先日、豊橋に向かう車のラジオから俳優さんのおしゃべりが耳に入った
「悪人役は善人のパターン化されたものより自由度が高くて面白い
悪人役はやってみたいところもある」
俳優さんの技術というか、その人格に成り切るというのは凄いな!
と最近は思うようになっている(昨年、大河ドラマを通して見たせいかもしない)
俳優さんは、実は台本にはざっくりとした演出的なことしか書かれていなくて
その場での言い回し・仕草・表情等は俳優さんの即興に任せる部分があるらしい
その部分の味付けが俳優さんのやりがいのある部分のようで
見るだけの我々は正義の味方のような人を演じる人を好ましく思ってしまうが
俳優さんの評価はそんなに単純なものではないようだ
しかし、悪人役やってみたいというのは、もしかしたら人に内在する願望の発露
ではないかと考えたりした
おそらく自身を顧みたことがあるなら、人は良い人、悪い人、ずるい人、小心者、
ホラ吹き、残酷な人、情に厚い人などの集合体で
自身を一つの視点からだけでは表すことはできないと自覚するだろう
その多面的な人間を表現することは、俳優さんという職業人には魅力的なのだろう
内在するマグマのような悪とか欲望の強さは
その人のポテンシャルの大きさを示す
ジョン・レノンは優しさとか理想主義は持っている反面
同時に暴力性とか残酷さも持ち合わせている
そして実はそれこそが人間の巾というもので
彼個人だけがそうなのではなく、人は多かれ少なかれみんなが
そのようなものだと思う
ところが社会では、こうした悪の面が多く表に出てしまうと
経済効率も悪いし安定した生活を維持することも難しい
だから、できることなら、自らの力で自己の中に潜むものを抑え込む力が
必要と思われる
何を言うかは理性
何を言わないかは品性
という言葉があるが、この品性に関わる部分を磨いていかないと
世の中は荒れたままになってしまいそうな気がしてならない
しかし、自己を客観的に分析するのは可能だろうか
との疑問も同時に思い浮かべてしまう
そこでとりあえずの手段として、人は多くのことを知ることは
自身を顧みるきっかけとなり良いことだろうと思う
今日もまた、まとまらない話
どうやら間違って覚えていた言葉に
「愛なき教育は知恵ある怪物をつくる」がある
ずっとそうかも知れないと思っていたが、今朝ネットで確認すると
玉川学園の工学部校舎の前の御影石に刻まれた言葉を
自己流に勝手に覚えていたようだった
「神なき知育は知恵ある悪魔をつくることなり」
が刻まれていた言葉で、自分が覚えたつもりだったのとは
神と愛、知育と教育、悪魔と怪物の違いがあるが、大きなところでは違いがない
(なんでこの言葉を覚えていたのだろう?)
急にこんなことを思い出したのは、世界中を不安にさせている大統領たち
のことを思い浮かべたからで、彼らは一体どんな育ち方をしたのだろう?
と気になったのだった
人の考え方の基本となるものは経歴から育まれたと想像できる
一人はビジネスマン、もうひとりはKGB
ひとりは損得、ディールの現実世界から
片方は力を背景とした支配を是とする世界から
彼らは果たして「教養」という言葉で示される一見無駄なもの思われる
人の作った世界を味わったり、それを意義あるものとして実感した経験を
持っているのだろうか?と考えてしまった
現実世界は他の動物と同じように弱肉強食のみ(力関係だけで)で成り立っているのか
それとも、脳の肥大化に伴うコミュニケーションによる調和世界を求めようとしているのか
のどちらを選択するかで、その人の行動は変わってくる
レイモンド・チャンドラーの作り出した私立探偵のフィリップ・マーロウのセリフに
「タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」
という有名なかっこいいものがある
普通の人はこうした言葉に触れると何となくホッとする(と思う)
そしてその思いは、そのとおりだ!と一般化できるほどの知恵として刻まれる
最近不安なのは、このかつて素朴に人々が持っていたこうした
「何か良いもの」を求める気持ちが薄れてしまったのではないかということ
現実世界ではリアリティを求めるのは仕方ないとすることは
現実世界の現在の力関係の中で上手くやっていくということで
はたしてそれが良いことか疑問として提示されることはない
昨年ちょいとハマった植物の世界は、実は生存するために思いもよらなかった
共生生活をしているらしい(菌根菌等との関係)
つまりは、自己の損得だけを考えるよりは、多少譲ったところのある方が
上手く回っていくということで、この実態を知ることは
生き物同士は何らかの方法で共生を求めるべきだと感じさせる
そしてこの共生を求める力のヒントとなるものが
共感力とか教養が大きな力を持つのではないだろうか
最近つくづく実感するのはこうしたことを育む教育の大事さ
ここでの教育は、躾とか修身というものではなくて
もっと広範な全人格的な確立をもとめるもの
(あるいは自分の頭で考えること)
