パンセ(みたいなものを目指して)

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「内なる声」を聞く

2018年04月08日 08時38分29秒 | あれこれ考えること

「結局は同じことを言ってる」と感じることがある
それが自分だけの印象なのか、誰にでも通用する一般的なことかわからないが
すくなくとも自分はそう感じるのが、突き詰めたところの個人という存在

オルテガは「大衆の反逆」で、大衆の反対概念、エリートについて

「エリート」すなわち「選ばれた少数派」とは、「自分に多くを要求し、自分の上に困難と義務を背負い込む人」のことである。エリートは、「自分よりもすぐれた、自分の彼方にある規範にみずから訴えることが必要だと、心底から感ずる性格をもっていて、その規範のために易々として身を捧げる」のである。そのような自らに厳しい規律を課している人間であれば、寿司職人であろうがプロ野球選手であろうが、「エリート」と呼ぶことができる。反対に高級官僚であろうと財界の幹部であろうと、「自分に何ら特別な要求をしない人」であれば、それは大衆的人間にすぎないのである。大衆というのは「社会階級の区分ではなく、人間の区分、であって上層、下層の階層序列とは一致するはずがない」とオルテガは明言している。

私にとっては、貴族とは努力する生の同義語であって、常に自分に打ち克ち自ら課した義務と要請の世界に現実を乗り越えてはいっていく用意のある生である」再び確認しておくと、ここで言う「貴族」とは特定の階級のことではなく、人間の高貴な生き方のことである。これに対して大衆的人間とは、今の自分に満足し、安穏として暮らせる現状にあぐらをかき、自己鍛錬をすることなく、いい加減に日々を過ごしている者のことである。こうした大衆は、発達したし近代産業文明の中で、豊かに安全な暮らしを保障されるようになったことで世にはびこるようになった。大衆とは近代産業文明から生まれてきたのである。

最近気になっているのはハンナ・アーレントの「責任と判断」
そこで判断を下す個人についての描写がある

アイヒマンは「自分が単なる歯車に過ぎなかったシステムが実行したのだ」と答えた時に法廷は「それではあなたは、そのような状況において、なぜ歯車になったのですか?なぜ歯車であり続けたのですか?」
法廷は、歯車ではなく個人を裁く営みが作動していたからこそ、個人的な責任と法的な有罪性の問題を提起することができたのです。

そして道徳というところは

道徳的な知識の源泉がどこにあるとしても、それが神の命令であるにせよ、人間の理性にあるにせよ、健全な人間であれば、みずからのうちで、ある「声」が語りかけていて、その土地の方にかかわらず、また仲間たちの
意見にかかわらず、この声がその人に善と悪の区別を教えるものと想定されていたたのです。

この内なる声、理不尽なことを命令されて「私にはできない」と拒む心が素の自分だとして、自分の置かれている状況下では「仕方ない」とと判断仕勝ちになったとしても、自分の心のなかに住む二人との折り合いをつけなければならないのだが、自分を偽って生きることは、実はとても人として難しい、、、みたいなことが延々と述べられる

こうして取り出してみると、情けないくらい自分が何も理解していないように思えてしまうが、要は西欧においては結局のところ「個人の判断」内なる声を聴くということが、半ば当たり前のようになっているようだ
ただ、この「内なる声」の存在を、日の明るい中、日本で話すると、、どこか場違いな空気を醸し出すようなことがありそうだ(そんな感じがするということ)


佐川さん、その他の官僚の方々、大上段に構えて公僕としてどうあるべきか、、、と言われる以前に、「個人として」納得できる生き方や判断、それらを活かすことが出来ないとしたら、、
多分この国は、そうしたことに無関心、、

最近は深くものを考えない傾向、、わかりやすさ優先、それ故に単純な対立軸を壇上にあげる と言った傾向が強い
本当にこんなんで大丈夫か、、、
日曜の朝というのに、田舎のおっさんのちょっとした不安

やっぱり、まとまらなかった、ま、いいか!


 

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