アマゾンで購入した現代語訳の「東海道中膝栗毛」
まだ(上)の途中だが、その内容に少し驚く
なんとなく弥次喜多のアホな行動は想像していたが
いざ読んでみると、こんなだったとは
この二人はパワフルな人間だ
馬鹿らしいこと、今でいうモラルに反することをしても平気だ
女には弱いし、お金をごまかそうともする
だが、そのしっぺ返しは食らうのだが全然反省はしない
ただただ生命力あふれる強かさがある
この時代の日本の作品を読もうとしたのは
ヨーロッパではベートーヴェンの時代でその精神的な雰囲気が
どのくらい違うか知りたかったためだが
ベートーヴェンと同時代の文学的な分野ではゲーテがいる
ゲーテはウイルヘルムマイスターの修行時代などで
人としての成長を扱う「教養小説」を残していて
その作品類の意味もわかる
だが、「東海道中膝栗毛」はそんな要素は微塵もない
(読む進めるとどうかわからないが現時点では)
ただバカバカしい話に終止するヨーロッパの同時代の作品もないことはない
モーツァルトの歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」とかはその一つで
「女は貞節を守れるか?」
について二人の若者対ものごとを知った哲学者・世間知のある女の間で賭けが行われ、
それを確かめるために若い男たちは変装して、それぞれが自分の恋人とは違う相手を口説いて
気が変わらないかを確かめる、、というバカバカしい内容だ
本当に話自体はとんでもない話で、この歌劇をベートーヴェンは不謹慎と怒ったようだが
音楽自体は楽しさとか瞬間的な美に溢れて、個人的には内容は褒められないが
音楽は好きだし、、、人間はしょうもないなあ、、とも思う
バカバカしい話は教育的な意味が薄いだけに、説教臭くなく読み飛ばしやすい
いい加減さも人の持っている本質の一つと思えば、
これもまた本質をついている作品なのかもしれない
それに東海道中膝栗毛が教養小説的要素があったなら、
果たして後世まで残ったかは疑わしいかもしれない
日本の社会は人間的成長よりも、ゆるい社会で楽しんだもの勝ち
といった空気があったのかもしれないと勝手に思ったりする
ところで、「風が吹けば桶屋が儲かる」という話がこの作品の中に出てきた
風が吹くとホコリが目に入り、目が見えない人が増える
目が見えない人は生きるために三味線を覚えようとする
すると三味線の需要が多くなり、三味線の材料である猫の皮も必要となり
猫は捉えられて世間に猫は少なくなってしまう
するとネズミが増えて、ネズミは桶をかじって使い物にならなくなってしまう
こうして桶屋の需要が増えて儲かることになる
との無理やりの理屈だが、そこでフト思ったのは
この話は東海道中膝栗毛が最初に出てきた話なのだろうか?ということ
この無理筋の話は既に有名な話で、ここでも紹介されたに過ぎないのだろうか
それにしても、弥次喜多の反省のない逞しさには少し憧れてしまう
読みかけのため、旅の道中はまだ地元まできていないが
地元の章はじっくり読むことにしよう