田舎にいて現役を終えた今、
何故こんなに不安な気分に支配されるか、不思議で仕方ない
またもや、まとまらない話
世の中にはわからないことが多くある
例えば、量子力学とか相対性理論とかひも理論とか多次元のこととか
素数に関することなどは直感的にわかりにくい
それに取り組んでいる人たちにとっては面白くてたまらないことでも
部外者は全く理解できずに沈黙するしかない
こうした場合、わかった気になる方法はその道の第一人者の話を聞くとか
入門編の本を読むとかで、そこには自分の考えが入る余地はない
そこでは信用できそうな人の言い分を完全にわかったわけでななくても
受け入れるしかない
だが、世の中には難しい問題でも素人が善悪を含めて決めつけ気味なことが多くある
例えば政治とか経済のことがそれだ
最近の例では103万円の壁の問題
確かに、この制度が設定されてから今までずっと同じ金額になっているのは
物価の上昇を考えれば、不自然なことと考えられる
(生活に最低限必要な基礎控除がそのままなのは、制度運用者は
生活の実態を知っているのかと思えないことはない)
だが、壁の数字をあげると今度は回り回って地方に回される交付税が少なくなって
自治体の運営に支障をもたらすとの考えがあるようだ
つまりは人間世界の中では、一ついじると、その他の分野に影響があって
その点だけの視点では考えられないということだ
だが、感情を伴う素人の発想はそこまで複雑な思考はしない傾向にある
知らないものの強みで、物事を単純化して、それこそが正しい考え方と思い込む
(だから政治や経済に素人は口を出すなと言うことではない)
確かに政治とか経済の複雑系の話題は専門家の意見を参考にすることある
ただその専門家の選び方は完全に客観的になされる訳では無い
最近では「ザイム心理教」なる考え方を全面的に受け入れるひととか
MMTを盲信する人たちは、それ以外の考え方を否定する傾向にある
そこには何故「ザイム真理教」とか「MMT」を信じ、他の方法は間違っているかを
説明できるだけの思考がなされているというよりは、
自分の信じる人が言ってるから信じるという段階で留まっているように思える
というものの、何でも知っていたり考えることのできない大半のひとは
それでも自分の信じる人を信じて、自らの考えとするしか手はないかもしれない
ここで問題となるのは自身の気持ちとか考えかたの選択は
思いのほか感情に支配されるということだ
これこそは本当のこと!と信じる根拠は感情にストンと落ちることで
それがあって初めて自身の考え方になる
しかし、この感情はなかなか厄介で、時として困ったことを引き起こす
例えば兵庫県の県民局長の死の理由は、「不倫がバレたから」という
わかりやすい話に置き換えられて、本来追求されるべき百条委員会の問題は
一部の人にとってはどうでも良くなってしまった
感情を揺さぶることを技術的にコントロールしようとする輩は
残念ながらどの時代どの地区にも存在すると思もわれる
人はそうした危険性から自らを守るために何をしたら良いのかは
とても大事なことだと思うが、本当にどうすれば良いのだろうか
ところで経済については、財政規律主義(財務省)、リフレ派、MMT派
という考え方があって、それらを比べたものがネット上にあった
「日本の財政に関する専門家たちの意見」
これを読むと、なにかを唯一の選択肢と思い込むのは
どこか早とちりのような気がしてきた
ただ、それでも選ばなければならないとするなら
良し悪しというより一種の「覚悟」の問題と思えてしまった
相変わらずのまとまらない話
(まとまらない話のカテゴリーを作ったほうが良いかもしれない)
世間的に著名で実績もあり雄弁な人物の一人が橋下徹氏
竹中平蔵氏と同じように(はっきりしない)違和感があって
全面的に受け入れることをしないでいる(信用しないでいるということ)
何かが違う、、という感覚がどうしても拭い去れないのだ
だが先日、彼の知事時代の経験とか弁護士としての経験から
紡ぎ出された雄弁な語り口を聞いて
違和感の正体はこれだったのか!と気づいたことがあった
それはアメリカ(トランプさん)がUSAIDの解体を示唆しているとか
マスク氏が無駄を省いているとされるが、それには賛成で
自分でもそうして当然と思う、例えば無駄な経費の中に「ダンスの普及」
なんてものは全く役に立たないものだから経費をかけるべきでない
とする発言を耳にした時のことだった
ダンスの普及などは、世界平和になんら役立たないと断言する
その判断に疑問を覚えたのだった
確かにダンスなどは、ちょっと見には役に立たないと判断されるかもしれない
しかし、アメリカという社会が世界に向けて推し進めてきた
自由とか平等とか楽天的な未来に対する向かい方は
ダンスという文化にも含まれているように思う
違う国同士がダンスを通じて共有する意識などは
直接的には何も産まないかもしれないが
円滑な関係構築には役立っているのではないか
文化とか芸術とか、そうしたものは社会生活に役立つか?
