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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

アルヴォ・ペルトの声楽曲

2015年10月28日 16時00分51秒 | 音楽

今日永らく臥せっておられた方が亡くなった
接点はそれほどあったわけではないが
人は生まれて、生きて、死ぬだけのこと
いつか自分にもやってくるその最後のステージの知らせは
準備はしていたものの、少なからず心になにか重くにそかかる

その人を悼むつもりでふさわしい音楽を探した
葬送の音楽でも感情が表に現れすぎるのは
好ましくない気がした
フォーレのレクイエムでさえ饒舌すぎるような気がして
結局引っ張りだしたのが

アルヴォ・ペルトの声楽曲の一枚(タイトルのアルボスともう一曲は器楽曲だが他は声楽曲)

アルヴォ・ペルトは1935年生まれだから現代音楽の作曲家ということになる
しかし、ここに聞こえる音楽は難解な現代音楽とは違う
音楽的な技法上のことはわからないが、耳から入る音は
まるで中世の音楽と勘違いしそうな雰囲気に満ちている

2,私達はバビロン河のほとりに座し、涙した
4.デ・プロフィンデス(深淵より)
5. 何年もまえのことだった
6.スンマ
8. スターバト・マーテル
のトラックが声楽曲 

音はあくまでも静寂に向かって進む
先程まで出ていた音は永遠の静寂の中に消え去ってしまいそう

これらの曲はシェーンベルクやヴェーベルン、シュニトケ、ブーレーズなどとは
違って聴きやすい
逆にもしかしたら飽きやすいのかもしれない
しかし、何度も聴くという行為は録音の技術が出来あがっている最近の聞き方
音楽は本来すぐに消えてしまうもので、半ば記憶の中で再生するもの
だとしたら、聞いている瞬間が印象的であること、
いかに心に響くかが全てなのかもしれない

世界が複雑な感情に支配されているこの様な時代に
この様なシンプルな静寂に向かう音楽が存在することは
一つの奇跡のようにさえ思えてくる

音楽は生活に、いや生きていくうえで必要なものだが
だからと言って聴き流すのは余りにももったいない
聴きたい気持ちが高まって聴いてこそ素晴らしい瞬間がやってくる

願うのは音楽が回りにあることではなく
聴きたいという気持ちが生きている内に数多く体験できること
こうした願いがだんだん冗談ではなくなってきている年齢になっている 

私達はバビロン河のほとりに座し、涙した  youtubeから

スターバト・マーテル youtubeから前半部分

 

 

 

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交響曲 第5番

2015年10月25日 16時50分38秒 | 音楽

昨晩 久し振りにショスタコーヴィチの5番を聴いた
ルドルフ・バルシャイ指揮 WDRシンフォニーオーケストラの廉価版のCD
だったが、なんとなくかけたのではなくて一応聴こうとしただけに
思いの外楽しむことができた

一日経って、そういえば5番の交響曲か、と振り返っていると
不意にいろんなん作曲家の5番のことを連想した

5番といえば大御所ベートーヴェンの運命
でも聴く気力が充実していないと少ししんどい

マーラーの5番もあのアダージェットで有名になっているが
自分が好きなのは前半の2つの楽章
だいぶ昔だが実演の若杉弘とケルン放送交響楽団のは本当に良かった

チャイコフスキーの5番は美味しいメロディが2楽章に歌われて
最初のテーマで統一されているというものの
えらく大げさでこちらが少し恥ずかしくなってきて
そんなに振りかぶってやることはないだろう!
と思ってしまう

実演で聴いてその効果を体験したいのがブルックナーの5番
少し聴いただけだと何処に向かうかわからないような印象がするが
生だと8番の終楽章くらい迫力があるかもしれない
などと勝手に想像して、ぜひとも聴いてみたい

