パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

彼らより長生きしているが、、、

2022年08月09日 18時46分26秒 | 徒然なるままに

モーツァルトは勿論のこと、現在の自分はベートーヴェンよりも長生きしている
フルトヴェングラーよりもドストエフスキーよりもワーグナーよりも
物理的な時間を多く経験している

しかし残念ながら、なーーんもしていない現実に落ち込みそうになる
「人には上には上があって。下には下がある」と時々口に出して
自分はきっと真ん中くらいだろうと根拠のない思い込みをしているが
それでも、残された時間が少なくなってくるとちょいと不安になってしまう

40代の頃から四捨五入すると、自分の年齢がイメージよりは
ずっと上なことに驚きと恐怖を覚えたものだった

仕方ない、今更そう簡単に立派に人間に変わるわけでもない
こうなったら、ベートーヴェンよりもフルトヴェングラーよりもワーグナーよりも
長生きしていることに優越感を感じることにしよう

でも最近、何かを作らなければ後悔するかもしれない
と急に思ったりする

いつかは、いつまで経っても来ないかもしれない
いつまでも、いつか、、と思い続けそうな気もするが、、
それも良いかも

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変化が極端すぎるからわかりやすいが、、、

2022年08月08日 09時06分56秒 | あれこれ考えること

流石にこれだけ極端に変わると、誰もが何事かあったのかと邪推する
そしてその変化の原因は、上司からの指示によるものだと
情報通(ジャーナリスト関係)の人々の間では共通認識となっているようだ

テレビ朝日は急に統一教会絡みの報道をしなくなった
モーニングショーでオウムの次に捜査対象としていた統一教会に対して
公安がさっぱり動かず、なんの変化もなかったのは
関係者の声として有田芳生氏が「政治の力」と衝撃的な発言をしたが
その翌日、後追いするかと思いきや、呆れるほどさっぱり方向転換して
統一教会の話題は全くあがらなくなった

今回の場合は、その変化が激しすぎるから皆が異様に感じていて
SNS上では批判の声が上がっている

選挙が民主主義の根幹とするなら、その投票行動のためには
メディアの正常な報道が前提となる
正常な報道がされるように放送法があるとされていても
最近の実態は、フジテレビのコメンテーター人選等からどのような
世論を作ろうとしているかは想像できる
NHKも異様なほどこの問題に触れないでいる
つまりは、メディアは公平中立などというのはお題目に過ぎず
何らかの方向性を持っていることは現実だ

その世界では明らかになりつつあるテレビ朝日の報道規制を命じた人物は
以前から首相とよく食事をともにした人物らしい
外国のジャーナリストの常識からすると、一緒に食事したり
記者クラブのみの、しかも通告ありの記者会見などは考えられないらしい

同じ釜の飯を食う
これは、ことわざにあるように心理的に仲間意識を育むもので
ジャーナリストはある程度自制しなければならないだろう

ということで、日本のメディアは既に専制主義国家のシステムに
コントロールされているのかもしれない、、
という不安を拭い去ることができない

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夏に読む本

2022年08月07日 09時22分47秒 | 

夏は小難しい本を読むのに適していない
体温を下げるための体内エアコン使用にエネルギーを使うので
頭まで力が回って行かないかのよう

こんなときはお気楽な本が良い
というわけで、お金の節約にもなる図書館で本を借りた
葉室麟の「潮鳴り」「蜩の記」
亀山郁夫「悪霊 神になりたかった男」
三田誠広「道鏡」
中江有里「水の月」

読み始めると、自分はこんなに速読家だったのかと
驚くほどハイペースで読んでいける
尤も、いい加減に呼んでいる可能性は否定できないが

物語ではなく社会学やら歴史、政治関係の本を読むのとは大違いで
多少読み飛ばしても大勢に影響がないので、まるで映画とかテレビドラマを
みている感じで進めていられる

「悪霊」はドストエフスキーの気味悪い作品だ
高校時代に読んだが、覚えているのは連合赤軍が行ったような内部粛清と
自殺する人間の何やら長々しい話とスタブローギンの残酷さだ
亀山郁夫氏のこの本は、気味悪いスタブローギンの告白を取り上げて
「カラマーゾフの兄弟」のイワンとは少し違うが、神の存在意義を取り上げている
大して記憶に残っていなかった「悪霊」を思い出したのは、現在の統一協会とか
きな臭い社会状況が影響しているかもしれない

葉室麟の作品は読みやすい
抵抗感なく読み進められる
ところが困るのは年齢のせいで人の名前をよく覚えられないことだ
肝心な人物だが、それがどういう人物だったのか、、が怪しいときがある
でもそれは仕方ないと諦めて、無視して読みすすめる
分かっていても泣きそうな部分はある
それは書き手の名人芸的な技術なのかもしれない
「蜩の記」を読んでいて、以前これと似たような物語を読んだぞと思い出した
浅田次郎の「流人道中記」だ
詳しく覚えていないので、なんだか似てると思っただけかもしれない