を考える時、先の大戦でドイツに残って自国の音楽文化を必死に守り
その音楽のなす力を信じようとしたフルトヴェングラーのこと思い浮かべる
音楽の訴えるものは内的な葛藤や美と調和で
それにはユダヤ人の奏者が彼には必要だった(彼はユダヤ人の奏者を守った)
そして演奏に全身全霊をかけてあるべき調和の世界を示し
それを味わい気づく人々を救おうとした
それは傍目には芸術至上主義者で世間音痴の人物の戯言のように
思えたかもしれない(トーマス・マンやトスカニーニはその視点で批判した)
だが当時のフルトヴェングラーの苦悩の深さを思うと彼を批判することは
自分にはできない
仮に美とか芸術が何の役割を果たさないとしても
それらがない世界は何とつまらないものだろうと思えてならない
(モーツアルトが存在しない音楽なんてつまらない)
つまりは普通の生活をするには、人が心の余裕を持つには
こうした一種の無駄に見えるものが必要だと思う
(この部分の考え方が彼とは違っていた)
そしてこの無駄と思えるようなものは、多分リベラルアーツと呼ばれるものだ
わかりやすい日本語にすれば教養というものになるかもしれない
もう一つ違和感を覚えた橋本氏の発言は
「市場に任せておけば良い」の一言
それは新自由主義的な考えで、それぞれが自己の利益を求めていけば
ついには市場は均衡点を手にすることができるというものだが
現実世界はそうなっているか?を観察すると
この市場での戦いはアダム・スミスが要求した道徳的な判断
というものが欠けていて、力のあるものが他を圧倒するという状態になっている
話は飛ぶがピケティの本には経済的に成功した人は
努力した人 運が良かった人、塀の上を歩いた人
の3つを紹介していた
現実世界は3番目の人も少なくないのだ
それを踏まえて何でも市場に任せるというのは、
個人的には賢い方法だとは思えないでいる
橋本氏の発言の多くは現実を踏まえて実効性のあるものを優先している
しかし現実を踏まえているだけでは、結局は力のあるものに従うになってしまう
力とはあるときは暴力のことで、ウクライナ戦争の現実的な対処は
結局はロシアの力によるものを一部認めることになってしまう
問題はそれで良いのか?という点で、現状の解決だけが問題ではないと思う
現在、現状大事なのはわかるが、それを過度に評価しすぎると
反射神経しかない動物のようで、人としてはなんかつまらない
昔、パンドラの箱の物語で、ありとあるゆる災いが飛び出したが
箱の最後に残ったのは「希望」とあったのはとても救われる気がした
ひとはどんな時も希望を捨ててはいけないと思う
(現実対処法だけでなく、あるべき未来を求めることも大事だと思う)
またもや、まとまらない話
多分、人に必要なのはきっかけだと思う
個人は社会に関係していて、社会は政治に結びついているという現実は
それなりの経験を積んだ人間なら実感すると思われる
それを踏まえて個人としてどのような行動を起こすかが問われるが
行動は面倒なので、とりあえずは傍観者とか批判をすることで
とどまっている人は多いと思う
自分も自戒を込めて思うのが、あることが起きるまでは全くこの手のことには
ノータッチでまさに傍観者だった(市議会議員の名前も知らなかった)
ところが、声をかけられて手伝った新城の住民投票に関する理不尽な出来事に
怒りを覚えて何かを調べたり、いろいろ知ることになると、社会とか政治が
本来あるべき姿に実現されていないことに気づくことになった
知ればなにかが変わる
知ることは力となり行動を促す
そして行動すれば何かが変わる
と上手い具合に物事が運べば良いのだが
現実は行動は短期的には何も報われない事が多い
だが、変化がないとしても行動することには意味がある
と先日から扱っている「フィンランドの高校生が学んでいる人生を変える教養」
には書かれている
実はそのようなことは、希望も込めて自分もそう思っていた
世の中の多くのことは思い通りにならない
それでも何かを求めて粘りづよく何かをし続けること
それば信念のように大事なものだと感じていた
