、自分が彼女のことを知ってるくらい
彼女も自分のことを知っていると勘違いしていたのだ
今思うと、そんなことを言われた人は随分困っただろう
そして、これは若き日の暴走として覚えている
でも、その話しかけた場所の直ぐ近くに「ちんくしゃ」はいた
「ちんくしゃ」は僕らを見ていた
それから少しして間接的に「ちんくしゃ」の女友達から
「ちんくしゃの憧れの君」は自分だったと聞かされた
それから十年以上経って、豊橋のマッターホーンというケーキ屋さんで
偶然「ちんくしゃ」を見かけた
相変わらす黒目がちで、品の良い雰囲気を醸し出していた
自分は直ぐに気がついたが、彼女は気づいたかどうかはしらない
不意に、もっと素直に自分の心に従えば良かった
「ちんくしゃ」ともっと気楽に話すことができていたら
少なくとも今とは違ったことになっていただろう
それは後悔の念と諦めに似た感情だ
名字はK 名前はM
ニックネームは「ちんくしゃ」
この人のことを、いつか記録に残そうと思っていた
それができて、少し役目を果たしたような気もしている
先日、2010年、2016年、そして今年2024年の7月の気温比較のグラフを作った
(朝のだいたい決まった時刻の室内温度計の記録から)
今年は特別に暑かったが、今日までの8月も同様にグラフ化してみると、やはり暑かった
青が今年のグラフで怒りを覚えそうにコンスタントに暑い
2019年はまだ低いし、2010年は変化が大きいことと比べると
本当に今年は特別な気候だと実感する
昨日は一時期、午後に黒い雲が広がって雨が降るかもしれない
どうせなら一時間くらいしっかり降れ!
と期待したが、何のことはない降った時間は数分だった
そのせいで蒸し暑くなり、送り火をする時はちょっとのことで汗をかいてしまった
日本が温帯から亜熱帯に変わってしまうとの考え方もあるようだ
恐ろしいのは今年の気候が今年だけの特別なものではなくて
これからずっとこの様なものになるかもしれないと言うことだ
ところで、IOCはまたもや日本でのオリンピック開催に好意的との話を耳にした
だが、開催時期が今年のように夏の一時期ならば、それは狂った判断としか思えない
1964年は10月10日が東京オリンピックの開会式の日だった
そのくらいの気候なら、アスリートも観客も楽しめただろうに
なぜ最近の大会の開催時期がこんなに暑い夏に変わってしまったのだろう
それにしても、暑い
いい加減にこの地方にも雨が欲しい
そう言えば、きのう送り火のためお寺さんに行ったら蝉の声が変わっていた
今まではクマゼミとかアブラゼミの賑やかな音だったが
昨日耳にしたのはツクツクボウシだった
暑くても季節は変化しているのだろう
(昔、お盆に北アルプスの山に登っていた頃は、赤とんぼを見たものだった)
涼しい音楽(音)は何か?
との問が以前あった
直ぐに思いついたのはシベリウスの「トゥオネラの白鳥」だった
トゥオネラの白鳥 シベリウス
寒々とした雰囲気を自分は感じるのだが、それは一般化できるのだろうか
先日取り上げたショスタコーヴィチの五番の交響曲の第1楽章の中間部分(5分くらいのところ)
第一主題が静かに奏される部分はなんだか雪が深々と積もる感じで
聴くたびにひんやりとした気分になれる
やはり寒い国の人の音楽はひんやりした和音感があるような気がする
そんなことをぼんやりと思っっていたら、風鈴の音について連想がつながってしまった
風鈴はガラス製よりも南部鉄器のそれのほうが音が消えるまでが長く涼しい感じがする
ガラス製はチリンチリン
南部鉄製はチリーン、チリーン
こんな感じで、色とか見た目はガラス製だが音は後者のほうが好きだ
暑い夏の夜はリムスキー・コルサコフの「シエラザード」もなんとなく良い
Rimsky Korsakov 「Sheherazade, Op.35」 II. The Kalendar Prince
アラビアンナイト(千夜一夜物語り)は一時期、途中まで読んだことがあったが
物語性に富んでいてなんだか面白かった
ということで、暑い夏を乗り切る方法をいろいろ探す毎日
書店はとても居心地が良い
まだ読んでない本とか、今の気持ちにあった本に出会うとワクワクするし
店に並ぶたくさんの本を見るたびに何時も
人はなんといろんなことを考えたりするのだろうと思う
新しい出会いは試し読みする最初のページで決まる
