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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

人のことを慮るには安定した経済環境が必要

2024年10月29日 09時48分54秒 | まとまらない話

今回の衆議院選挙、新城市の投票率は62.94%
国全体は53.85%
期間中、自分は宣伝カーの声を聞かなかったが
やはり田舎は少しは投票率が高い

ところで、あるところで選挙にいかない人の理由でこんなのを見聞きした
「投票した人が負けると、自分が負けたような気がして(否定されたような気がして)
 気分が落ち込む、それなら初めから投票に出かけないほうが良い」

いい歳をした自分はつい一言を言いたくなる
負けることで学ぶところが多く、真に参考になるのはそうした悔しさを経験したり
次に何をするかが明確になってくるとか、継続的な努力の必要性を実感することができるから
無駄ではない、、と諭したくなってしまう
それにしても何をそんなに恐れているのだろう
生きているうち経験することは勝ち(良いこと)ばかりではなく
むしろ負け(悪いこと)のほうが圧倒的に多い
時々、プレゼントのように良いことが経験できるから喜びを感じることができる
これがいつも勝ちっぱなしだとしたら、人は些細な負けにも耐えられないかもしない

話は飛ぶが、東大の囲碁・将棋クラブの良いことは、「負けることを知る経験ができる」ことだそうだ
それまで勝ち組で挫折を知らない人が、負けの経験をすることは人生にとっても棋力の向上にも
役立つとされている

話は戻って、テレビの街頭インタビューでは30歳の人間が
「わからないから」「難しいから」「一人行かなくても変わらないから」
と答えているのを見ると、政治教育が悪かったという前に
人として成長しているのか、と不安を覚える(余計なお世話か)

とまあ、不平不満が出てきてしまうが、不意に「昔の選挙はすごかったな、、」と記憶が蘇る
選挙で盛り上がるのは市議会議員選挙で、子供の頃、近くの人が3人立候補した時があった
祖父母と両親はそれぞれ適度に割り振ってみんなに義理立てをし投票をした
これはそんなものだと思うが、すごかったのは選挙事務所でのこと

当時は選挙事務所には酒樽が置いてあって、そこで振る舞い酒をすることは禁止されていなかった
だから呑兵衛と評判の人は、選挙事務所を回り歩いて真っ赤な顔をしてただ酒を満喫していた
そのうち振る舞い酒は禁止になったが、その時幼い自分は
酒屋さんは売上が落ちてしまうが大丈夫なんだろうか?などと心配したのだった

立候補者が近所だから宣伝カーは回る場所が重なって、候補者同士がすれ違う時があった
その時は「相手側候補の健闘を祈ります」とお互いにエールを送っていた
本音ではないとしても、儀礼的にもこうしたことができた昔はおおらかな時代だったものだ

ところで、ちょいと真面目な話
投票率は老人が高い
老人たちは自分たちの世代の利益になる言い分をする人たちに投票し
若者はその犠牲になっているとする考え方がある
でもみんながみんなそうだろうか?
そんなに生存競争ばかりの世界だろうか?

じいじばあばは、息子、娘、孫のことが心配だ
食べる量も所有欲も少なくなってきたじいじばあばは、後の人のことが気になる人も少なくない
自分らのことはいいから、子ども孫のためになることを望むひともいる

でもそう言う人は、少しばかり(経済的に)恵まれた人たちかもしれない
つまりは、そこそこ安定した生活ができる人は、自分以外の人たちについても慮ることができる
ということは、人が人として優しさを実行するには
経済的な社会がそこそこ確保されていることが必要となる

現在の状況は個人の責任だけで済まされる社会でないと思う
親ガチャの言葉に代表される生まれた環境が、教育、体験の大きな影響があり
それが成年になって働く先にも繋がって、収入差が生まれてしまう

このように半ば必然的に生まれてしまう弱者にどう向かい合うか?
人間の能が異様に大きいのは共感を覚える(コミュニケーションを司る)部分が
発達しているからだそうだ
人が人としていられのはその能力ゆえとするなら、
それを発揮できる社会的な環境づくりは大事なことだと思う

