パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

京都市交響楽団 第6回名古屋公演(シューベルトとマーラー)

2019年03月11日 14時43分11秒 | サッカー

こちらの(精神的な)コンディション良かったせいなのか
それとも久しぶりのことで新鮮に感じられたのか
いずれにしてもしっかり楽しめた「京都市交響楽団第9回名古屋公演」
会場は名古屋市栄の芸術劇場コンサートホール

プログラムの前半はシューベルトの「未完成」
後半はマーラーの交響曲第一番「巨人」指揮は広上淳一
特にマーラーは初めて生で聴くことになる曲で最終楽章はショスタコーヴィッチの
5番同様に盛り上がることが想像されて、生ならではの思いっきり鳴らし切る心地よさも期待していた

音楽会に頻繁に出かける人は以前に体験した同じ曲の演奏を思い出し比較して批評する
ことができるだろうが、そうでない自分のような立場の人間は演奏の比較というよりは
音楽そのもの(作曲者の意図とか)が気になってしまう
そして聴いた感想というものも、聴いててフト頭に浮かんだ様々な思いの寄せ集めとなる

「未完成」が始まって直ぐに「この音色は好き、、」との思いが頭に浮かんだ
オーケストラ固有の音なのか指揮者の求める音なのかわからないが
個々の楽器が飛び出さず柔らかくブレンドされて品の良い音色で
不意にギュンター・ヴァントの指揮でブルックナーの8番を聴いた時のことを思い出した
あのときもフォルテが過度に刺激的にならず柔らかくブレンドされてとても心地よかった

生は聴き取りやすいせいか最近は同時に演奏されるいろんな楽器の音を注意して聴くようになっている
主なメロディを追うのではなく対旋律や地味な低音部分の下支え、金管の主張や木管の味付け
そうしたものをまとめて聴き取って、以前より緻密な聞き方ができるようになっている(と思う)
ただし問題は、感動する度合いが以前より増したか、、といえば、そこはなかなか難しい判断だ

「未完成」はこんなにいい曲だったのか、、聴き終えて感じたのはこのこと
少しばかり旋律に耽溺してダラダラしたところも感じるが、この演奏では思いの外シンフォニックで
ドラマチックなところも感じられて、シューベルトお得意の微妙な和音の変化ではなにか人に感じさせたり
考えさせたりする静寂な瞬間を生み出していた
余韻とコクのある演奏で演奏が終わった後、しばらく静寂が訪れ直ぐに拍手にならなかったのは
とても音楽的な瞬間だった

後半はマーラーの「巨人」
この曲はフルトヴェングラーとフィッシャー・ディースカウの「さすらう若人の歌」の演奏で
慣れ親しんだメロディーが聴ける
マーラー後期の作品ほど感情の起伏とか変化が激しくなく、まだ前の時代の音楽の良さも踏まえた
しかし、若さとか個性に溢れた作品だ
通して聴いてみると全体の統一を図るために第一楽章や第三楽章のフレーズが最終楽章に現れたりするが
ベートーヴェンの第九の影響は改めてすごいな、、と感じるところ

やはりと言えばやはり、エネルギーに満ちた最終楽章は盛り上がった
終わるやいなやブラボーの声が上がったのは、今度は必然のようでこれも納得いく音楽的な瞬間
だがたしかに盛り上がって自分自身も楽しんでいたにもかかわらず、クライマックスに向けての
心臓が踊るような感情がこみ上げるようなカタルシスはなかった
それは、何故なんだろうか、、といろいろ想像してみた(こういう考える機会を得るのが生の楽しみ)

マーラーの音楽のこの音楽のエネルギーは「若さ」
「さすらう若人の歌」に見られるような、ある時期の人間が誰しも感じるような焦燥感や憧れ
無意識な感情の爆発、、それらが音楽表現としている
そしてこれは時々感じることなのだが、マーラーの音楽は長編小説のよう
長編小説という言葉を思いついたので想像の羽を広げてみるとマーラーの音楽は村上春樹の小説のようだ
独自の世界観があり、少し新しげで
自分の好きなブルックナーはそれと比較してドストエフスキーの小説のよう
読んだ後に何を感じるか、、という点で、村上春樹とドストエフスキーはだいぶ違う
優劣を競うのではなく明らかに違う感動の仕方ということ

