今朝食卓に西洋なしが置いてあった
これどうしたの?
お友達がくれた。このサフラン、前にもあの時もらったよね
サフラン?
サフランじゃなかった?ええと、、
それは、ラ・フランス
惜しい、もうちょっとだったね !
お年寄りにはカタカナ言葉は覚えにくい!
今朝食卓に西洋なしが置いてあった
これどうしたの?
お友達がくれた。このサフラン、前にもあの時もらったよね
サフラン?
サフランじゃなかった?ええと、、
それは、ラ・フランス
惜しい、もうちょっとだったね !
お年寄りにはカタカナ言葉は覚えにくい!
新城市の少しばかり気の滅入る話題
昨日、一昨日の新城市議会は傍聴に出かけても
少し怒りを覚える部分があったものの比較的何ごともなかった印象だった
だから何事もなく終わるはずだった
今回は一人と議長を除いて残りの市議が一般質問に立った
一般質問を行わなかった市議は、
やっと政治倫理審査会での厳しい結論がでた打桐議員だけ
しばらくしたあとで発行される「議会だより」には
傍聴した印象とは異なる表現がされるのだろうな
と、のんびり構えていたが、、、
今日突然に携帯に入った仲間からのメールでびっくりした
「今、浅尾市議の懲罰動議あり」
「???」
一瞬何のことかわからなかった
またもや前代未聞の出来事だ
とりあえず13時半から議場でこの件で会議が行われるとのこと
スケジュールを変更して議場に向かった
時間10分ほど前、傍聴者は既に何人かいた
皆が異様な出来事に驚いている様子
各自スマホで調べ物をしたり急遽プリントしたと思われる
写りの悪い印刷物を眺めていた
その印刷物とは以下の画像
浅尾市議に懲罰を科したいので動議を提出したい旨を記したものだ
懲罰に値する内容といえば
「打桐厚史市議の市議会議員政治倫理条例違反について」と題する一般質問に
おいて、「当該議員の妻の企業の経営状況は警戒企業、欠損や資金不足による現状低迷型の
最低E判定」「議員の兼業禁止を定めた地方自治法違反の現状を黙認した」との発言を行ったが
これらの発言は事実根拠がなく当該議員及び当該私企業の立場を著しく侮辱し、名誉を著しく
損なう内容であり、いずれも法に違反するもので、今後こうした発言が行われぬよう浅尾議員に対して
懲罰を科されることを求める
ここで懲罰を調べてみると、こうした議会で行われる懲罰にはその程度があって
地方自治法によると
第百三十五条 懲罰は、左の通りとする。
一 公開の議場における戒告
二 公開の議場における陳謝
三 一定期間の出席停止
四 除名
○2 懲罰の動議を議題とするに当つては、議員の定数の八分の一以上の者の発議によらなければならない。
○3 第一項第四号の除名については、当該普通地方公共団体の議会の議員の三分の二以上の者が出席し、その四分の三以上の者の同意がなければならない。
多少制限はあるものの、最も厳しいものは除名で市議の役職を奪うものだ
市議は選挙によって選ばれており、その存在は慎重に扱われるべき事柄であるのに
なんの前触れも無しに、いきなりこうした判断がくだされる可能性のあるものに
問うことに違和感を感じる
会議が始まった
動議を提出した議員が前に立ち提案理由を述べて
それについての質問・討論が始まった
色んな話がされたが自分の理解できた範囲内でのやり取りは
(議会運営上のルールに関することや段取りはよくわからない)
まず、浅尾市議の発言に根拠がないとした部分はどうかということ
当該議員の妻の企業の経営状況は警戒企業、欠損や資金不足による現状低迷型の
最低E判定」が虚偽だとする判断基準は何かというところ
その答えは、市職員に問い合わせたところ、
当該企業はそんな経営状況ではないと答えた
だから浅尾市議は虚偽の発言をしているというもの
しかし、後に行われた浅尾市議の弁明によれば
独自に民間の調査会社に依頼してそこ結果の写しをもっており
全く根拠の無いものではない
まして一般質問の時間にその根拠を求められたり、発言が不適切
との指摘もなかった
そしてその写しを請求されたならば示すことも
やぶさかではなかったと答えている
(実は別のある人物も浅尾市議と同様な調査をしており同じような結果を得ている)
ここで産廃の問題では浅尾市議とは異なる立場の白井市議が
浅尾市議のフォローに回る
(本人は浅尾市議のフォローではなく、このようなことをしていくこと自体が
新城市議会の今後を危うくするものだとの認識から発言したのだが)