まとまらない話


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世襲って、どうなんだろう

2024年09月05日 09時56分53秒 | まとまらない話

親子で活躍しているスポーツ選手はそんなに多くない
最初は期待を込めて注目されても
結果がはっきり出る世界では、ダメなものはダメとされ
彼らは自分の生きる道を考えなければならなくなる
(自分自身の感情のコントロールを含めて)

タレントさんも似たような部分がある
だがスポーツ選手ほど結果がはっきり見えないので
なんとなく、生き延びていけるところもあるようだ

こうした実力が無いと干される社会と比べて大甘なのが政治家の世界
この世界では地盤・看板・鞄の言葉があることでわかるように
地盤は親のそれを難なく引き継いで、地元の人間もそれをやすやすと受け入れてしまう
政治家の実力とは覇権争いに勝つことではなく、実質的に効果のあることを決定し
実行することだと思う
だがこれは、ひとりだけの力ではないので単純な評価は出来ない

自民党の石破さんも小泉さんも河野さんも岸田さんも、もっとたどれば安倍さんも
親が政治家だった
問題は、それが今も選挙区で選ばれる重要な要素となっていることだ

独裁国家のトップは民主的な方法から選ばれたとする例は少なくない
ヒトラーはそうだった
不正な選挙があるかも知れないが、プーチンもルカシェンコもとりあえず
選挙で選ばれた
数年前はトランプさんも選挙で選ばれた

こうした例を見るにつけ、人は人を選ぶ能力を持っているのだろうか
とぼ疑問が頭に浮かぶ
そういう大衆(選ぶ能力のない人々)が力を持ってしまう怖さを問うたのが
「大衆の反逆」オルテガで、少し前の時代の分析だが、今も充分な説得力を持つ

選挙は多数決による決定方法の一つだが
多数決は物理現象とか数学的な理解には使われない
物理現象が多数決によって判断されるなどいうことは無い
そこでは精緻な思考と再現性と、、それによる因果関係で決められて
政治のような一種曖昧な多数決が通用する世界ではない

都知事選の時の強く感じたのはこの「人は人を選ぶ能力があるのだろうか」
という点で、あの時は自分たちと似た感じの人とされる人物が
予想外の数字を手に入れた
だが、そもそも自分たちと同じ感じだから選ぶということ自体が
選択判断において良いことなのだろうか?

それなら判断基準は何になるのか?
ということになるが、一般的に言われる政策論争では
ベースとなる複雑に込み入った社会背景の理解が必要だ
それを踏まえた上での政策の理解だが、現実世界はそこまで詳しい人はいない
そんな面倒なことを避けるためにそれらの判断を代わりの人物に依頼する代表制民衆主義
が存在するのだが、こうなると、「鶏が先か卵が先か」
(庶民の意識の高まりが先か、良い代表者の選択が先か)の論争になってしまう

でも、そういうときのために(よい社会には)人に常識というものが備わっている
精緻な考察をしなくても、常識で判断するとこうした方が良いと判断することが
割合妥当な結果を導き出すことは多くないだろうか

だが常識とか印象というのは騙されやすいのも事実だ
よく知っているとまでは行かなくても、よく見聞きするというだけで
シンパシーを感じやすいのは人の常

ということで、とりあえず政治家の選択は「親が云々」だけで選んではならない
と思うのだが、残案ながらこれは選挙区の人には通じないだろうな

いつものように、まとまらない話



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発注者と受注者の関係

2024年08月24日 09時42分14秒 | まとまらない話

一般論として、受注者は発注者からどのくらいの影響を受けるのだろう
パワハラという言葉があるように、実社会では発注者から理不尽な要求を
うけることは少なくないようだ

下請け業者は、製造業では仕入れ価格、納期について半ば強引に
従わざるをえないことが珍しくないために
下請けいじめができないような法律が存在する

小売業でもやはり仕入れ価格とか過度の人的なサービスを
要求されることが多く、それをしないと取引停止の恐怖で
従わざるを得ないことになっている

つまりはお金を支払う方はお金を受け取りるものよりは
強気に出られるということだ
机上の理屈では、発注者も受注者も契約上は公平で
嫌なら契約しないという選択肢があるというものの
実態は弱い立場はどこか無理をせざるを得ない