あと、シューベルト、シベリウス、プロコフィエフも5番があるけど
どうも印象に残っていない

でも最初のベートーヴェンが5番が特別な番号としたので
後世の人もこの番号は気になってしかなたかったのかもしれない
違う番号だがショスタコーヴィチは9番で軽い曲を書いたので
政府から(?)文句を言われたとか 

この5番の交響曲のいろいろ お気に入りは
ベートヴェンはフルトヴェングラーの録音
気分次第でベルリン・フィルやらウィーンフィルのもの

マーラーはテンシュテットのロンドン・フィルとの演奏
とくに前半のお気に入りの楽章がいい

チャイコフスキーはゲルギエフやムラヴィンスキーが良さそう
な気がするが、どうも最近は苦手で気が進まない

ショスタコーヴィチはバーンスタインのがなかなかいける

でも秋になってきたから、聴くのはブラームスが良いかも
5番ではなくて4番あたりを 

 

 

 

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フルトヴェングラーの「運命」(1947年)

2015年10月19日 20時13分58秒 | 音楽

秋になるとブラームス
それもクラリネット五重奏曲が
聴きたくなるのはどうも自分だけではなさそうで
先日偶然見かけたあるブログにもそんなことが載っていた

でも今日はブラームスではなくベートーヴェンの話
それも超有名曲 交響曲第5番 運命

運命か、、ちょっとな、、
と敬遠したくなることがある
エロイカなら大らかで若さに溢れのびのびとして
豊富な旋律に満ちて楽しめるが
運命は精神の状態が出来ていないと余りにも雄弁すぎて
避けたくなる

でも、たまにはいいか!
と引っ張りだしたのが
デモの時に東京のディスクユニオンで購入した
 中古レコードの「フルトヴェングラーの遺産」からの一枚
1947年 5月 ベルリンでの演奏 

針を落とすまでは正直そんなに気乗りではなかった
しかし、あのダッダッダッダーンのモットーが図太く奏されるやいなや
何か普通と違う感じが一気に部屋に漂う
それでスピーカーに向かって座り直して
昔はごく普通にやっていた集中しての聴き方に変えた

なるほどフルトヴェングラーが冒頭はモットーで
主題ではない(だったかな?)みたいなことを言ってたのを
思い出した

テンポの伸び縮み、強弱の変化が激しいとされる演奏だが
聴いている最中は気にならなかった
むしろそれは必然のように思える
録音はよくないはずなのに、何故かフレーズから次のフレーズに
楽器が移っていくのがよく聴こえる
それのティンパニがただのリズム楽器というよりは音階楽器
その効果が半端じゃない
そして休符の効果的なこと(第9のある場面を思い出す)

レコードは1.2楽章がA面、3.4楽章はB面
気乗りしなかったらA面だけでいいや!と思っていたが
先を急ぐ様にB面に続く

この指揮に付き合っているベルリン・フィルは大変だろうな
と思うより、こんなに目一杯真剣に集中を要求されて
しかもまるで自発的な行為のような演奏をしているのは
やってる当人たちは面白くて(充実感がいっぱいで)たまらないだろうな
フトそんな気がした

イメージとしては第4楽章はもっと同じことの繰り返しが多いように
思っていたが、何のことはないすべてが必然の流れのように
そして走りだしたら止まらないライブの熱気につつまれている

すげー!
聴き終わった時につい出てしまった言葉
それ以外に言いようがない
すげー!
同じフルトヴェングラーの指揮するベートーヴェンの第7番の交響曲を
聴いた時も、やはりすげー!と出てくるが
とにかく何かが違う

煽りに煽って気分的にハイになって興奮しているのとは違う
もっと別の なにか貴重な人生体験をしたような
ある一場面一場面をしっかり覚えているような
あとに残る演奏

この印象は強烈なのでしばらくフルトヴェングラーの運命は
聴かないでもいいかな!という気さえする
気軽に聴いて、集中しきれずにがっかりするくらいなら
今の記憶を大切にしたいと考えてしまう

しかし、ホント、すげー!

