1人で判断するよりは、多くの人で判断したほうが間違いは少ない
との数学的な根拠で正当化されているのが、意志決定手段としての多数決
ただこの数学的な理屈が成立するためには、損得、好き嫌い、怒りなどの
複雑な感情をもつ人の世界ではなかなかクリアできない前提条件がある
それは議決すべき案件に対して、ひとが完全に客観的に立ち向かうことで
現実は国会の多数決の状況を見れば分かるが、その案件の着地点の
良し悪しというよりも党の台所事情で決まってしまう
当たり前のことだが、損得が当事者に係る場合、その当事者は議決とか
決定に関わることはできない
でも例外はあるようで、時々不思議だなと思うこともある
例えば市会議議員の特別手当のアップについての問題がそれで
これなどは議員の生活に直接関与することで、
議員たちは客観的に判断ができるとは思えないのに
不思議なことに議員が議決をすることになっている
ただ、(特別手当とは違う)給与等については「報酬審議会」なる議員さんとは
一切関係のない客観的な組織が決める(アドバイスする)ようになっているようだ
ところで、つい最近のこと、多数決の本来の前提に合わないのではないのか
と思われる事態が発生した
それはみっともない話だが、新城市議会でのこと
以前からアップしているが、新城市の6名の議員は政務活動費の使途について
疑わしい面があると裁判に訴えられた
裁判終結前に(不利になったと思われる)6人の議員は急遽、問題となった
宿泊費を返却して、宿泊費の変換を求めた裁判の争点がなくなり実質的に終了した
この経緯を、原告、市民、他の議員に対して何の説明もしていないこと
裁判に訴えられた政務活動費の説明不足(必要な報告書等の欠如)などの理由で
6名の議員は今回の議会でも問責決議案が提出された
ここで問題となったのは、6名が一括して同じ理由で問責決議案に訴えられたことだ
当事者の利益に関わることは、議決に関わることはできない、とするならば
この件に関与していない議員たちだけで審議・決断をし
6名の対象議員は議場から退席という手続きになるのが普通と思われた
ところが、複数の同一理由の問責決議であったとしても、
法的(?)には一人ひとり分けて行うのが正しいとの解釈が紹介されて、
議会運営委員会もこの理屈を認めて、そのように1人ひとりで審議されそうになった
この運営方針に反対意見を述べたのが、問責議案の提出者たちのグループで
過去にも二人の議員問責決議案の対象になった事があったが
その時はふたりとも議場からでる措置が行われた
その時の措置との整合性はどうなるのか、、との意見がでた
この時との整合性の問題だけでなく、同一の理由による複数の議員の
問責決議案を一人ひとりにバラすことは、
同一の理由で訴えられた仲間(?)を守る意識が働いて、それは
現実的な多数決の結果に大きく影響してしまう
それは法的に正しいものか?との疑いの声も上がった
議員一人ひとりの自由な議決権を確保するために、6人の除籍をすることはできない
同一の問題を抱えた対象者を、仲間の審判の多数決の現場に残すことは実態としておかしい
議員全員で行われた会議は、突き詰めていくとこの議論がなされることになったが
ここでは「法の解釈」はどうのように読み取るべきか、、が大きな問題となった
でも、自分は独断と偏見で「法の解釈」よりは「法の求めるもの」のほうが
大事なのではないかと考えた
法が「利害関係者の退席」を求めることは、自分に不利になることに
人は完全に客観的な判断はできない可能性や人間的本質を捉えての
ことだろうと想像する
こうして考えると制度と実態はよく考えるべきととだと思われる
制度と実態として、今回の件で新城市議会で少し問題があると思われるのは
この一人ひとりの方法を選択し進めようとした議会運営委員会のメンバー構成だ
この議会運営委員会の6名のうち、なんと4人が問責対象になっている
この実態で、果たして真っ当な議会運営を進める事ができるのか大いに疑問だ
最近は、議会運営委員会がその本来の役割以上に影響力を発揮していることが
端々に見られる
少し悲しいことだが、「戦いの場としての議会」という実態は
国でも市でも存在する
その議会を運営する手続きやら規則やらが、本質的な議論以上に
大きなウェイトを持ち、勝つための戦術としての進め方が
注目されつつあるのは、、残念な気がする
ところで、新城市のこの問題につては全員協議会で長い時間をかけて討論され
最終的には会期延長をして、さらなる調査・検討がなされる運びになったそうだ