この発注者が行政の場合、同じようなことが起きていないとは言い切れない
発注者である行政が委託業者に、本来ならすべきでないことを要求した例は
残念ながら相当数あるようだ

豊橋市では新アリーナの活用方法についての調査を、ある専門業者に委託したが
依頼したのは2つの方法だった
ところが成果物として出てきたのはそのうちの一つだけで、
新アリーナの運営については有利と思われたもう一つの方法は何故か報告書から
削除されていた
そのことを知った市民が行動を起こして、それが新聞記事に載っていたが
このときの行政の言い分は驚くべきことだった
「委託業者に行政が内容について変更とか削除を求めることは一般的にある」

これは驚くべき発言だったが、やっぱりな、と感じたのだった

これに似た事件(案件)は新城市でも行われていた
数年前の市庁舎建設予定外の移転補償費の騒動では
問題となる物件が庁舎予定地と離れていたために
地権者の「離れた場所もまとめて移転補償費をもらいたい」
という要求は、コンサルタント会社に調査を依頼したところ
最終報告書は「まとめて考えることも可能」(まとめて保証費は支払うべき)
としていたが3ヶ月前の報告書ではそれとは全く反対の
「生活が一体化していない」(まとめて支払う必要はない)として報告されていた
3ヶ月の間に、何故か答えが変わっており、それは豊橋のように
「行政は一般的に変更、削除を依頼することはありうる」
が行われたと考えることができる

また最近の例では、ある業者に依頼した業務が決められた時間内に
終了していないにも関わらず、その業務は終わったことにして完了日を記入し
請求書まで発行して行政は委託料の支払いを行った
これは公文書偽造事件として関わった職員が刑事告訴されている
だが、これは表に出ただけで、発注者としての行政はこの手の要求を
結構しているのではないだろうか

前に、名古屋新城間の高速バスの運行についての調査を依頼された分析会社は
その調査の元となるアンケートは、バス利用者だけの数字とか希望を採用していた
つまり、バス利用していない人の意志とか要望はその調査には反映されなかった
つまりは受注業者は、発注業者の意向を察して物事を行うということで
実はこれ自体は珍しいこととは言えず、円滑な作業のためにはよくある話と思われる

民間同士の取引では、勘の良い営業さんが先方の意図を忖度して作業を進める
ということになるだろう

こうした例は、数年前の不動産鑑定でもおこなれていないか?
との疑念は消し去ることはできない
不動産鑑定の答えとなるような数字は、あらかじめ鑑定業者に伝えてあるし
例外的に速報値なる数字をあっという間に出して、先方との交渉の材料にしている
そして、不動産鑑定の比較する場所が、市内ではなく豊川市が3箇所となっている
(本当にその当時、比較する場所は豊川市にしかなかったのだろうか?)

手続きは一見ちゃんと踏んでいるように見える
でもその実態はかなり怪しい、、ということが、世の中には溢れていないだろうか
(行政との打ち合わせは、実は細かいところまで事前に行うのが普通らしい)
しかし難しいのは、それ怪しいと思われても実際に怪しいと証明することは
かなり難しいということだ
でも、これらを判断する人(裁判官)が、世の中で行われている人の行いの実態を
知っていれば、そこから導き出される答えは髄分違ったものになりそうな気がする

まとまらない話

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世間知は身についているのだろうか?

2024年08月04日 09時42分41秒 | まとまらない話

国民(庶民)の知恵として、長期政権は腐る
という考え方は日本の中に広まっていないのだろうか

今はあんなに酷いアメリカでも二大政党やらの政権交代が時々起こる
イギリスもこの間政権交代があった
韓国も長期政権は続かない
それらは人々の知恵として、そうした方が結果的に良い
と実感しているからと想像する

日本人は選挙区で投票先を選ぶ時、その人物が地域の要望をかなえる
使いやすい便利な人物とか、取り上げている問題点の解決方法が現実的だとか
あるいは所属政党の趨勢だけで選んでいるように想像してしまうが
それは果たして良いことなのだろうか