そこで盛り上がっていた(しっかり楽しんでもいた)にもかかわらず内的に湧き上がるものが
なかったのは何故かを、こじつけのように想像してみた
一番は自分はマーラーの音楽の信奉者ではないかもしれないということ
そしてこちらの解釈のほうが気に入ってるが、マーラーの音楽は「説明しすぎ」なためではないか
揺れ動く感情の爆発、現代人の不安な心象(私の時代が来るとマーラーは言った)
それをあまりにも雄弁に語るのでこちらは聴いて何かを想像せずとも聴いてるだけで楽しめてしまう
(これはハリウッド映画を楽しむ時と似ている)
前半に聴いた「未完成」はまだ聴いてる人の音楽への参加を要求するようななにかがあるが
言いたいことを完璧に書き込んだようなマーラーの音楽は、聴くという行為だけで完結しそう
もちろんマーラーの大好きな人は全く違うと言うだろう
でも帰りの電車の中で考えついたのはこのことだった

指揮者の広上さんアンコールの前に少しマイクでお話をしたが、とても気さくそうな人で
「次の回の宣伝を、、、、」と笑いをとって、会場は暖かい空気に包まれた
次は秋にモーツァルトとフォーレのレクイエム、合唱はスウェーデン放送合唱団だそうだ
このオーケストラの音色は気に入ったので、これは予定に入れておかねば、、、



 

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リアルタイム検索の興味深い数字(安倍・枝野・小池)

2019年03月09日 10時34分30秒 | あれこれ考えること

ヤフーの検索にはなかなか面白い機能のものがある(自分は主にグーグルの方を使っているが)
その1つが「リアルタイム」というもので、検索ワードをいれて「リアルタイム」のカテゴリーを選ぶと、
そのワードが含まれるツイッターの投稿が刻々と反映される
それだけでなく画面の右側には、投稿の感情を表すものとして怒っている顔と笑っている顔が並べられており
その下に割合(%)が示される

気になる言葉の1つとして「安倍」を入れて調べると以下のような結果になった(3月9日 9時20分現在)

     怒ってる顔の割合  笑ってる顔の割合  ツイート数

24時間       53%        1%     772

7日 間       58%        1%    6718

30日間       55%        1%    61167

安倍の文字を使用するツイートはほとんど安倍首相のことだが、ここからわかることは
安倍さんに否定的な批判的な投稿が多いということで、積極的な支持は1%だ
この数字を見ると現在マスコミで発表される内閣支持率だとか安倍さんの支持率
それも若い人の支持率が高いということが本当なのか、、と思えて仕方ない

それでも怒っていない人の数字は、24時間で47%・7日間で42%・30日で45%あるので
マスコミの支持率調査と違いないとも考えられるかもしれない(そのように考えれば)
だがよく言われるように若い人たちの支持率が高いということに関しては
果たしてそうなんだろうかとの疑問が湧く
そもそもツイッターを利用している人たちはきっと必ずしも若くない
むしろ現役世代の人たちだろうから

ツイッターのリアルタイムの検索は特に母集団を限定したわけでなく、その文字(テキスト)に
引っかかるものを機械的に表しているに過ぎない
その分社会の全体的な気分を示しているように思える

表に出ることの多い人は良いにつけ悪いにつけ注目され、悪い方の評価が多い傾向はもしかしたらあるかもしれないが
それでも安倍さんにこのような積極的なマイナスの数字の高さは、自分の実感とよく合う感じだ

ちなみに別の調査もしてみた 立憲民主党の枝野さんでは

     怒ってる顔の割合  笑ってる顔の割合  ツイート数

24時間       43%        3%     46

7日 間       42%        5%    255

30日間       54%        3%    9460

 