今でも覚えているがヘッセの「デミアン」は
冒頭のこの文章で購入を決めた
「私は、自分の中からひとりで出てこようとしたところのものを
生きてみようと欲したに過ぎない。なぜそれがそんなに困難だったのか。」
北杜夫の繊細な文体の「幽霊」の冒頭も
一発ノックアウトパンチを食らった感じだった
「人はなぜ追憶を語るのだろうか。
どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。
その神話は次第にうすれ、やがて時間の深みのなかに姿を失うように見える。
――だが、あのおぼろな昔に人の心にしのびこみ、そっと爪跡を残していった事柄を、
人は知らず知らず、くる年もくる年も反芻しつづけているものらしい。
そうした所作は死ぬまでいつまでも続いてゆくことだろう。
それにしても、人はそんな反芻をまったく無意識につづけながら、なぜかふっと目ざめることがある。
わけもなく桑の葉に穴をあけている蚕が、自分の咀嚼するかすかな音に気づいて、
不安げに首をもたげてみるようなものだ。そんなとき、蚕はどんな気持がするのだろうか。」
この幻想的な文章にはほとんど嫉妬に近い感情を覚えた
でも北杜夫でもこの柔らかな繊細な文章は何時も書けたのではなかった
夏目漱石の草枕の冒頭もなかなか良い
「山路やまみちを登りながら、こう考えた。
智(ち)に働けば角かどが立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。
意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい。」
これから続く文章もなかなかだが、少し説明的で冒頭ほどの力はない
そう言えば高校で習った「徒然草」もなかなか良い
「つれづれなるままに、日暮らし、硯に向かひて、心にうつりゆくよしなし事を、
そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」
ついでに思い出したが「奥の細道」も味わい深い
「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。」
冒頭は大事だなとつくづく思う
音楽も最初の音が肝心だ
ビートルズでは「ヘルプ」「ヘイ・ジュード」「シー・ラブズ・ユー」に限らず
いろんな曲が印象的な始まり方をする
クラシック音楽ではド定番のベートーヴェンの5番 「運命」
モーツアルトでは25番の交響曲のト短調
マーラーでは「大地の歌」の第1楽章
ショスタコーヴィチは5番の交響曲の第1楽章
も一度聞けば記憶に残るだろう
ちなみにマーラーとショスタコーヴィチの音楽の冒頭はこんな感じ
マーラー《大地の歌》全曲 バーンスタイン指揮/ウィーン・フィル
ショスタコーヴィチ: 交響曲第5番 二短調 Op.47「革命」:第1楽章[ナクソス・クラシック・キュレーション #カッコイイ]
今年ほどビールを飲んだ夏はない
気温によって売れる商品が違うことは知られている
豆腐、アイスクリーム、ビールなどは温度計を見ながら
仕入れ量を考慮するのだそうだ
と言っても、アルコールは強い方ではなく
「お酒は養命酒を!」のジョークで通している
それに冷たい飲料は強くない胃腸にこたえて
飲みすぎるとお腹がどんよりと重い感じがしてしまう
だが、今年はそんなことは言ってられない
冷蔵庫には切らすことなく冷えている
以前は、その都度コンビニで2缶購入していた
銘柄も決めず、その日の気分でモルツとかスプリングバレーとか
銀河高原ビールとか
つまりは、あまり飲まないので価格には無頓着だった
ところが、今年は価格にシビアになってドラックストアで6缶セットを手に入れている
一旦安い買い方をすると、その価格が普通というか当たり前になって
少しでも価格が上になると安いところで買わなきゃ損!
と同居人の癖が伝染している
ビールのCMでは「美味しい!」
との言葉がよく聞かれるが、「ビールって美味しいか?」と思う
飲んだ後「プファー!」と声に出るのはわかるし、一杯目の満足感もわかる
しかし美味しい!という実感はそんなにないのが自分の実感だ
美味しいという感覚は、たくさんの種類を飲んでこそわかるような気もする
絶対的な美味しさというより、あれよりこっちが好み!