地域の問題を解決するということは、ある面、お金の奪い合いにもなる
補助金をある地域は手にするが、財源は限界があるのでもらえない地区もでてくる
これは地区間だけの問題ではなくて業種間での奪い合いにもなる
その政策を進めると潤う業種も生まれるが、不利益を被るかもしれないところもでてくる
損得は相反するがこれを決めるのは現在は多数決ということになっている
現実社会では企業のロビー活動などで、多数決の数字を確保するための手順を踏んでいる
つまりは多数決という問答無用の手段によって、切り捨てられることになる
だからこそ、民主主義は民意を反映しないシステムだ!という人もでてくる

選挙区で投票先を選ぶ時、人はその投票する人物は最終的な採決に
どのような判断をするのかを想像することは無いのだろうか
つまり地域の問題では有利に働く人であったとしても
もっと大きな視点の国の方針などにおいては
彼の採決は彼個人というよりは党の拘束がかかっていて
党の方針を支える単なる1票に過ぎないのが現実で
そうした実態を踏まえると、地域代表の部分最適が
国としての全体最適になるのだろうか?
と想像することは無いのだろうか

少しわかりにくいが、要は物事がうまく回るためには人は社会的な知恵として
ある程度の対立があったほうがいいと感じている
つまりは多少地域の代表として有利でなくても、国家レベルを想像して
独裁を避ける選択を行うというのが、庶民には必要と思うのだが
これはとて難しいことなのだろうか

繰り返すが、部分最適が全体最適とは限らない
これをどのくらい想像して人は投票先を選ぶのだろう

まとまらない話



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気になる「モッブ」という存在

2024年07月23日 09時26分32秒 | まとまらない話

暑いっ!
早くも室内は下で32℃(午前8時半現在)
2階は、、見ていない

ありがたいことに、夜中はエアコン無しで寝られている
南側に庭があるのが本当に効いているようだ

ところで、暑い中で気になっていることをボケ防止のこれで
頭の整理もしないでぶちまけることにすると、、

アメリカの大統領選挙のトランプさんの報道を見るにつけ
かつてのドイツ国民のヒトラーに対する熱狂を連想するので
ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」3を再読している

すると、今まではさほど気にしなかった言葉が今回は妙に気になってきた
それは「モッブ」という言葉
前に読んだときも、どういう意味か?とネットで検索した記憶がある
その時はウキペディアで示された「暴徒」でわかった気になっていた

しかし、この「モッブ」という存在は意外や意外
その一つ一つは取るに足らないような存在からスタートしていても
結果的に庶民の間の空気づくりに大きな影響を与えるように思えてきた

多分、モッブという言葉が登場したのは「全体主義の起源」2の方だと思う
階級とか制度がかっちり固定して行き場のないヨーロッパの連中が
海外に生きる道を求めることになった(その一つがモッブとして扱われている)

この海外に挑戦する人びとが、良い人ばかりなら良いのだが
残念ながらそう言うわけには行かなかった
例えば、南アフリカで初めて会う肌の色の違う人、見知らぬ言葉を話す人
生活習慣も違う人、、、そういう人たちの対して、今の世の中で要求される
多様性を受け入れる考えで対峙することは少なかった
簡単に言えば、彼らを下に見て統治すべき存在として扱ったということで
現実には海外に生きる場所を求めた人は「あぶれ者」みたいな人が多かったので
そういう考えに至ることが多かった

アメリカも元はヨーロッパからの移民が多く
それらの人々は立派な人格者だったかと言えばそれは怪しい
(西部開拓も彼らからの視点に過ぎない)
極端なのは南アメリカの出かけたヨーロッパの人々は、必ずしもそうではなくて
植民地主義を残酷なくらい進めた人々で、その後遺症がいつまでも
現在の格差にまでつながっている

たくましさとか勢いとか行動力のある「モッブ」という存在
それらは知識人にとっては取るに足らぬ存在だったかも知れないが
現実世界では馬鹿にできない状況を作り出したようだ
だからこそハンナ・アーレントは取り上げたのだと思われる

暴徒という解説で示されるように、モッブは理性的な存在ではない
感情的、暴力的とも言える
だがそれ故に、大衆の中においては力を持つ
それは現在進行中のアメリカ大統領選の異様なネガティブキャンペーンで
モッズの姿が現実に見られる気がする