 

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懐メロ(カンツォーネ)

2015年10月17日 20時18分07秒 | 音楽

昔、サンレモ音楽祭というものがあった
今も続いているかもしれないが、自分が中高生の頃は頃は
とても盛んで2つ上の姉がレコードを買ってきては聴かせてくれた

その中で覚えているのが、優勝曲ではないが聞いていて、
いや真似して歌ってとても気持ちの良かった曲が「愛の詩」マッシモ・ラニエリ

イオ・ティーアモと歌うところがすごい快感
イタリアが音楽の国というのはなんとなく納得できた

姉がとても気に入っていたのはジリオラ・チンクェッティの「愛は限りなく」  

なんかとても壮大な感じで、まだ愛だのを考える時機ではなかった自分も
なにかしらキュンとなった 

音楽はやっぱり歌うことが心地よい
最近はラップのような音楽が流行して
時代の雰囲気を反映している感じはわからないでもないが
メロディーが主体の生理的な快感を生じさせるような曲が
時代遅れでも自分は好きだな

これらの曲は自分の中の懐メロ

 

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ラインの黄金 第3場で思い浮かんだこと

2015年10月05日 20時42分15秒 | 音楽

昨日は帰りの新幹線の中で思いつくままのアップ
そこであの会場で気づいたことで抜けていることがあったので
忘れない内に

第3場のシーン 騒音のようなハンマーを叩く音
(ジークフリートでも活躍する音形)
まるで工場のような舞台は
映画のトルーキン指輪物語の1シーンを思い出した
映画では何か暗い工場のようなところで
兵器を作っているシーンがあったが
なにか被るものがある

指輪に世界を支配する力があるというのも似ているし
トルーキンはヴァーグナーから影響を受けたのか
それとも西欧では昔からある話なのだろうか
なにか西欧人の日本人とは違うドロドロした感性を感じる 

ところで「ANGER」と書かれた吊るされたものがあったが
「ANGER」ってどんな意味かなと考えながら見ていたが
後でわかったことだが「ANGER」ではなくて
「DANGER」で自分の席からは見えなかっただけ
なるほどそれならわかる

それから今も覚えているのが上演が始まる前の
オーケストラの人たちの練習というか音出し
これがなかなか面白かった
ライトモチーフが何度も奏されて否が応でも気持ちは盛り上がった
あのように聞くと金管の人は大変だ
(いや、やりがいがある?)

ということで、相も変わらずどうでもいいことの羅列
でもこうした音楽を楽しむのにも多少の努力や
時間やお金もかかっているも事実
何事も簡単には楽しめないというより
知っていけば楽しみはもっと深まると言うことか、、、

 



 

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新国立劇場のラインの黄金

2015年10月04日 18時16分42秒 | 音楽


トリスタン、パフジルァル、タンホイザーに続いて生で見る(聴く)ヴァーグナーの作品の上演。

やはり生は良い。
生でないと絶対集中力が続かない。

自分の場所は二階の最後列。日本語訳が少し上目、舞台は下で少し見にくかったが、そして一瞬ウトウトしかかったが、結果的には大いに堪能した。

終わった後、早く次のワルキューレが見たいと思ってしまった。
しかしワーグナーは本当に奇妙な物語を書いたものだ。
愛とか恋とかではなくてドロドロした権力欲、策略、およそ美しいとは言えないテーマ。
この権力に関するテーマの物語のせいか?去年のパフジルァルの時より現役の仕事人が観客に多かった気がする。

演出はパルジファルのクプファーみたいにとんがっていない。その分わかりやすい。
でも最初にアルベリヒがトボトボと歩いて出てくるのはなかなか効果的だった。
効果的だったのは、素人目にからは最後の場面のエルダが出てくるところ。時間が止まったみたいなシーンはわかっていても、納得できる。

それにしても、ライトモチーフは本当に効果的。いろんなモチーフが耳慣れているが歌詞を見なくても雰囲気がわかるのはありがたい。

アンコールの拍手が多かったのはローゲ役。これはヴォータンよりは美味しい役かも。影の主役みたいでハリーポッターのスネイプみたいなもの?