市議の除名をするような大事な問題について、いきなり話し合うより前に
すべきことはなかったのか
議場での発言の制限とか訂正依頼とか、議会が終わったあとで記事録の削除についての
問いかけなど、すべきことは他にあったのではないか
議長の整理権(?)が充分果たされていなかったのではないか
まして今度の動議発案者が議会運営委員のメンバーがメインとなっており
このようなことがまかり通れば、議運のメンバーの気に入らない人物(市議)を
葬ることにつながり、それは将来の議員となる人たちにとっても
悪しき前例を残すことになりはしないか、、
傍聴者の立場から、誰の味方をするのではなく素直に聞いていると
白井市議の話のほうが提案書の理由付けより心情的にスッキリしている
難しい理屈というより、普通はそう考えるだろうな、、、といった共感を覚える
一方、提案者の答えることは「手続き上に問題はない」の一点張り
事実認定が一方的で、それが果たしてどうなのか分からない状態なのに
ルール則って、、とを繰り返す
結局、本質に話が移る前に(国会でも言い尽くされた)「審議は尽くされた」
の 一言で採決に
こうなるといつもの力関係
(しかし、この時ではなかったが議員として人としておかしいと感じた方もおられた)
結局は傍聴人のいない議員さん同士の話し合いで
浅尾市議の懲罰は決められていくことになった
ここで一番の違和感を感じるのは、この事件の唐突さ
冒頭にも述べたように昨日の段階では何ごともない
どちらかと言えば冴えない議会の印象だった
ところが今日になって前日まで問題視されていなかった発言が
急に取り上げられて、ほとんど議論の体をなさず、
数を頼りに強引に進められていく
そこで肌で感じる一部の議員の憎しみに似た感情
これは正直なところ驚く
何に驚くかと言えば、議会は自殺行為をしている
自滅に向かっている
新城市は昨年以来、住民投票・市長リコール運動・政治倫理審査会が4件
住民監査請求・産廃被害者の会設立・そして今回の懲罰委員会(?)
普通の考えると起きるはずのないことが立て続けに起きている
それだけで異常事態だ
個々の問題がどうであれ、こんなに問題が次々と出てくる自体が普通ではない
自分の住むこの地区のことを自ら悪く言うのは辛い
できることならそんなことはしたくない
しかし住民投票のときにあの選択肢の酷さに危機感を覚えて
ノンビリなどしていられない気持ちが起き上がり
自分のできることを必死でしたように
今も何かすごく危機感を感じて、ノンビリなどしていられない
気持ちがうずく
そして住民投票の時、リコール運動の時に肌で感じた
あの嫌な感じがまたもや感じられる
その正体は、、、
10月に「ワルキューレ」を新国立に見に行った時
そこに集う人々を見て「自分と同じ臭いがする」と感じた
それはワグネリアンという固有名詞にまとめられるよりは
もっと別の肌感覚に近いところで「自分と一緒だ」
印象をもった
最近、SNSで同じ臭いのする仲間の(同類の)グループに参加することになった
ミクシーはやらないので、何を今更とというところだが
これがなかなか退屈しないで面白い
そのSNSとはフェイスブックの「クラシックを聴こう!」というグループ
文字通り聴くことを中心としたオタクの集まるところだ
そこで特に感じるのは「自分と同じように感じる人が多い」ということだ
そうそう、その感覚!
と相づちを打ちそうな時が少なくない
ここで味をしめてもう一つ参加した
それは「いつでもモーツァルト」
大好きなモーツァルトのことをあれこれつぶやくグループだ
これらは「いいね」ひとつでも、なにか共通の感覚を持てそう
やっぱり人は「類は友を呼ぶ」
ホント同じタイプの人が結局集まりやすい
その人は3回とも同じことを繰り返した
一応尊敬される立場にあるその人は、当たり前のように
ある会合〈イベント)で乞われて挨拶を行った
同じことを繰り返したというのは、この挨拶のことば
「おめでとうございます(会の趣旨に対する挨拶)、、
ずっとお聞きしていたい(拝見していたい)のですが、あとの予定がありますので、、、」
と言って、挨拶だけをして途中からいなくなった
最初は、そうなんだ、忙しいのにご苦労様!
の印象だった
ところが2回目も同じことをされると既視感が先立って
あれ、またやってる
そして3回めになると、
そんなに忙しいなら来なくてもいいのに !