ここで話を日本に置き換えると、日本のモッブとは北一輝を始めとする連中とか
天皇機関説を猛烈に反対した論客とその一派だと想像する(個人的には)
そして現在の日本社会では、SNSを使った実態はよくわからないが
知らず知らずフェイクの噂を広め、静かに侵攻する人々でないか

つまりは、大規模の存在ではないが妙に人の感情を煽る存在
感情に訴えるだけに、その言い分は理性との対話が成り立たない
そして困ったことに一気に広がりやすい

人の世の中は、どういうわけか、信じられないくらい良い人が存在する
と同時に全く反対の悪い人も存在する
これは生物が生き残るためにいくつかの可能性を残しておく
その例の一つかもしれないが、できることなら良い人が多いほうがありがたい
そして「モッブ」という存在の少ないほうが好ましいと思う

いつもの、まとまらない話



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「民意の一言」ですべてが決められてはならない

2024年07月17日 09時49分19秒 | まとまらない話

「民意は正しいとは限らない」
これはそれなりの想像力の持ち主と、つらい体験をした人は理解できる
例えばドイツ人はかつてポピュリズムに乗ってヒトラーを
正式の手続(選挙)で選んでしまった
だからその反省として、需要なことは必ずしも大衆の支持の数では決めず
有識者と認められる人々に判断を依頼するようにしているらしい

実はこの発想は自民党の総裁選挙でも使われていて
総裁選の一票は最初は地方票と議員票はそれぞれひとり一票の価値だが
決選投票では、その人物を日頃見かけて性格とか人間性を知っている
と思われる議員は、地方の党員よりも正しい判断ができるとの想像で
票の価値は議員のほうが高くなっている(何倍かは忘れた)

フランスの選挙も一回ですべて決定ということはなく
勝ち残った人たちのよる決選投票を行う
これで想像される危険を避けることができるとされ
現実に今回は極右の拡大は防がれた
この方法はオリンピック会場の決定にも使われていて
多数決の危険性を、知恵ある人々はなんとかして補っているように思われる

ところが日本は多数決の結果が、「正しいもの」とされ
選挙で敗れたものはまるで価値のない政策とか人物の扱いを受けても
当然だとの考え方が広がっているように思えてならない

そして「選挙によって民意が結論を下した」
というフレーズは、あまりにも容易に使われていて
それが選挙のバッシングに使われているのが今の日本だ

話は変わって「類は友を呼ぶ」多分この諺は本当だと思う
その人となりを知るには彼の周りの人間・友達をみれば想像できる
今回の都知事選の話題の人物、石丸氏はSNSをうまく使って見事な結果を導いたが
それは無党派層とか無関心層に「自分と似ている人」のイメージ付けがうまく行ったようだ

だが怖いのは「自分と似た人がそのポジションで大丈夫か?」
という視点が欠けていないかということだ
自分と似た人は共感を持ちやすい、彼の怒ることは自分の怒りに似ている
それに彼を支持する人は多くいる
この安心感で自分の選択は間違っていないと思い込みやすい
でも、本当にそうなのか?

ここには「自分はちゃんとした判断力を持つひとりの人間」との
思い込みがあるのではないか
それはオルテガが訴えた「大衆の反逆」の一説が思い浮かぶ
数があるだけで大衆はその責任を負わず、それを正しいものと思い込む

オルテガは大衆ではなくエリートが政治とか社会を良きものとしているという
ここで言うエリートは高級官僚とか高収入の人々というのではなく
例えば職人であっても、その仕事に打ち込み、日々に良きものを求めて
試行錯誤をし、自らを常に振り返るものとしている
つまりは意識的に内的に生きている人はエリートと定義している
そしてその人達の活用こそが良きものとしている(ように思う)

さて自分に似た人を選んだ人々は、自らを人を選ぶ能力があって
選んだことに責任を負えると感じているのだろうか
また、選挙の結果が(民意が)すべてを乗り越えて正しい!
とまで言い切ることへ疑問を感じないのだろうか