(容易に行動したことが達成されると、人は妙な自信と
全能感を覚えてしまうのではないかとの不安を覚える)
ところで例の教科書には、自分が影響を与えられる行為として
以下のようにリストアップされている
・投票、また人に投票するように勧めること
・抗議の投票、反対投票
・立候補すること
・政党での活動
・政党の青年組織の委員、高校生同盟、青年議会などでの活動
・国際的な活動
・市民イニシアティブ
・法制化を求める、署名する
・ソーシャルメディアで弱者を養護する
・レイシズムのステッカーを剥がす、張り替える
・居住地の自治体評議会、国会議員、大臣、その他影響力のあるひとにコンタクトする
・雑誌に記事を書く
・デモ、行進
・市民団体を通した影響力の行使
・職業組合に所属
・身の回りの問題に取り組む
・ボランティア
・寄付
・倫理的な消費
・ボイコット
・菜食主義、公共交通機関の利用
・ソーシャルメディアでキャンペーン
・責任あるソーシャルメディアの使用
・アートを通じた活動
・科学
・ハンガーストライキ
・ハッキング
・市民的不服従
・暴力、テロ
・革命、クーデター
つまりは影響を与えられる方法はとても多様だ
(人はこの中で幾つくらい行動したことがあるだろう?
個人的にはざっと数えて10以上ありそうだ)
個人個人が(影響を与える)行動することが民主主義には必要とされているが
影響を与えるのは何年に一度かの選挙で投票するだけではない
本ではそれでは全く不十分だとされているし、実感でもそう思う
面倒くさかったり、人との摩擦が起きるかもしれない行動に
飛び込むことは日本社会では好まれないかもしれない
でも、自分自身が社会と折り合いをつけるというのは
巷に存在する空気に無条件に従っていくるのではなく
とりあえず自分も納得することが必要と思えてならない
こう言うときの個人(自分)というのは
利益を求める個人主義のそれとは違う気がする
またもや、まとまらない話!
リヒャルト・ワーグナーの楽劇の中に、上演が4日間にわたる作品がある
「ニーベルンクの指輪」と呼ばれる連作「ラインの黄金」「ワルキューレ」
「ジークフリート」「神々の黄昏」がそれで、それぞれが結構な時間を要する
物語は小人や巨人がでてきたり、ライン河に住む乙女がでてきたり
欠点の多い神様がでてきたり、人間がでてきたりする
映画になった「指輪物語」と同じように(愛を諦めたものが作った)指輪は
世界を支配する力を持つとされ、それを巡っての権力闘争とか
その過程で迷うことの多い人間同士の愛とか嫉妬とかが
物語をより深い作品たらしめている
これらは、いかようにも解釈可能な原型(プロトタイプ)で
ワーグナー自作の脚本には、想像上の生き物としての小人、神々、人間が現れる
この解釈の幅が大きい作品を、思いっきり現代劇のように読み替えた演出があった
ライン河に住み、時々河の近くにくる生き物をからかったり誘惑したりする乙女が
居酒屋の女性となり、神の中で一番の力を持つとされるヴォータンはタキシードを
着た人間として登場するものだ
自分は見ていないのでこれ以上のことは紹介できないが
1976年にドイツのバイロイトに訪れた時
そこで行われたバイロイト音楽祭で一番の問題となったのはこの画期的な演出だった
思いっきり現代の世相の反映とした演出はフランス人のシェローという人のアイデアだった
この年はバイロイト音楽祭100周年ということで、指揮者にフランス人のブーレーズ
演出にシェローを抜擢したのだが、バイロイトにいることができた自分は
その時、街にあふれるブーイングを肌で感じることができた
実はその前の数年の演出は、これと全く正反対の独特な演出で舞台は、ほぼ真っ暗
家も木も岩も具体的なものはなし、動きもそんなに多くない
つまりは日本の能のような世界だったらしい
(リヒャルト・ワーグナー孫のヴィーラントワーグナー演出)
そして勝手に想像することの方が好きな自分は、それを見たいと思ったものだった
世界でチケットを取りにくいとされていたバイロイト音楽祭が
最近はどうもそうでななさそうとのことだ