というか、この行動自体に少し嫌悪感を感じることになった
忙しいのに(本当にそうかな?)わざわざ来て(来たくもない)会やイベントで
挨拶する目的は 、、、、
そう選挙対策、名前を売る行為だ
昨日の河村さんがさり気なく、地域の盆踊り、敬老会、運動会に
市議が参列する(挨拶する)のは実質的な選挙運動だ
とこぼしたのを思い出した
選挙において、無理なく名前を売る機会の多さは
現役と新人とは最初からかなりのハンディがある
現役は当選した時点からあらゆる機会を通じて選挙活動ができている
人は自分のことを語るのに、自分はあの人を知っているとか
あの人の知り合いだといって、少し有名なあの人の名前をあげたがる
そのあの人が現役の政治屋さんということは珍しくもない
少し知られた政治屋さんと知り合い、、それが人としてのステータスに
なるということは本当はないはずなのだが、現実世界ではよくある勘違いの事柄
政治屋さんはこの心理をうまく活用する
知り合いと錯覚させる機会を出来るだけ多く設ける
政治屋さんの中では多くの中のひとりにすぎないが
当の本人にとってはそんなに客観的に自分の立場を解釈しているわけではなくて
何か知り合いであることで、自分が特別な人間と錯覚する
そしてこの様に無理ない選挙母体が出来上がっていく
でも、わざわざ来て挨拶だけして途中で離れる行為や
やたらと知り合いを増やそうとする行為は
何かしら違和感とか嫌悪感を感じる
それにしても、弔電に誰々さんの名前が紹介されたり、、
なんだかな
「違法性はなかった」とか「法に則って」とか
最近、嫌というほど耳にするフレーズだ
これだけ耳にすると、そもそもその法というものが
どんなものか知りたくなる
ところが素人の辛さ、それがどんなものか詳しくは分からない
でも、ここ同じく耳にするのが
「ザル法」という言葉
「違法性はなかった」とか「法に則って判断してもミスが起きている」
というのは、どうもこの法自体がしっかりしたのもではないからのようだ
入り口はしっかり管理していても出口はユルユルの政治資金規制法
産廃関連の廃掃法やリサイクル法も、どうも環境を守るための担保となるよりは
別の目的のために作られた様に思えたりする
法は一つの目安になるが、悪用されると法に書いてないことは
何でもやっていいこと!と判断する人が出てくる
本来は、性善説ではないが、ひとりひとりが書かれていなくても
常識として行わないこと!いわゆるモラルの存在を前提としていた
しかし、今は、、、
書かれていないことを、法に触れないことを、モラルに反しても
行ってしまう人、それを「賢い人 」というのだろうか
少し気が小さくて、ついつい世間の目を気にして当たり前に
モラルらしきものを守る小市民は賢くないのか
ピケティは彼の著書で
「成功した人は、努力した人。運が良かった人。そして危ない橋を渡った人」
と象徴的に書き残している
どうも最近は、「最後の危ない橋を渡った人 」の類が多すぎないか
小市民がついつい気にして守るモラルとか規則
それは本来は上手く生活していくうえでも知恵だったはず
ところが、今はそれがどうも機能していない
それより上位に直感的には理解しづらい法がある
そうなると、法を熟知している人たちのなすがままになる
世の中はそんなにシンプルなものではない
と認めたとしても、もう少し感情的に納得できる世の中にならないものか
(でないと、感情の爆発がいつか起きやしないか)
なにかな、どうもやりきれない日が続く、、、
後から後から情けないセコい話が出てきて
マスコミ的には美味しい話題の舛添さん
この話題、「セコい」が共通の認識
難しい政治資金の使い道が合法かどうかと言うより
そのやり口が、庶民にもわかりやすいだけ
失笑を買う
それで、「もうこの人はいや!」
と感情的に受け付けなくなってしまった人(都民)は
少なくないのではないか
感情がノーと言ったらそれを覆すことは難しい
というのは、多くの人が経験すること
東京都民はこれから一体どう考えるのだろう
支持母体の自民党や公明党の判断を良しとするのか
それとも、やっぱりやりきれない思いを表に出して
何かするのか、、
ここでの都民の対応は、この国の縮図となるのではないか
と思ったりする
なんとなく人任せの方法をとるか
それとも、苦い体験を乗り越える行動を自ら望むか、、
自分の市も最近こんな思いにされたことがあったので
つい無責任に取り上げてみた
熊本地震は木曜日に起きたものが本震ではなく
土曜の未明に起きたものが本震とされた
そして相次いで移動しているかのように見える地震は