またもや、まとまらない話

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「男と女の違い」と「本質的なことから考える」ということ

2024年07月10日 10時32分40秒 | まとまらない話

今回の都議選のポスター掲示板とか人物像がよくわからない石丸氏の
予想外の投票数は、自分は同じ問題だと感じている
両者とも今まで社会にあった緩やかな常識とか倫理観などが
ものすごい速さで破壊されていると言う感覚だ

そしてもう一つの問題は、男の凝り固まった価値観による判断が
時代についていけないにもかかわらず、それなりの民意として
形になっていることだ

後者の問題は想像の世界で、確たる証拠はないとしても
当たらずとも遠からずと想像するが
少し前取り上げた蓮舫氏の出身に関する抵抗感は
男どもに多くないだろうか、、
それは東国原氏とか太田光氏の発言にも現れているし
SNSで蓮舫氏を批判するアカウントは男どもが多い
彼らは蓮舫氏の政治的な能力というより出自のみで嫌っているように見える

例えば国会中継で蓮舫氏の質問を見たならば人はどのように感じるだろう
短い質問をテンポよく続け、質問の道筋は無断なく的確に進められている
これを見る限り国会議員としての彼女の実力は、出自に関係なく素晴らしいものと
自分は感じる
だが自分に都合が悪かったり、国籍のアイデンティティにとらわれる人や
嫌悪感を感じる人は、何が何でも嫌いの一択だ
そして発信力のある人はそれが世間に影響を与えていることを自覚している

男に関する問題点は、あるイベントが女性の間では行われたが
男の社会では実現されなかったこともそうだ
それは以前森喜朗氏が「女の話は長い」とバカにした発言をした時に
女性蔑視と総スカンを食ったが、この事件の後、女性陣は有識者とか
メディア関係の人々が集まり「わきまえない女たち」とのタイトルで
女性が現実社会で受けている差別などを語り合う機会を設けた
これはYoutubeで見たが、本当に参考になった
だがその時彼女たちから出たのは、こうした問題は女性のみに存在するものではなくて
男性社会にも存在するものだろうとの共通認識で、「わきまえない女たち」のあとには
「わきまえない男たち」と言う対談が計画されることになった
しかし、それは自分が想像した通り実現されなかった
男の社会は無言の力が働いて、自由に語ることは難しいだろうと自分は思ったのだが
結果的にその通りとなった

男はもしかしたら女性より世界的な感覚において遅れているのではないか
と思うことがある
それは世界旅行の経験の数は男と女ではどちらが多いか?
を考えてみると、身の回りでも女性は世界を見て回っている人を多く見かけるが
男は女性ほどフットワーク軽く出かけているように見えない
それが問題ではないかということだ

外に出ると人は自分が持っていた価値観なり常識が違っていることがあると気づく
そして外に出た女性は、感覚的、実践的にその思いを実感する
だが内向きな男は世界標準の実感をできないままでこの国の中だけで生きる
そしてそれはナショナリティとかアイデンティティと言う言葉に集約される

明治維新後、外国を回ることになった人たちは、皆が皆外国を目標にしよう
とはならなかったらしい
文化とか社会制度に圧倒された気弱な日本人は、その精神的なバランスを保つために
自国の良さを過度に信じようとした
この心理的傾向は多分昔も今の変わりないだろう

つまりは経験不足の男どもは、自らを守るために自らの出自や文化を過度に
信用しようとする心理作用に支配される

自分が思う違和感のもう一つは社会主義に対する日本社会の嫌悪感だ
何故、そんなに嫌われるものなのかは、正直なところわからない
国会の質問でも共産党の議員の質問は、問題意識に満ちていて
なれあいの与党同士のそれよりずっと参考になる

だが、共産党は共産党であるために、それだけで否定され
何故かそれはそれなりの社会常識となっている

でも、本当に共産主義(社会主義)は間違いなのだろうか?
と考えてみると、コロナ禍ではある程度国家による方針の決定とか
強制力をもった政策は必要とされた
つまりは、ある程度の社会主義的なものは必要と実感していたと言える

貧民が多く生まれている時、社会主義的な考え方が勢いを持つのは
人の社会ではごく自然と思う
これはよく調べないといけないが、例の2.26事件の精神的なバックボーンは
北一輝の思想にあったとされていて、それは社会主義的な傾向があったものらしい