原因は過度の読み替えによる演出が評判が良くないせいらしい
つまり神様がタキシードを着たり、酒場で女性と戯れたりする
一見わかりやすい演出は、それ故につまらないと思う人が出てきている
ということではないだろうか
先日とりあげたハン・ガンの「すべての、白いものたちの」は
具体的な事件というより、想像の羽を広げるきっかけづくりの描写が多い
そしてそれは自分にとっては心地よいものだった
自分としてはプロトタイプはプロトタイプとして提供してほしい
そこから現代社会を想像するかどうかなどは、こちらに任せてほしい
と思うのだった
世の中のことは具体的ではなくても、想像することで
いろんなことに当てはめることができる
それは過去の出来事を現在の教訓として捉えることもできるはずだ
大事なのは、そうした一見関係なさそうなことも
今と関連づけることのできる想像力と思ったりする
相変わらず、まとまらない話
大阪でよく使われる「しらんけど!を、前もって宣言しておくが
なんだか変だなと感じることが昨日あった
それは地区の公民館で行われた市議会議員と国会議員との
「共産党と政治を語る会」を見聞きしたあとに湧き出た思いだ
自分は共産党員ではない、実際に滅多なことでは共産党に投票しない
だが市議会議員A氏の活動にはいつも驚きと一種の感謝を覚える
弱者とか運悪く恵まれない人たちに対する思いとか
行政の理不尽な判断とか行為に対して丁寧な調査による批判とか
こうあって欲しいという未来への提案は納得できるものだ
市議会議員だけでなく国会の中継を見れば共産党の議員の質問は
その質の高さは際立っていて、今の日本の問題点がわかってくる
そしてその印象は昨日の会合でも同じような印象をもてた
国会議員も市議会議員もまずは人間として、自然と湧き上がる
同情とか怒りに対して政治的な解決法とか問題指摘が行われた
(そして会合に来ていた一般社会人の党員の方々も真面目な質問を行った)
会が終わって全体を通しての印象は「真面目な人達だなあ」ということ
だがそこで不思議に思ったのは
何故この人たちが多くの支持を得られないのだろうか?
という疑問だった(前回の選挙は芳しい結果とは言えなかった)
それは別の党の人間だが小川淳也氏を映画監督の大島新氏が見続けていて
「クソ真面目なこの人が何故こんなに苦労しなければならないのか?
何故、報われないのか?」という疑問を覚えたのと同じだ
(「なぜ君は総理大臣になれないのか」という映画のきっかけは
この思いだったそうだ)
しらんけど!と自信をもって表にするが、マルクスの「資本論」は
その内容の多くは有名な剰余価値とか搾取の記述ではなく
貧困に悩む人々への共感とそれを許している社会への怒りだそうだ
そこにはジャーナリストとしてのマルクスの面目躍如らしい
(読んでないので、らしいとしか表現できない)
なぜか報われない人々
そういう人たちが世の中には存在する
そして悲しいことにそれは真面目故に報われないのかもしれない
とさえ思えてきた
今の世の中は権威主義が、つまりは強いものが弱いものを支配し
それが持続している世の中に思えるし、そこには真面目さとか人間的要素より
立場をわきまえた処世術に長けることと、その場しのぎの弁舌の巧みさが
必要とされているような気がしてならない
多分、共産党にも広がりを実現出来ない致命的な何かがあると思われる
それが何か?を考えるのは当事者たちとなるが
それでも彼らの真面目さ人間ぽいところを見ると
もう少し報われても良いような気がしてならない
人間、歳を重ねると保守的になると言われ
自分にも確かにその傾向はあるかもしれないが
それでも変だなと思えることには正直に向かい合いたい
まとまらない話
バッハもモーツァルトも多作だった
創作意欲に富んでいたというよりは依頼されて作ったものが多い
バッハは教会から、モーツァルトは貴族などから
それぞれジャンルを指定されて職人として音楽を生み出した
多作ということは一つの才能だと思うが
これが自発的に可能かと言えばそれはなかなか難しい