余震の数を含めて過去に例のないパターンのようで
「想定を超えている」
またもやこの言葉が使われることになりそう
人の思いつく想定もある種の限界があるようだ
被害の状況を画面で見るにつけ落ち込みそうな気分になるが
申し訳ないことに今自分の頭を支配しているのは
このことではなく、先日から読み始めたSTAP細胞絡みのこと
ほとんど一気に読んだ
細かな科学的なところが理解できたかといえば、途中で面倒になって
言わんとする所を勝手に解釈したところもあって、正確に把握しているとは言えない
読んだ順番は右の「あの日」から「捏造の科学者」次いで「STAP細胞残された謎」の順
読んだ順番が違えば違う印象を持ったかもしれないが、
この事件はつくづく奇妙な事件だということが印象として残る
本と合わせてネットで公開されている記者会見(笹井さん)や少し独特の立場の武田邦彦の
動画のブログも見た
あの騒動の発端はネットからの声だった
画像の流用や切り貼りなど
そして、自分は知らなかったが小保方さんのバッシングの根拠となる情報も
やはりネットからだった
それも2ちゃんねるでの
それは理研あるいは若山研の内部の人からのリークらしい
そしてどういうわけかメデイアはそれを一方的に信じて
バッシングの空気を作り上げて、もうそれ以外の声を聞かない
状況を作り上げた
確かに画像の切り貼りや不適切な引用など奇妙な点は少なくない
しかし、まずは言い分を聞いてみようとの姿勢がなかった
最初から糾弾の姿勢でメデイアはいた
話は変わって、STAP細胞は動物の細胞でのことだが
植物にはSTAP細胞と似たような機能を持つことが確認されているそうだ
植物にあるなら動物にだって、、
これは案外無理からぬ発想
人はどうしても最初からどちらかの味方をする傾向にある
客観的にみようとしても、どうしても知らず知らず自分の好みの意見に
肩入れし、情報もそれに合うものをより多く仕入れることになる
その意味では、自分の立場は少し怪しい小保方さんの味方かもしれない
しかし、それでもなるべく異なる立場の人の情報もとあれこれ(そんなに多くないが)
得ようとした
第46回大宅賞を受賞したとされる毎日新聞の須田桃子氏の「捏造の科学者」
新聞社の科学部門の人はこれほどまでに知識を持っているのかと感心したが
一つ気になったのは「自分は正しい」と妙な自信を持ち続けていること
その正しいという論旨は、ある意味自分の思い込みに過ぎないかもしれない
と自分で疑わなかったのか そこが少し疑問
(確かによく知っているが毎日勝負している笹井さんや小保方さんよりは
知識量やロジックが 上だとは思えない、その意味ではもう少し謙虚な態度で臨むべき
と感じられる部分が少なくない)
捏造の科学者で最初の方のページに写真で紹介されているES細胞の写真
これもネットでリークされた情報を元に手に入れたようだ
そしてこれがSTAP細胞の捏造に使われたかのような印象を与えることになっている
しかし、「 STAP細胞残された謎」を読むと実情は全然そうではないようだ
また小保方氏がES細胞を盗んだと嫌疑をかけられ事情聴取を受けた件については
警察は不起訴としており、また盗んだとされる細胞は既に実験が終了しており
盗む価値もないものだった
今になってこのことが何故気になるのかと言えば、
実はSTAP細胞のことが理由ではない
一番気になったのがマスコミの伝え方と世間の空気のこと
あの騒ぎの時の異常さ 持ち上げて徹底的に叩く それが正義かのような伝え方
これこそが自分にとっては一番の問題だ
人は残念ながら無条件に世間に多くでている話を真実と思いたがる
特に自分の理解を超えた範囲では、その道の識者の声を信じるしかない
しかし、その識者が日本のメディアでは偏っていないか
あるテレビ局にでていた人が時間を変えて別のテレビ局で同じ事を言う
しかし、バッシングされつつある立場の人の意見は
何かを言うと 言い訳の解釈で一方的に、今度は素人がバッシングする
情報を表にできる人は限られている
ある意味権力を持っている人は情報をリリースできる
その情報が一般人の実感に伴わない抽象的な事柄の場合
人は特に関心をもつことなくそのまま信じてしまう
そしていつのまにか、その情報は真実という形と理解される
その理解が世間の空気となってしまう
今度はそれに対して反論を行おうとすると、
それは変わり者、聞く意味のない意見とされそう
STAP細胞事件で理研の内部の問題、解決すべき問題が明らかにされた
と評価されるみたいだが、果たしてメディアの伝え方はどうだったのか
