怒りの感情は使い方によっては効果的だが
一歩間違うと想像もつかない結果をもたらすことになる
怒りはその矛先を収めるための行動のきっかけとなる
(チコちゃんに叱られる!でも扱っていたテーマ)
普通の誰もが感じる怒り、その理不尽さを解消するための行動は
自分自身の経験から思い出すことができる
これまで何度も繰り返しているが、新城市の2015年の住民投票は
議会が決めた選択肢で行われることになった
ところが、その選択肢(の文章)は全くひどいものだった
どちらかを選べと言われても、文章自体の内容がさっぱりわからない
まるで言葉遊びのようなものだった
このひどい選択肢はそれ故にテレビ・新聞でも取り上げられて結果的には
住民投票は53%の投票率となった
ひどい選択肢に怒りを覚えて、自分は今につながる市政チェックの行動に参加すること
になったのだが、これなどは怒りが生産的な行動につながった例(と思いたい)
ところが、怒りは感情的な、つまりはとても人間的な要素が大きく作用する
目の前にある問題に対して純粋に怒りを覚えるよりも
個人的な対立関係にあるというだけで、相手のすることには何にでも怒りを覚える
というのは、残念ながら少なくない出来事のようだ
問題に対する向かい方は問題自体よりは、意見を異ににする相手との関係によって
(好き嫌いとか利益の対立関係で)全否定され、それをしている当人はその危うさに気づかない
むしろ正義感によって行っているとの認識すらあるのかもしれない
そして、全否定の主張は時として威勢のいい断定的なものになり勝ちで
単純化されるために情報通でない人の怒りの感情を刺激する
これは小さなポピュリズムにつながる可能性がある
実際のところテクニカルの問題として、我々が市政チェックした問題の拡散は
人々に怒りの感情を呼び起こすような表現にしたほうが良いのでは!
との意見が会議の席で出たことがある
物事を正確に詳しく、相手の意見も並べて問題点を紹介する方法(印刷物)は
受け手が要旨が直感的にわかりにくいために、読む気にさえならないのではないか
と言うわけだ
根源的なパワーとしての怒りの力、それは確かに魅力的だ
問題解決に結びつけようとする力は、他のどんなきっかけよりも強いかもしれない
だがその危険性を自覚させられることも少なくない
怒りの感情、恐怖の感情、不公平に対する感情は
実はそれを上手く利用する人々によって世間の空気を作られてしまう
特に最近のような、何が正しくて何が正しくないかがわからない情報が錯綜する世の中では
シンプルに感情を刺激したほうが伝達には効果的と考えられそうだ
表現の問題としてキャッチーなフレーズは受けが良いかもしれないが
実はそのキャッチーさ故に気をつけなばならない
物事を単純化して理解する効率的な方法は、実は多くの切り捨てによって
成り立っていることが多い(相手の主張を全く受け入れないとか)
要は囲碁とか将棋で使われる本手を続けていくべきだと思う
奇抜な手は「人間が犬を噛んだらニュースになる」と同じで評判になるかもしれないが
本質的な解決にはつながらない(時として効果があるかもしれないが)
充分考えた末、普通の表現となる洞察力に富んだ文章が
世の中に受け入れられるかどうかの問題は
実は表現の良し悪しの問題と言うよりは、受け手の力量に左右されてしまうのではないか
となると、多様な意見を受け入れるかどうかの問題は、実は民力の問題なのかもしれないと思う
そしてそれは教育の問題につながるような気がずっとしている
いつものようにまとまらない話!
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