演奏は音色に繊細さデリケートさは感じられなかったが、ヴァーグナー愛に満ちた音楽で、これもあり!といったところ。

これは新幹線の中で仕上げてる。
ビールも飲んでいい気持ち。
忘れないうちに気ままな独断、最高の時間かもしれない。

ヴァーグナーは大袈裟で嘘っぽくても、なんか凄い。
指輪は死ぬまでに全部見ることにしようと思ったりした。
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「ラインの黄金」予習

2015年09月14日 10時05分34秒 | 音楽

いったい何回ヴァーグナーの「ラインの黄金」を聴いただろうか
3枚組レコードの最初と最後は何度か聴いたことがある
しかし、途中、特に3面以降は歌詞と照らし合わせながら聴くのが
面倒でそんなに聴いていない 

今回、10月の国立歌劇場の上演に合わせて予習を兼ねて
我慢しながら歌詞と照らし合わせながら聴いてみた
(カラヤン盤のレコードの解説書をみながらフルトヴェングラーとの演奏で) 

「ラインの黄金」は神話の物語で妙なストーリーだ
ラインの乙女から奪った黄金で作った指輪が
世界を支配しうる能力をもつ
というのは、どこからの発想かヴァーグナー自身の発想か
専門家ではないので分からないが、
「愛を諦めたものが手にすることができる」のアイデア・位置づけはなかなかのもの
この指輪がとんでもない力を持つのは、トルーキンの指輪物語でもおなじみだが
ヨーロッパでは割合ありふれたパターンなのだろうか

歌詞を追っていくとなかなかおもしろい
ワルハラ城を巨人に作らせたのはヴォータンだが
その報酬としてフライア(生命の女神)を与えようとする
しかし、姉のヴォータンの妻 フリッカが横槍を入れる
最初から巨人にフライアを渡すつもりなどなかったヴォータンは
火の神ローゲと策略を用いて、愛を諦めたアルベリヒが作り上げた
指輪を奪ってフライアの代わりに渡すことになる
しかし、指輪にはアルベリヒから奪った時点で呪いがかけられており
巨人に渡されると兄弟げんかをして、片方が他方を殺してしまう

ヴァーグナーはなんとまあ奇妙な話を考えたものだ
そしてこの神話的な話が、現在では演劇的に解釈されて
実生活の幾つかの状況になぞらえられているし
そのように拡大解釈をしたがる人の気持ちも何となく分かる
 

今回聞いていて興味深い人物(神)はローゲ
人間性の深い洞察力とひねくれた発想と策略
もしかしたらジークフリート、ブリュンヒルデ、ヴォータンに隠れた
影の主役なのかもしれない

とここまではストーリーを主体の話
音楽は前夜祭と名付けられた出しもので続く作品にも
効果的に使われるライトモチーフがお披露目
解説書の歌詞がどこだったのか見失った時、このライトモチーフは
場面を探すのに役に立つ 

フルトヴェングラーの演奏はイタリアのオーケストラなので
ノリはいいかもしれないが金管の音色に少し違和感がある
こんな面倒な話(音楽)はもう一生聴くことはないかもしれないので
今回の機会を大切にしなくては、、

音楽を聞かずにストーリーだけを一回追ってみようか
そういえば、ニーベルングの指輪の漫画があった
こちらのほうがわかりやすいかも知れない
でも、漫画喫茶にはなさそうかな、、(自分で買うきにはなれない)
 

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カインド・オブ・ブルーのB面

2015年09月06日 07時21分38秒 | 音楽

あの時代の妙に熱っぽい雰囲気を追体験したくて
読み始めた桐野夏生の「抱く女」
この中にカインド・オブ・ブルーのA面をリクエストする人のことが
少しだけ書かれていた