道鏡は気になる人物だ
歴史を学ぶには物語を読む方が効果的で
先ずは基礎知識としてこれを読むのは無駄ではなさそう
(どうも自分は変な人物に興味がある)
この本は別の本を読んでからかかろう(貸出期間は16日まである)

中江有里の本は、何かの書評とか紹介で宮本輝の「錦繍」に似せた
手紙のやり取りを中心とした小説とあったのが頭に残っていて興味をもった
これは葉室麟を読み終えてからかかろう

8月の初めての日曜日
コロナ陽性者も多く出ている今は、寝転がって本を読むのは
現実的な過ごし方かもしれない

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木は水分を含んでふやける

2022年08月05日 08時58分04秒 | 徒然なるままに

気温が高くなって線路が伸びて、そのために脱線の危険性があるので
電車が運休するというニュースが時々報道される
線路のゴトンゴトンと音がするのは、つなぎ目が存在するからで
熱くなった時の事を考えて隙間を作ってある
子供の頃、線路を覗いて確認した記憶がある

気温が上がれば何でも膨張するのと同様に
木も水分を吸収すればふやけて膨張する
雨の度に気になるのが近所のお稲荷さんの本堂
一番の心配は雨漏りで、下に受け皿を設けて目立つ雨漏りは
バケツとかプラスティックの箱で受け止めている

その本堂に入るために扉の鍵を開けるのだが
雨の翌日は木(木製の扉が)が水分を含んで体積が大きくなっている
開けるときは力を入れて引っ張り、締めるときは
お尻で扉を押さないと閉まらない
体積というのもは一定ではないのだな!と当たり前の事実に驚く
(カラカラに乾いているときはウンもスンもなく開け締めができる)

これだけ木が水分を含むのだから、木造家屋(真壁造)の我が家は
柱やむき出しの天井が湿気を吸収しているのだと想像できる
我が家の当てにできない湿度計は高い方も低い方も
とんでもない湿度を示すことはない

気温によってサイズが変わるのだから、物差し(メジャー)も少し影響があるはず
寒いときと暑いときのメジャーの間隔はちょいと違う
大概の生活には影響のない範囲の違いだろうが、精密な計測を必要とする場面では
どうやっているのだろう

メートル原器というものがあるらしいが、これにしても気温でサイズが変わってくるので
頼りにならないことになる
何でも現在の1メートルの定義は、一秒間に光が進む距離の何分の1としているとか

というわけで、精緻な社会とは違うアバウトな社会に住んでいる我々は
いろんなところでアバウトのままやりすぎしているのだろうと思う
報道に出てくる「受理」という言葉の定義もぼんやりと個々の主観で決めていて
実際の定義とは違っていると思う
(住民監査請求をしたときに、受付と受理とは違うと説明された)

本来ならば精緻な定義のもと体系付けられるのが理想だが
世の中は、どうもそうは行かない
みんながみんな、それぞれの理解の仕方で理解をして
その上でなんとなく社会が成り立っている

なんとなくこうしたほうが良いとか、こう考えるほうが自然といったような
自然法的な発想が、現代社会は妙に軽んじられていないだろうか
と言っても、なんとなく漠然と流れに乗りやすい風潮も不安だが、、

個人の総和が社会にはならないと最近強く実感する
個人が集まり団体になった時、その団体は個人の総和とは異なる動きをするのは
コロイドの現象のような気がする
そういえば、最近「複雑系」という言葉を聞かないが、あのブームは何だったんだろう

相変わらず、まとまらない話

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現地で見たい長岡花火大会

2022年08月03日 08時38分29秒 | 徒然なるままに

暑い!
昨晩は一気に寝られるということはなかった
朝だけ涼しいので、ルーティンワークは今のうちに!
だが、暑さのせいで頭が働かない(いつもか!)

「もっと若かったら行くのにね!」
そう会話を交わしたのが、NHKBSで放送された長岡花火大会
この番組は、何かのきっかけで見てからずっと見ている
NHKは時々、こういう番組を放送する
前回の京都祇園祭や五山送り火などがそうだが
これらも何故か見続けている

長岡の花火は本当にすごい
初めてテレビで見たときからその驚きは変わることがない
フェニックスのプログラムは600メートルの幅で打ち上げられて
現地で見たならばそのスケール感に圧倒されるだろう
またテレビではボンボンとなる音も、現場ではものすごい迫力だと思われる
地元のお盆の花火でも音はすごくて、一時期、鶏が驚いて卵を産まなくなる
といった心配があったくらいだ
何ごとも生で見るのと、テレビで見るのとは違う
直接見たほうが絶対いいと思われるのは上高地と京都の紅葉だが
本当に若かったら、長岡花火は行ってたのに、、