共産党の小池さんでは(都知事の小池さんも入ってるだろうが)

     怒ってる顔の割合  笑ってる顔の割合  ツイート数

24時間       22%        20%    1365

7日 間       37%        11%    2283

30日間       3%         17%   15446

 

こと感情的なことに関して小池さんは評価が高い
それは国会の質問等を見れば、共産党を支持してる、していないに関係なく
納得できる数字と考えられる(実感とよくあっている)

枝野さんは政策というよりは、選挙戦術に関して物足りないという批判が多いようだ

経済について実感と異なる数字が幅を利かせているが、統計はユーザーの目的に合わせて
どの数字を使うかで印象はかなり異なる
貯蓄額が全体的に増えても貯金0の世帯が増えているとすると、このどちらに重きを置くかで
評価は全く分かれる
結局のところ数字は万能ではなく、判断の1つの指標に過ぎないということで
内閣支持率や安倍さんの支持率に関しても、こうして自分で調べた数字は
マスコミから得られる印象とはかなり異なる

最近どちらの陣営からも批判されることの多いマスコミ
彼らが頼りがいのある報道をしてくれないのなら、、自分らはこうしてできる範囲でいろいろ調べるしかない
(それにしても、今の政権は、、、)




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100分de名著(夏目漱石スペシャル)

2019年03月08日 08時46分00秒 | 徒然なるままに

時々NHKの「100分de名著」を見ている(録画で)
前回はオルテガの「大衆の反逆」で、少しばかり不満の残るところもあったが
自分が見逃していた部分の指摘もあって、まずまずだったので続くシリーズも見る気になった

今回は夏目漱石スペシャルと題して第一回目は「三四郎」
この本は読んでいない、彼の作品で読んでいるのは高校時代の教科書にあった「こころ」
松田優作、藤谷美和子の主演で映画になった「それから」
黒澤明の監督で「夢十夜」、そして最近読んだばかりの「草枕」
あとは「門」くらいなもの

読んでいない作品を期待感をもたせて紹介していくので、つい読んでみようか!
の気を起こさせるが、この三四郎は指南役の安倍公彦氏によれば「応援小説」なのだそうだ
ちょっとばかり度胸のない、その場の勢いで反応することをせず、絶えずその時の意味を考える
物足りない人物で小説の終わりになっても三四郎が覚醒するというようなことはないような人物
として解説している

この話を聞いていて(見ていて)不意に思い出したのが、最近読んだばかりの源氏物語の登場人物の「薫の君」
彼は光源氏の息子と世間的には思われているが、実は柏木の息子
光源氏も本人も、柏木もその事実を知っていて苦悩するが今回気になったのは別のこと
宇治十帖で詳細に記されている「浮舟」との関係が、光源氏のDNAを引き継いで衝動的な行動をとる匂宮
(それ故に情熱的との見方もある)と比べて、この三四郎のようにもどかしい

源氏物語を一旦読んだあと、復習の意味を込めて解説本を図書館から借りてきたが
その中の一冊に田辺聖子の「源氏物語 男の世界」があって、薫の君のことがかなりのページを費やしている
薫の君は瀬戸内寂聴さんは、グズでどんくさい、、という感じであまり評価していない感じだが
(どうやら女性一般には人気のないようだが)
田辺聖子のさんの方はそれほど悪くは言っていない
彼の慎重な選択もそれなりに仕方ないと見ているような節がある

このプラトニック気味な傾向のある、男としては物足りないかもしれない薫の君のイメージが三四郎にかぶってきた
夏目漱石はもしかしたら源氏物語の薫の君をどこか頭のなかにおいて作り出したキャラクターなのではないか
そんな気がしてならなかった
よく言われる西欧文明のショックを受けた上で近代的自我の覚醒、云々というよりは、昔から日本にも存在する
当たり前の心理状況を三四郎の中に表現したのではないか、、と勝手に思ってしまった