つまりは共産主義とか社会主義は,簡単に全否定されるものではなく
一度は立ち止まって、良い悪いを検証すべきものと思われる
こうした歴史とか物事への精緻な検討がなされず、単なる選挙における
戦術論だけで物事が語られる社会は、、、どうだのだろう

冒頭にあげたの掲示板とか、知らないまま人物を面白がって投票する
そして本質的な問題提起を自らは発しないで、なんとなく人と同じことをする
ことで安心感を覚える人々
オルテガの「大衆の反逆」フロムの「自由からの逃走」の問題提起は
今も深刻なもののように思われる
そして今、本棚から引っ借り出してきたのは「全体主義の起源3」ハンナ・アーレント
これは読まなければならない、、と何故か何かに導かれているような気がしている

またもや、まとまらない話


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威勢のいい言葉には注意が必要

2024年07月06日 08時04分36秒 | まとまらない話

「政治屋の一掃」
拍手喝采を受けそうな言葉だが、なにか違和感を感じていた
それが何かはわからずにいたが、不意に
「政治屋と判断するのは彼の独断に過ぎないかもしれない」
つまり自己判断を絶対化して自分が政治屋と感じたものはすべて政治屋
そんな理屈を強引に進めているのではないか、、と思ってしまった

問題はこの態度の良し悪しではなくて、人はこうした断言された言葉に弱いという点だ
面倒な説明は省いて結論だけを告げる
その方がわかりやすい
だが、わかりやすくするためにいろんなところをカットしたり
強引に理屈を進めている場合もあるので、正確な物事の理解ができている訳では無い
つまりは、正確な情報をもとに判断がくだされるというより
勢いとかポピュリズムによって物事が判断されてしまう
そんな世の中になってしまいそうというのが違和感の根っこだった

誰かが悪い、犯人探しして、とりあえず不平の発露をして気持ちがスッキリして一見落着
現実世界はそんなことでは回っていかない

実は政治屋と判断された人物も一人の人間
その人間に対しては嫌悪感を全面に出すだけではなくて
人としての敬意みたいなものは最低限必要と思われる

ただ、そう断言して貶めたい気持ちもわからないでもないが
結局は、言葉を発する人の人間性をじっくり見ないとアカンと思う

まとまらない話

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悪いのは誰か?

2024年03月20日 09時13分31秒 | まとまらない話

子どもの発想が斬新なのは、大人では当たり前の関係性ではなくて
大人では排除する関係性でも無邪気に結びつけているからかもしれない
それは生き物が生き延びるために、あらゆる可能性の突然変異を
起こすのと似ている気がする

生き物は意図を持って突然変異を起こすのではなく
手当たり次第に変化を起こし、その中で都合の良いものが
結果的に残るだけのことと考えるのが進化論の考え方のようだ

大人なら何かと何かは関連付けて記憶しているが
子どもはそうした知識がないために、
勝手に関係ないもの同士を結びつけてしまう
それが大人には斬新な発想と思えるのだろう

最近の囲碁、将棋の世界は若い人の活躍が目立っている
30代はもう現役のトップにはいられないかのようだ
それなりの経験を積んだ人は、直感的に良い手が頭に浮かぶそうだ
素人と玄人の違いは読みの深さではなく
最初に思いつく手の的確さとする調査もあるそうだ
(限られた時間内に手を選択しなければならないので、これは重要)

一方、経験の少ない人は手当たり次第にいろんな手を試みる
それはAIが様々な手を検討するのに似ているかもしれない
(もっともAIの方向性もプログラムを作る人の影響を受けているので
完全にあらゆる可能性を想像しているわけでなないと思うが)
そして従来なら顧みられなかった手も検討に値するとなって
経験以上の成果を得ることができるようになっているかのようだ
(これは想像でしかない)

これは他の多くの場合にも言えそうで
その世界の経験豊富な人間になるということは
実は良いことばかりではなさそうだ
特に最近の政治に関するメディアは、あまりにも通好みの内容になりすぎて
素人とか一般人が知りたい情報よりは、力関係のみを伝えている気がする
それは戦国時代の大名たちが誰と組んだら得か!
の判断を解説しているかのようだ
だが、肝心なのは組む相手の選択とか権力闘争ではなく
もっと根本的な「良し悪し」のはずだ

だが現実的には、これは話が遠いために、
断定的なわかりやすい権力闘争の扱いの方に流れてしまうようだ

ということで、世の中は「誰かが悪い!」
に集約されてしまう傾向にあるということ
でも、大衆はまさか「選んだ自分たちが悪い」
とは気づかないと思われる

例のごとく、まとまらない話!