何ヶ月か前に長岡花火大会のバスツアーの広告が入っていたが
日帰り(泊まらずに夜に帰路に向かうプラン)だったので
今の気力体力ではちょいとしんどいな!と思えた

ということで、4Kでも8Kでもないテレビで
ビールを飲みながらあれこれ見ることは続きそうだが
登山の番組を見ると、よくあんなところに行ったな、、
と思うことしきりだ

やはりいける時行かないと、ついには行けなくなりそう

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思い出したこと

2022年08月02日 08時34分07秒 | 徒然なるままに

今日は猛烈な暑さになる予報
確かにそんな感じだ
今(朝)のうちにやることはやっときな!
と、アドバイスを受けているが、今しかやる気は出ないかも

庭の木の水やりをした
日が昇る前にやらなきゃ!
と小言をもらったが、やらないよりはマシと開き直っている

葉っぱに水がかかると蝶が驚いたように飛び立ってくる
葉の裏で彼らは休んでいたのか、、
と思わぬ知恵がつく

なんの脈絡もないが変なことを思い出した
「社会の窓」という言葉が通じるのは何歳くらいまでか?
という問いだ
そこを締め忘れていても、その人に伝えるのはちょいと恥ずかしい
しかしなんであそこが「社会の窓」なんだろう

「失われた時を求めて」ではないが、また変なことを思い出した
「自然が呼んでいる(Nature calls me)」
英語を習いたての中学の頃、知ったかぶりの誰かが教えてくれたことだ
これは、トイレに行きたいの意味で、何やら優雅だなと思ったことを覚えている

そういえば「田舎の香水」は肥溜めの匂いだった
昔は小学校へ行く途中にそれがあった
道には馬の落とし物があって、それを踏むと身長が高くなる
などと言った嘘っぽい話がまかり通っていた

それにしても覚えているのは変なことばかり、、、
夢も変な内容ばかり
人生も考えてみると思い通りではない
人は思っているほど好きなように生きられないかもしれない

 

 

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リュートのコンサート

2022年08月01日 09時07分29秒 | 音楽

リュートと名付けられたギターに似た楽器がある
ネックのところが直角に曲がって変な格好の楽器で
説明によると弦は羊の腸でできており
しかも2本セットで張られているようだ

バッハの時代より少し前に盛んになったようで
バッハにもリュートのための作品がある
(あまり聴いたことはないが)

昨日、新城市つくで交流館ホールで、この珍しい楽器のコンサートがあった
(ビヴェラと6コースによる16世紀のファンタジアとシャンソンの世界
 コンサート「うたごころ」)
市内と言っても作手は豊川市よりも遠い
この距離は、作手の人たちは新城市の住民というよりは作手の住民
という感覚が強いだろうな!と運転しながら考えた

音楽はめったに聴くことないので、慣れるまで集中がしづらい
音量も大きくない
そして、音楽も素朴で、残念ながらプログラムの一曲一曲が
全部同じように聴こえてしまった

このリュートの音楽は、基本的に歌がメインでその伴奏なり
歌を楽器で演奏したものだったが、聴いていると時代の雰囲気というか
その時代の感情とか精神状態を感じることができた
それは万葉集を読むと、後の時代の歌と比べて
のんびりしたようにと感じるのと同じで、これが盛んに演奏された時代は
難しい問題(神は存在するかなどといった)は、もっと実生活に即した
精神生活をしていたのだろうと想像した

全部同じように聴こえてしまったのは、パターンが似ているからで
リズムは特に際立ったものはないし、メロディもひっかかるようなものはない
不意に、これらの音楽と比べてモーツァルトの音楽はなんと生き生きしているのだろう
と耳にしている音楽とは別のことを考えてしまった

まるで会話のような生き生きとしたモーツァルト
彼の音楽はやっぱり別格というか、奇跡の存在としか言いようがない
ベートーヴェンのそれは人間が達した至高の境地を表現したものがあるが
モーツァルトはあくまでも生きている人間の感情の揺れ動きとか
不意に感じる孤独といったものをサラッと表現していて
一曲一曲は人類にとって不可欠とまではいかないとしても
彼の存在がないと、世の中随分寂しいというか楽しくない世界に思えてしまう

ということで、リュート音楽を聴きながら全く関係のないことを
あれこれ想像したわけだが、こういう時間が結構楽しい

昨晩は暑くて寝苦しい、、と思っていたが意外なことに
4時半まで一気に寝てしまった
久しぶりのドライブと生の音楽に触れたのが頭に心地よい刺激を
与えたからなのだろうか

それにしても最近のコロナ陽性者の増加は、
今月28日の愛知祝祭管弦楽団の「トリスタンとイゾルデ」に
行って良いものか?と悩んでしまう

生の音楽はこの上なく貴重だが、外出して感染したりすると
家庭内の感染も不安だ
第7波が今月下旬は収まっていると良いのだが



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