がヘビードリンカーではない自分の実感
それなら何でもいいか?
といえばそうではないのが面倒なところ
今年は「晴れ風」お気に入りになっている
あまり苦くなくて、刺激もそんなにない、物足りないところもあるが
気になるほどではない
濃い感じのスプリングバレーはそれなりの丁寧なつくりで存在感があって
価格が少し高いのはわかる気がしているが、安い商品を知ってしまうと
なかなか手に取れない
実はビールってうまいな、、と感じたことはあった
何十年も前ミュンヘンで飲んだ時、爽やかな香りと喉越しで
今まで飲んだビールとなにか違うと実感したのだった
そのビールは小麦が原料のヴァイツェンビールで
いつも飲んでいるのと違っていたのを知ったのは随分経ってからのことだった
ヴァイツェンビールが好みということがわかってからは、銀河高原ビールとか
販売中止になってしまった「和」とか、ヴァイツェンビール系統を購入していた
だが、店に並ぶのは圧倒的に一般的な商品ばかり
そのうちに、なんでもいいや!の気分になってしまった
CMを見ると、ビールって感動するくらいうまいか?
と、わざとらしさを感じるのは意地が悪すぎるか
そう言えば今年は蚊を見ない
刺された記憶(噛まれた記憶)もない
電気式の蚊取り線香も使わないどころか、使おうとすらしなかった
以前の暑い夏のときも蚊は少なかった
生き物である蚊も猛烈な暑さには弱いのだろうか
そもそも水たまりはあっという間にカラカラになって
ボウフラの生きるところもないから
蚊の絶対数も少ないのだろう
人の血を吸う蚊は雌だそうだ
お産のための栄養補給の足しにするらしい
もっとも、蚊が活躍するのはもう少し秋に近づいた時との説もある
蚊に吸われた跡を爪で十字にするのは、どこでもいつでもあるようだ
扇風機に向かって「あーあー」と声を出すのと同じくらいの頻度でありそうだ
昔の家には柱に蚊帳を釣るパーツがあった
窓をパーパーに開けて大きな蚊帳をつって、子どもたちはそこに入って眠る
寝相は凄まじく、一晩のうちに上下が逆さまになるなんてことは珍しくもなかった
あの当時はエアコンなんてなくても寝られた
夜になると蛍が入ってくるなんてことはなかったが
カナブンが入ってきた
どうせ来るならカブトムシが来ればいいのに!
と思ったが世の中はそうは上手くいかない
カナブンやカブトムシを掴んだ時の、モゾモゾした感触
体から伸びる脚がどこか引っかかって折れてしまいそうで
慎重に掴んだりしたことを急に思い出した
先日立秋を迎えたので暦の上では秋
いつもなら秘密基地のような庭の木の草が多いところから
虫の声が遠慮気味に聞こえるのだが、今年はまだ聞こえない
それにしても、今年は暑い
蚊を見ないのは良いが、いい加減この暑さは勘弁してほしいものだ
より速く、より高く、より強く
オリンピックでよく使われた懐かしい言葉
だが最近のオリンピックはこれでカバーしきれない競技が多い
綱引きがあったとされるおおらかな時代を経て
良くも考えついたものだと思われる本当にいろんな競技がうまれるものだ
人は呆れるほどいろんな遊ぶ方法を考えつく(発明する)が
同時にそこには明らかな勝ち負けの世界がある
サッカーのコーチをしていた時、子供たちは何でも勝ちたいという気持ちに溢れていた
順番を決めるじゃんけんでも負けるのを嫌がっていた
何でも勝ちたいという素朴な気持ち
なんにでも賭けの対象にしてしまうイギリス人
これらは人の持っている本能なのだろうか
これらは人の業(ごう)なのだろうか
資本主義がなかば必然的のように格差を生み出すのは
制度そのものというよりは人間に内在する業のせいではないか
と最近は思えてならない
人が人を支配する世の中は、理想は永久に理想という形でしか
存在し得ないかもしれないと思えて仕方ない
もしかしたら、これらを深く考えたと思われる仏教は
大したものかもしれないと思ったりする