このボケ防止の日課も、あっという間にネタが尽きる
そしてネタ探しに四苦八苦する
だから週ごとのテーマを決めて実行するとか、
新聞記事からの寸評とか読書の感想を定期的にするとか
つまりは機械的に行う方法も一つの手段だ
毎日の献立に困る女性は、機械的にローテーションする
メニューを決めておくのも賢い方法とされているが
その日になって、そのメニューでは気分が乗らない
ということもあるので、考えておいたほど実践的ではないようだ
多作を可能にするにはテクニックが必要だと思う
バッハは無尽蔵に音楽を作り出したというよりは
一種の作曲のパターンを身に着けていたようだ
作曲のパターンと言うよりはメロディの作り方の方法が
技術論で処理されているような気がする
バッハの音楽(メロディとかモチーフ)の変形の仕方は
ジャズのそれに似ているといつも思う
それと比べるとモーツァルトは、多少パターン化された癖があるかもしれないが
気の向くまま感情の赴くまま生まれている気がする
クラシック音楽のもう一人の大物ベートーヴェンは
本質的には思索をイメージさせる音楽だが
ときに意外とメロディメーカーを思わせることがある
(これはジョン・レノンの音楽を連想する)
ということでベートーヴェンを除いて、多作の要因は
他人からの依頼が必要ということだ
尤も、現代社会でも出版社から依頼があった故に多作だった人もいた
松本清張は一時期いくつもの作品を同時進行して
書き続けていたらしい(話が混乱してしまわないのは凄い)
そしていつもそうした人の行動で驚きを覚えるのは
一発で完成原稿に近いものを作成する能力で
三島由紀夫などの原稿用紙はすごく綺麗だったのを
見た記憶がある
ベートーヴェンみたいに一つ一つ手直ししていたら多作は不可能だ
ただし、ベートーヴェンの手直しは完成品の完成度からすれば
そういう過程が必要不可欠だったといえる
つまりは個人の性格とか特徴によって音楽も小説も完成していく
ということなのだが、それでも適度な創作のきっかけは
誰にでも必要なんだろうなとは思う
自発的にとか内的ななにかに動かされて創作するというのは
実はなかなか難しいと思えるこの頃
いつものまとまらない話
オールドメディアは情報を一方的に流しているが
SNSはコメント欄に変なことを書くと炎上し
両論が併記されるから公平で信じられるという人がいる
でもそうかな?
SNSあるいはYoutubeで広がりやすい情報というものを
再生回数の数で測ってみると、そこにはある種の特徴がある
それは逆張りとか刺激的な内容を想像させるタイトルとか内容になっている
先日の兵庫知事選では立花氏のYoutubeはあっという間に何十万回の再生数になっていた
香川1区でボランティアで勝手に小川さんの動画をアップしている人の再生回数は
そんなに多くない
もう少し見てくれる人がいればいいのに!
と思いながらも、こうした数字は現実なんだろうなとも思う
動画の内容の魅力度が違いがその再生回数の違いになっているかもしれないとしても
再生回数の多い動画の中身にはちょいと違和感を覚える物が少なくない
今回の騒ぎの中で自分が不思議に思うのは、都知事選でポスター掲示板で
とんでもないことをしでかした人物(立花氏)の言ってることを
真実を語っていると信じてしまう人の多いことだ
自分は動画が目の前にあっても、またあの人が良からぬこと口にしている
聞くにに値しないと即断して、パスしてしまうのだが
世の中はどうもそうではないらしい
SNSやオールドメディアには嘘と本当が混じっているとしても
伝わりやすいのはどちらかといえば残念ながら真実ではない方のような気がする
なぜ否定的な、人格否定をするようなものに人は惹かれしまうのか?
これは社会問題と言うよりは、個人の心理的な問題かもしれないとも思う
ナチスが正当な選挙によって選ばれ、結果的にあのような事になってしまったのは
社会的な問題だけでなく心理的な問題ではないか?と考えたのがフロムで
「自由からの逃走」で自説を展開している
人は自由を求めているとされるが、本当に自由を欲しているのか?