ところで、またもや源氏物語に戻ると、男は登場人物の「葵の上」「六条御息所」「夕顔」「明石の上」「紫の上」
「末摘花」「朧月夜」「藤壺」「花散里」「三の宮」などの女性陣のうち、どの女性が好みか、、と気になるが
同様に女性は男の登場人物「光源氏」「桐壺帝」「頭の中将」「朱雀帝」「夕霧」「柏木」「薫の君」などが
気になるようだ
そしてその評価はいろいろで、男どもが「雨夜の品定め」で理想の女(都合の良い女)をあれこれ無責任に
話すのと同様に、この男が個人的にはフィットする、、などと話されることはあったんだろうなと容易に想像できる

ところで、一昨年読んだ「サピエンズ全史」には
生物は生き延びるために様々な工夫をして(生殖の上でも)いるにもかかわらず
生殖を前提としない修道士・修道女の存在を良しとしている人間世界の不思議さを挙げていたが
意識とか記憶力が発達することで、人間は単なる生物と違う選択肢を持つようになるようだ
この選択が結果的にどのように正しい選択かは時間をおいてしか理解されないだろう
三四郎のドジっぷり、薫の君のプラトニック的な傾向は、実は何らかの意味があってそれは後になってしかわからない?
(それとも単なる意気地なし?)







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言葉は正確に理解して使っているわけじゃない(と思う)

2019年03月07日 08時55分42秒 | あれこれ考えること

実感と違う数字で世の中が表されていると感じる人が少なくない
例えば景気、あるいは内閣支持率
政府やメディアから示される数字を見てすんなり納得できるかと言えば
むしろどこか違っていないかとか、その数字を使って説明しようとすること自体が
おかしいのではないか、、とも考えるようになるのはごく自然の成り行き

実感とは違うと感じるが、何ごともなかったかのように示されたのが
統計不正の特別監査委員会の報告
「虚偽の説明をしたが隠蔽ではない」としている(意味がわかりにくい)
その根拠として、隠蔽とは(定義)不正を認識しながら積極的に隠そうとする行為で、
そうした意図は認められなかったをあげている
意図的、あるいは故意に隠そうとしていないので隠蔽ではない、、との理屈だ

ならば、特別委員会の方々が当事者(不正を行った人)に「意図的に隠そうとしたか?」
との質問で委員会は該当者に聞き取りを行ったか
行ったとすれば彼は何と答えたか、、
との国会での野党の質問に、特別委員会の委員長はそれには答えず
意図的に隠そうとしたとは思われない状況の説明を繰り返しただけだった

不思議なのは何故、「聞いたが意図的ではない」と言い切らなかったのだろうということ
普通このような聞き方(調査)をすれば該当者は正直に意図的にやりましたとは言わない
わざわざ自分の非を認めることなどありえず、例え嘘であっても嘘を突き通すのが普通で
実際のところそれが嘘と証明・確定するのは難しいので、言ったもん勝ちになりそうなもの
にもかかわらず、その部分を避けてプロセスをみて、つまり状況判断のみで委員会は
意図的ではなかったと結論づけている

国会でも裁判でも開き直った本人の口から本当のことを引き出すのは難しい
開き直って嘘をつけばそれ以上は問い詰めようがないのに、どうも問い合わせたような様子がないと思わせる
ような発言をしたのは、委員長が経営者のような度胸のある経験をしてる人ではなく、
物事を緻密に積み上げてい学者タイプの仕事をしている人の習性なのかもしれない

本人の自白による事実の確認というのは、実際のところとても難しい
それどころかそれが可能なのだろうか、、とさえ思う
それを補うために証拠主義が存在するのだろうが、証拠には「状況証拠」のようなものがある
今回の委員会の報告はこの「状況証拠」から導いた結果らしい
ところが、この「状況証拠」は物証証拠とは違い、そこに判断する人の意思が反映される