単に人の興味を部分を拡大して、正義を掲げて、思い切り人を糾弾する
公正公平を歌いながら、空気を作り上げ、他の意見を受け入れない雰囲気を作り上げる
これがこれからも繰り返されない補償はない
いや今も繰り返されている
別に善人ぶる気はないが、この曖昧な空気に支配されそうな世界が少し不安だ
しかし、翻って何故こんなに気になって、心配しているのか
世間が何かしら危ない方向に進んでいると薄々感じるからなのか、、
法に則って、、、
法の上では、、、
幸か不幸か、最近やたらとこの手の言葉を
聞く事が多くなっている
でもそこで感じることは、法は自分たちを何も守ってくれない
と言う思い
法の上では、何何してはいけないことになっている
ところがそれを破った場合には罰則があるかというと
罰則についての法律はない
だからなし崩しに法律は守られない状況が起きる
上の例は、最近体験した例
ある法律は数字を決めているとする
その数字が出現した理由はあるのだが、いつの間にか
数字が独り歩きして、いつの間にか
この数字さえクリアできればなんでも良いような
運用テクニックになってしまう
法律は面倒なので詳しいことは知らないから
言われたことを信じるしかないし多岐に渡っているので
余程の専門家しかわからない
はたしてそれで世の中が本当に回っていくのか
と思うが、今のところしょうがないのだろうか
人格者ぶる気はないけど、最近暗黙の了解みたいな
みんな当然すべきだよね!といった社会の規範が
緩んでいるような気がする
以前、知り合いの店で周年祭の時に
たこ焼き食べ放題、コーラ飲み放題とチラシに入れたら
客でない人が友達数人と連れ立ってコーラの栓を
ボコボコ空けてオーナーが閉口した光景を見たが
飲み放題というイベントも常識ハズレなことをしない
といいう前提があってのこと
ちゃんと書いてなかったから悪いのか
なんだかな、
なんでこんなことになっているんだろう
今朝の新聞に興味深い記事があった(写真は中日新聞)
興味深いというのは記事の内容ではない
何故、今この記事が掲載されているか?
何故、いろんな新聞で同じように取り上げられているか?
という点
自分が確認したのは自宅で見た中日新聞、
ネットでは毎日新聞も同じようにでていた
この記事の内容自体はちょっと目には興味深い
生物の長続きの鍵は怠け者にあり
と、怠け者の存在理由を述べている
しかし、この事実と解説は何年か前出版された
「働かないアリに意義がある」
(メディアフォクトリー新書 長谷川 英祐)
で既に紹介されている
だから特に珍しい事でも奇抜なことでもない
なのに、いたるところで取り上げられている
不思議なのはそちらの方だ
新聞社の記者さんは、あらゆる本を読んでいるのではないから
この手の情報が珍しいのかもしれないが
なにか、横着した記事だな!思ってしまう
いろんな新聞に載っていることだから、きっと何らかの発表があって
それをそのまま記事にしたのだろうけれど、、
最近、新聞やテレビ報道に文句ばかり言っている気がするが
マスコミはもう少し独自の取材力を上げないとまずいんじゃないの
なにか、発表報道だけをしているような気がする
※ 発表報道(はっぴょうほうどう)とは、官公庁や捜査当局(=警察)などの発表を、
主体的に分析、取捨選択することなくそのまま横流しに報道するマスメディアの姿勢を揶揄した言葉。
対義語は記者やジャーナリストが自発的に行なう調査報道。
最近、実生活がバタバタして
のんびり読書する気持ちになれないでいるが
先日週刊誌で自分の感性に近い人を見つけた
写真の3冊のうちピケティは読んだが、それを挟む2冊も面白そう
本の値段が気楽に買える金額ではないので
気分が乗った時しか買えないかな
(それに最後まで読めるか自信がないし)
4位以下も興味をそそられる
でもまだ読みかけがどっさりある
気張って購入したブロッホの「この時代の遺産」は
文体のリズムが合わず、前に進まない
(どうやらこれは積ん読になってしまいそう)
丸善で購入したアントニオ・タブッキの小説も
最初の章を読んだだけ
購入していないが、今気になるのはウェーバーの「権力と支配」
ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」
日本のミステリーでは「帰還者」も面白そう
おっとその前に「新カラマーゾフの兄弟」を 終えなければ!
この新カラマーゾフの兄弟を読んでいると
如何に本家のカラマーゾフの兄弟が凄いかが分かる
なんか落ち着かない毎日 が続く
しばらくは仕方ない!