実は自由から逃げたくなっているのではないか
自由に伴う自己責任は重荷になって、むしろ誰かが「こうせよ!」
と言ってくれたことをするだけのほうが生きやすいと思っているのではないか
それどころか、必要なのは現在の問題解決をしてくれる人こそで
それは宗教ではなく、解決者としているのはカラマーゾフの兄弟の「大審問官」の問題提起だ
「人はパンのみにて生きるならず」と高邁なことを言っても
欲しているのは健康とか眼の前のこと、それを制度的に実践している大審問官は
中世の時代にやってきたキリストに「お前の出番はない」と断言する
これは政治は、一人ひとりが個を確立して主体的に覚悟を持って行うというより
誰か別の人が上手い具合にやってくれないかな、、と言う希望を
大審問官が行っているということだ
大審問官に向かってキリストと思しき人物はずっと無口で反論はしない
しないが、そっと口づけをする
その行為の雄弁なこと、、
大審問官に起きた心理的経過はこの小説では描写されない、
ただ彼を追放することだけにした
自分は時々このカラマーゾフの兄弟の「大審問官」の部分だけ読み返す
そして現代人はこの大審問官の言うような世界に生きているのではないか
と思ったりする
例のごとくまとまらない話
アメリカ大統領選は思いのほか短期でトランプさん勝利で決着がついた
投票行動が感情とか意志の現れとするなら、外から見ているだけの自分は
アメリカ人の気持ちがわかるとは言えない
そこをわからずしてあれこれ批評するのは余計なお世話だろうが
それでも気なるので、日本のこれからの参考になればと少し考えてみる
よく言われるのが白人労働者の現状が30年前と比べて悲惨な状態ということ
その原因が不法移民の人々が安い労働賃金で彼らの職場を奪ったということ
だから、まずは不法移民を無くせ、、そのためには、、といろんな手段を考える
だが、そもそも企業経営は経費を安く抑えてモノを売るというのが常套手段
移民を(怪しい移民と感じていても)雇用するのは雇用する企業の必要性からと思われる
日本でも3K現場とかコンビニ、飲食店の店員さんは外国人の姿をよく見かける
それは彼らが日本人の職場を奪ったというより、彼らがいないと回っていかない
というのが現実のようだ
つまりは移民に対しこういう需要があって、この状態になっている
ということでいるのではないだろうか(アメリカの場合は企業経営の理屈から)
一見トランプさんは労働者の味方のようなイメージを演出しているが
彼は法人税の減税、高所得者の減税を訴えていて、それは従来の共和党の方針だ
彼は彼の立場の人間を護ることに心血を注ぐことになる
トランプさんのアメリカ人を鼓舞するMAGAは、
実はプーチンとか習近平の大国主義と似たようなものではないだろうか
アメリカの全世界における位置が低下しているのは現実だが(だからこそMAGA)
現在の世界は数年前出版された「文明の衝突」ハンチントンで紹介された
状況になっているのではないか
日本製鉄のアメリカのUSスチールの買収計画
カナダの企業のセブンイレブンの企業買収計画は
資本主義が進めばどの国に限らず必然的に起こり得る状況のようだが
これは感情が受け付けないことがある
イデオロギーよりアイデンティティ、ナショナリティが優先するのが現実のようだ
日本でも「日本凄い!」のオンパレードはその感情を揺さぶるのだろう
トランプさんは前期、イスラエルの在米大使館をテルアビブからエルサレムに移転した
アメリカの法的には、そうすべきところを長らく保留状態になっていたのを
エイヤッと実行しただけだが、長らくほったらかしになっていたのにも理由がある
それは1967年の第三次中東戦争でイスラエルがエルサレムの地を獲得したことを
アメリカが公認することになるとの恐れからだ
つまりは今起きているイスラエルの問題は、トランプさんはよりイスラエル寄りの
判断をするから解決への道は遠そうな不安が浮かぶ
それにしても今年は選挙の年だ
国内では都知事選、先日あったばかりの衆議院選、近くの自治体では豊橋市長選
名古屋市市長選、そして日本中の話題になっている兵庫県知事選
でもそれら全てが問題を抱えているし、既に行われたものでは
特異な現象が現れて、世の中の秩序自体が破壊されつつあるような気分にもなった
アメリカの分断、それはアメリカだけでなく、全世界に起きているのかもしれないと思う
それを加速化したのがSNSと判断されるかもしれないが
その前に人があまりモノを考えなくなっていることも影響している気がする
と、考えると暗い気分になりそうだが、とりあえず不満でも不平でも表に出して
社会に対してなにか少しでも参考になればと思う
いつものまとまらない話
※再読候補に「文明の衝突」サミュエル・ハンチントンが頭に浮かんだ
あるはずと思った本は売ったか、貸したかで今は手元にはない
どうやら市の図書館にはありそうなので、今読んでいるのが一段落したら
挑戦するつもり