簡単に行ってしまえば同じ状況証拠を見ても、ある人はAであり別の人はBであるとも判断しうるということ
今回の場合、多くの市民が常識的に感じるのは、都合よく定義づけられた隠蔽の定義に沿うものではなく
なんとなく変だ(隠蔽じゃないのか)という感覚
人が普段使用している言葉は、厳密な定義を理解して使っているわけでない
むしろ曖昧なぼんやりとしてイメージのなかで、各人が想像する範囲で使っている
隠蔽という言葉にしてもいちいち意図的かどうか、、を考えながら一般の人は使っているわけでなない

緻密な議論をするためには厳密な定義付けが必要で、その上でなされるのが法的な世界ということなのだろうが
厳密な定義付けをするがために世間の感覚から離れていってしまうようなことはないのだろうか
例えば裁判が解釈学に終止して専門家だけの世界に留まり、世間の実態を反映しないようなものだとすれば
それは果たして本当に良いものか、、との疑問が湧く

このような危険性を感じているからこそ、世の中にはそれを補うシステムが存在するのだろうが
今の日本にそれが正常に機能しているかと言えば、かなり怪しいのではないか

特別委員会といえば無条件に第三者による組織を想像する
ところがこの委員長は過去20年間に厚労省の審議委員を歴任していることとのこと
いわば内輪の人間が内輪の失策をキチンと調査して結論を出せるのだろうか、、と疑問が湧く
こうした第三者と思わせる機関は、そのメンバー構成(メンバーの委任)で方向性が決まるのではないか
このあたりは、地元のいろんな場面でつくづく実感すること

ということで、相変わらずまとまらない話
言葉は正確な伝達というよりは、なんとなく通じている、、というのが実態で(プラトンのイデア?)
無理やり限定してしまうと、削ぎ落とされた部分が「実感と違うぞ!」と不平を述べそうだ
ということ

国会はやっぱり詭弁ではなくて、キチンとまともな討論をやってもらいたいものだ

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外国出身の小学生の勉強の手伝いで感じること

2019年03月06日 08時25分08秒 | あれこれ考えること

1月に行われた「日本語スピーチコンテスト」の会場で知り合いの方に声をかけられ
最近は小学校に通ってる外国出身の子どもの勉強を手伝うことにしている
火曜日は小学1.2年生、木曜日は4年生から6年生に分かれて日本語と算数の理解が進むように
数人のボランティアが集まって苦労しながら苦労しながら取り組んでいる
(下校後の一時間ほど)

自宅付近でも以前は中国人と思われる方が、最近は東南アジア(ベトナム?)の方と思われる方々を見かけ
あいさつ交わすようになっているが、新城市でもこうした日本語があまり得意でない人たちも少なからずいる
(今面倒を見てる子たちは親が南米出身者)
多様性がどうの、、と大上段に構えてなにか言う前に、多様性を認めなければうまくいかない現実は進行している

小学生くらいだから難しいことはなかろう、、と、教育の経験のない身でお手伝いすることにしたが
最初は戸惑った(今もそうだが)
それは外国出身で言葉のハンディキャップがあり理解が円滑に進まない、、というよりは
小学生が物事を覚え理解していく過程がどのように行われ、どのくらいのスピードでなされるのかが
わからないので、せっかちな大人たちが焦ってイライラしながら指導して良いのかが少し考えどころな点

自分たちが辿ってきた道とは言いながらこうして見ていると、人がものを覚えていったり理解していく
ということはとても不思議なことのように思える
脳のシナプスが増えて、、云々というような説明を受けても圧倒的に感じるのは、
覚えたり理解が可能になっていく不思議さ
科学的にも言葉を覚えるのはどうしてかは実は余り説明がつかない、、ともされるが
まさにその感覚を身をもって感じている

当たり前のように進み方・理解力は個人差がある
わからないことをよく考えて、、と言っても、わからないことを考えようがない
だから無条件にまずは丸暗記して、それを使っていくうちに覚える(理解する)ようにしていくのだろうが
この理解の進行が速い子、のんびり気味の子がいて、特に遅れ気味の子に対してそれは外国出身のせいで
言葉が不自由で理解が進まないのか、それとも単なる個人的な資質の問題なのかがどうもわからない
日本で生まれ育った子供でもきっと個人差はあるだろうから、ことさら外国出身で片付けるのは本質を失ってしまうかもしれない