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何かで発散しないと、気が滅入りそう!

2024年03月19日 09時33分36秒 | まとまらない話

世の中には適度な怒りは必要だと思う
一方的な思い込みによる怒りは好ましいものとは言えないが
それでも怒りのエネルギーは、その強さゆえに意味がないとは言えない

最近怒りを覚えるのは、政治倫理審査会でも問題の人たちの言論
追求が稚拙云々よりもはっきりしているのは
知らぬ存ぜぬという方針を徹底しようとする問題の人たちの意志だ
最初から本当のことを話す気がない人には
自白のような言葉を期待するのは難しい

責任には説明責任、道義的責任、結果責任があるとされているが
彼らはそのどれに対しても責任を果たそうとしないように見える

彼らがそれで良しとする根拠は推定無罪という考え方のように思える
「悪いことをしたとする証拠はあるのか?
    ないなら推定無罪の原則で無罪だ」
推定無罪は刑事裁判で使われる言葉で被告としての有罪が確定するまでは
「推定無罪」の原則に則り、犯罪者のように扱ってはならないとする考え方だが
政治家のような公人に対してこの理屈を使うことは適切なのだろうか

公人である政治家などは、公金の不正使用や私物化などの疑いを
持たれないように、公的記録で潔白を証明する義務を負っている
一般の裁判では「犯罪の疑い」が濃厚でも、推定無罪の原則に基づいて
「無罪」として扱われることがある
それは潔白という意味合いではなく単に「グレーゾーン」との意味でしかない

上記の説明は「詭弁社会」山崎雅弘さんの本に書かれた一部で
まさに現在このテクニックが過度に使用されている気がしてならない

こうした場合、もやもやが鬱積する庶民の怒りはどういう形で現したら良いのか?
となるのだが、それは世論調査で支持率を下げるだけでは十分ではない
もっと強い気持ちを具体的に示すことが必要だ
つまりは選挙において、該当人物に対してキツイ結果をもたらすことが
必要だと思われる

だが、昨日近くの公民館で自民党代議士の国政報告会があったが
その場の雰囲気は、そうしたキツイ結果を出すようには思われなかった
そこに集まった人々は自民党関係の人々だったように思う
少し前に八名地区で行われたものよりは批判的な質問をする人がいたが
どうも「現実論として自民党を支持するのがベター」
と考えている人が多そうな雰囲気だった
自民党の底力を感じることになったが、こうして少しばかり大目に見ることが
日本にとって良いことかは大いに疑問を覚えてしまう

実は帰り道で、「口には出さなかったが代議士は麻生派の人間で
派閥も解消しないグループの人間だ、全部が全部肯定的には思えない」
と本音を漏らす人もいた
あそこにいた人々が報告の後の拍手と異なる判断をするならば
社会は少し変わると思われるが、人の心はどうなのだろう


ところでキックバックをやめるように安倍さんが言い始めたとする話
個人的にはにわかに信じ難いと思っていたが
昨日エックス(旧ツイッター)で、なるほど!と思われる投稿を見つけた
それはキックバック問題が明らかになる前のこと
キックバックを調査している上脇教授という人物がいて
追求されるとヤバいことになりそう、、との誰かから(この誰かが問題だが)
のアドバイスを受けて、安倍さんがやめるように言い出したとするものだ
なるほど、これならあり得ると妙に納得してしまった

もっともこれは逞しい想像の世界のことかもしれないが
そう考えるほうがスッキリするのは、仕方ないと思う

嘘をつこうとする人に、本当のことを話させるのは本当に難しい
最近はこれを痛いほど経験している

まとまらない話



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