パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「夏の砦」を再読して、思い出したこと、インスパイアされたこと

2018年08月21日 07時57分46秒 | 

 辻邦生の「夏の砦」

先日、原田マハの「楽園のカンヴァス」「暗幕のゲルニカ」でルソー、ピカソなどの画家を主題にした
小説を読んでいた時に、次に読もうと頭に浮かんだのがこの本

「夏の砦」は自分にとって初めての辻邦生の作品だった
そして読み終えた時、その物語性、文体、思索の深さなどにやたらと圧倒されて、若さに任せて
原稿用紙130枚ほどの小説ごときものを熱にうなされたように書き終えたのだった

それは冒頭から、知らず知らず真似をしている
最初は小さな女の子の子供時代の物語で母と父のこと、聡明な母が地方の冴えない男と何故嫌婚したのか
そのために自分が生まれ、今存在しているのだが、どこか無理があるような気がしてならない思いは消し去ることができない
また兄がいるが彼は絵を描くのが好きで、ある時絵画の新人賞を受賞した
でもそれから兄は絵を描くことを止めてしまった

ある夏の休み、旅にでかけた
その旅の途中で列車で出会ったのは衝動的な行動に身を任せる同年代の女性
深く考えての行動ではないが、どこか生命力がある
自分もどこかそういう姿に憧れているのに気づく
また旅先で一人の男に出会う
彼は話しかける、「〇〇さんの娘さんではないですか?」と(〇〇は母の名前)
彼に言わすれば若いときの母そっくりだたからつい声をかけてみたとのこと
彼は画家でどうやら昔母と付き合いがあったらしい
父のことは好きだが、この人のほうが母とはお似合いと思えるのは何故、、と考えたりする

母の日記が見つかる
そこにはこの画家の男との深い精神的な関係、喜びや充実感に溢れていた様子が克明に記されている
しかし最後の最後で母は平凡な日々の生活感に満ちた生き方を選んだ(父の方を)
精神に生きる人と、当たり前の市民生活をする人、、そのふたりを天秤にかけたとき母の選んだのは
毎日同じことを繰り返すような、、普通の生活の方だった

兄の告白がある
自分は絵を描くのが好きだったがあの賞を受けたときから絵を描くのを止めてしまった
なぜなら受賞した絵は自分が描いたものではなかったからだ
正確にはある絵を模写しただけだった
その元になる絵は、この画家が母に贈ったもので、偶然秘密にしていた隠し場所から見つけた
その絵に魅入られたように必死に模写した、、そしてつい応募した絵が賞を得てしまった
自分の絵ではない、、ただ模写しただけだったのに、、
彼は自責の念に襲われる
自分の作品でないものを応募したことでにではなくて、そもそも自分には本当の画家が必要とする何かが
欠けていたのではないか、、
創作の世界は自分との戦い
そうした戦いに自分は耐えられる人間ではなかった、、と自ら判断して、、、

このあたりまで書いて、話がまとまらなくなって止めてしまったが
こうして思いだすと、「夏の砦」の印象がやたらと大きかったことに気づく

しかし今回「夏の砦」を読み返してびっくりしたこともある
こんな内容の小説だったのか、、というのが本音だ
最初のときは冒頭の支倉冬子の子供時代と、グスターフ侯の十字軍の遠征の話、
それにグスターフ侯のタペストリーが最初見たときは感動したのに、いざ実物を目の前にした時
それは特別でも何でも無く、ただものが目前にあるだけと思うようになっていた、、というところだけを覚えていた
辻邦生の文章は音、香り、雰囲気、、気味悪さ、、そうしたものを感じさせ、慣れないと喚起力に溢れる文章ではないが
その精緻な文体は、ページ全体が文字ばっかりの表現意欲に満ちて、まるで西欧の小説のようで
日本でもこのような小説が生まれるのか、、、と思ったものだった

今回、読み終えてはっきりしたことがある(思い込みかもしれないが)
それは辻邦生も誰かの影響下でこの小説を書いたということ
その小説とはプルーストの「失われた時を求めて」だ
長いセンテンス、修飾の多いイメージを丁寧に記す文章、そして「失われた時」とは「夏の砦」においては
無理やり忘れようとした《?》過去のこと
その中に、自分の求めるものとか感じる基盤となったものが存在している、、という自覚と精神の復活・再生のようなもの
その後の辻邦生の作品に見られるヴァーグナーのライトモチーフのような、時折意識的に用いられる表現
この作品では、樟の木の葉がサワサワと風に揺れて音が聞こえるのをイメージさせるのは
なるほど、効果的なのかもしれない、いつか真似するときがあるかもしれない、、と思ったりした

とにかく、読後、圧倒されたと思い、次々と辻邦生の作品を読むきっかけとなったのに
その内容が肝心なところがすっかり抜け落ちていたのは、正直ショックだった
自分は本を読み返すタイプでは無いが、こうしてみると昔読んだ本を再読するってのは
人生経験を積んだだけ考え方や感じるところも変わって、最初に読んだのと同じくらい新鮮に感じられるかもしれない

ところで、この本を読んでて不意に頭に浮かんだ小説はサルトルの「嘔吐」だった
支倉冬子と同じような孤独な人間(ロカンタン)の頭の中で起こっていること、、
そうした孤独な人間の生き方・感じ方、、その抽象的で実生活には関係のないことに振り回される人間たちに対する興味
それが他人事とは思えず気になって仕方ない

本を語ることは自分を語ること、、と言った人がいた
(吉田拓郎は自分を語れば世間を語ると言ったが)
読む本を選ぶ、、、その時点で、人は自らを語っているに違いない
(だからある地方自治体の市長選の公開討論会ではおすすめの三冊を教えてくださいと聞きたかった)



 

 

 

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