でもとりあえず、今行っているのは外国人出身の子たちの勉強のお手伝い
ハンディキャップを乗り越える手助けをする

いざ体験してみると毎日のようにいろんな発見がある
左利きの子が文字を書くのはとても大変だということ
漢字は覚えても実は意味はわかっていないことが多い、、とか
足し算も繰り上がりになると小学生は苦労するが(引き算も)、それがどうしてできないかが
大人にとってはよくわからない、、
あまりにも当たり前のことで、「チコちゃんに叱られる」ではないが改めて、なんで?
とか、どういう理屈でそうなっているかを説明しようとすると、思いの外難しかったりする
この世代は、丸暗記が肝心で理屈は後でついてくる、、、というのが、教え方の基本なのか
どうかがわからないので、、少し迷うところ

このような技術的な問題以外にも勉強での集中力の問題
机に座って課題に取り組む姿が(大人にとって)「いい子」といわれるような形になって現れる子と
少しばかり困った子だと思われる子がいるが、これがこの世代ではどのくらいが標準なのかがわからない
落ち着きが無いのは良くないことだが、生命力のあふれる子どもたちにじっと勉強に集中を要求するのは
不自然ではないか、、とか、これは親とか学校のしつけ(教育)の現れだとか、、
つまりはいろいろ感じたり考えることがいくらでも出てくる

世の中に歪みは一番弱いところに現れる、、といわれる
もしかしたら、落ち着きのない(この現場だけでなく、学校の教室でも落ち着きが無い子がいて授業が成り立たないことがあると言われる)様子は
一番弱い存在の子どもたちに現れているかも知れない、、
現代の教育がどのようになっているかわからないが、どうも目の前の問題を直視していないような印象を感じれて仕方ない
(教育現場以前に社会の問題かもしれないが、、、自分らの子供の頃はこんなにややこしかっただろうか、、と対比較してしまう)



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背景を知ってる人、知らない人

2019年03月03日 08時55分14秒 | あれこれ考えること

長い長い源氏物語(現代語訳)もようやく最後の10冊目に入った
後半になるに連れて心理描写が細かくなって感情移入がしやすくなってきている
書き手の紫式部の変化・進化がそこに見られるのかもしれない

現段階では筋を追うだけでゆっくり味わうとまではいっていないのが現実だが
ただ、こんな物語だったのか、、という思いと
とりあえず読むことにしたのは、自分にとっては得ることが多く正解だったな
という実感を持てている

物語の大半を眺めた今と、名前だけ知っていた以前とでは「源氏物語」という言葉に対する
反応の仕方、感じ方が違う
源氏物語絵巻をみても、どのシーンなのだろうか、、とか、お能(葵の上)を見ても
後世の人はこの物語をどう解釈したのか、、とか
浮気ばっかりする男と、性の対象・子供を生む役割でしかないような女の存在
それが良いか悪いかはさておいて、その当時はそんなもんだったのか、、とか
昔も今も変わらないものは人の心だとか、、、
つまりは本を読むという体験を通して自分の中に蓄積した何かが、それを正確に
他人に解説できるかどうかは疑問だが、確かに存在する

例えば源氏物語の話を人と話す時(あまりそんな機会はないだろうが、仮にあったとして)
その人が源氏物語を読んだり、よく知っている人と、以前の自分のように全然知らない人と
話す場合は共通認識の違いの幅が大きすぎてなかなか実のある会話は成立しにくい

このようなことが、源氏物語のようなある意味生活に直接関わり合いのないことなら
それほど問題ではないかもしれないが、これが国政だとか市政だとか、民主主義に関わることなら
それは馬鹿にできない事柄となる

先日、様々な情報の集まるところの一つとしての床屋さんに行ったときのこと
「いま問題になっている統計不正問題って、どんなことかわかる?」と聞いてみた
彼女は屈託なく「なんか難しいことで、全然わからないじゃんね、、」と答える
この答えは実は自分の家の同居人も大差ない答えで、彼女らのおおらかな答えは
批判されるというより現実はそうなんだろうと、、少しがっかりするような気持ちになってしまう

本来ならば野党が問い詰めるだけでなく、与党でさえもこの統計問題については真摯に
対応すべきなのだが、どうもそうとはならず党利党略の視点のみで進められている
その姿を少しでも知っている人間は、そこに疑問や不安を感じるし、あるときは怒りさえ感じるようになるし
「なぜ無関心層は怒りも覚えずにいられるのだ、、、いつかは自分に返ってくる問題なのに、、」
と考える
しかし簡単に理解することの容易でないこの手の問題は、自らの頭を使って考えるのが面倒な多くの人達は
無関心であってはならない、、と言われても、やはり面倒くさい、、から抜け出せないのが多分現実

しかしこの無関心層がいざ選挙とか何かの判断を下すようなことになると、少しばかり不安になる
人は無邪気に多くの人が判断することは結局は正しいと(予想される)思ってしまうとしたら
その根拠はかなり怪しいことが歴史上の事実や、多くの思索では論じられている
このところを鋭くついているのがオルテガの「大衆の反逆」
問題に対する知識や情報を十分得ていず、普段そのことについて考えることもしないにもかかわらず
自分は正しい判断をしうる、、と考える人たち(大衆)
この人たちと「大衆の反逆」を読んで大衆のポピュリズム的な行動の危険性を感じている人
あるいはあれこれ民主主義とか自由について、そのデリケートさを嫌という程感じてる人とは
源氏物語の例と同じように共通の知識が違うので共通認識が得られない
(人にはいろんな考えからがあるとのレベルを超えた違い)

議論は共通認識を前提に進められるが、最近ではこの共通認識がとてもバラバラだ
経済統計の解釈にしても、実際には少数者による専制政治になりつつある一見まともそうな
民主主義の現在の進め方への懐疑とか、いろんなことを知ってる人と知らない人とは
ある点についてはブレーキをかけるべきかどうか含めてかなり判断が違ってくる

ディベートの場面で勝ち負けをつけるのではなく
(詭弁を用いて勝ちを得ることがないと限らない)
ディベートの参加する人物への全人格的な判断力に寄せる信頼感が、実は必要なのだと思われるが
その信頼感は何によってもたらされるか、、、といえば、これは案外感覚的で
そのひとの醸し出す雰囲気とか、なんとなく感じられる精神的背景ではないか
(こんな直感的なことで良いのか、、というのが問題となるが、「ファスト&ロー」という本では
この問題がしっかり扱われていた)

ということで日曜の朝の毒にも薬にもならないグダグダ話は
物事を知ってる人と知らない人には大きな隔たりがあるということ
でも知ってる人が偉い、、、という意味ではなくて、どうしたらこれらの溝を埋めることができるか
ということ
国でも地方でも、責任を負う立場の方々がちゃんとしていてくれれば(感じさせてくれれば)良いのだが




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アセビの花

2019年03月02日 09時41分29秒 | 徒然なるままに

夏の時期にはむさ苦しいほどの葉で覆われる我が家の庭の小道

定点観察と称して毎月同時刻、同一場所から木々の変化を撮影しているが
昨日の状態は

近所の小学生と知り合いになれているので、遠慮なくこの道を通っていいよ、、
としているが、この時期はちょっとつまらないかもしれない

冬枯れの木々も早いものはもう自己主張してるものがある

アセビだ
その他にもトサミズキが一気に咲く手前
ヒュウガミズキも負けずに準備しているがこちらのほうが少し遅れそう
ウグイスカグラも1つ2つちっちゃなピンクの花が目に入る

これらの木々は4月20日くらいから一気に新緑の様相を見せる
毎年毎年、同じようなことを当たり前のように繰り返す植物たち
木々の下でゴゾゴソうごめく昆虫たち

漠然と生き物ってすごい!と実感するこの頃

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