カインド・オブ・ブルー ジャズの中の名盤中の名盤とされるアルバム
自分もそんな評判に誘われて随分昔購入した

まずはA面から聴き始める
しかし、その印象は全然良くない 
何か評判とは違ってつまらない 
それどころか、もうやめ!と途中で針を上げてしまうほど

それでも、あの時の自分の調子や感性が変だったのかもしれないと思い
その後数回にわたって聴こうとしたがやはり挫折
この有名なアルバムはしばらくひっそりとレコード棚に収納されたまま

ところがある時不意に思い立ってB面も聞かないともったいない 
と引っ張りだして聴いてみた
聴いたといっても期待していなかったので何かしながらのながら族だったが
これが意外や意外、何かしているにもかかわらず耳は音楽の方に
ついつい惹き込まれていく
それはライブ会場で感じられる張り詰めた緊張感のある
それでいてお酒によったような雰囲気が感じられた

これは!
それでながら族はやめて真面目に聴いてみると
いいじゃやん!

その後、自分にとってのカインド・オブ・ブルーはB面の音楽
依然としてA面は聴かない
なんでかな、などと考えることもしない
とにかく自分はB面のほうが好きだし心地よいということ
(個人がどう思おうと、どうでもいいことだけど) 

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音量と迫力

2015年09月06日 06時20分41秒 | 音楽

音楽を楽しむのは家でのオーディオを前にして
すぐ近くに家が接していないとはいえ
大きなボリュームで聴くことははばかられる
特に夏は窓をあけっぱなしにするので音が漏れやすい

そこで、どうしても音量は絞り勝ちになる
ところが一昨年、ポール・マッカートニーの東京ドーム公演を
見に(聞きに)行った時は自分が滅多に聴くことのない音量だった
3塁側内野の中段であの音量だったから前の人はもっと鼓膜に大変だったと思う
ただ、それがやかましかったかと言えばそうではなくて
迫力があった印象に落ち着く

ポール・マッカートニーは軽いポップスソングの音楽家と言われることがあるが
あの時、エネルギーに満ちたロック音楽というのはこういうものなのか
感じたりした
そしてポール・マッカートニーが「ロックは最高!」的な発言をするときは
あの音量を前提とした音楽のことなのだと思ったりする

あの時、感じたことは今でも覚えているが
音量は当たり前だが迫力に大きな影響を与える
大きければ迫力があるとばかりは言えないが、充実した音楽は
特にこの手の音楽はそれなりの音量は必要だなということ

それともう一つ、体格のよい欧米人の年齢の重ね方は
日本的な「枯れる」といったものではなく
相変わらずエネルギッシュなままをよしとするのではないか

ラ・フォル・ジュルネでベートーヴェンのミサ・ソレムニスを聴いた時も
ベートーヴェンは年令を重ねても全然枯れていない
晩年に作曲されたあの音楽は相変わらずエネルギーに満ちて
まるでルーベンスの筋骨隆々の男性像を思わせるようなグラマラスな印象だった
日本人の好きな(?)「枯れた」と言う思い込みで後期のピアノソナタを聴いたりすると
少し間違った解釈・感想を持ってしまうかもしれない
もっとも、どう感じようが本人の好き好きだが

ということで、家で音楽を聴くときはそれなりの音量は必要
ということなのだが、部屋に防音機能がついているわけでもなし
やっぱり常識的な音量にしなければならない

イヤホンを使えば迫力もニュアンスも格段と良いものを
得ることができるが、どうも自分は空気を震わせて
多少の距離を伝わってくる過程がないとどこか邪道のような気がして
気が進まない
(ま、どうでもいいことだけれど) 


 

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フルトヴェングラーの「ラインの黄金」と「ワルキューレ」

2015年09月02日 09時41分33秒 | 音楽

東京のデモ参加に出かけたついでに立ち寄ったのが
ディスクユニオンお茶の水店
開店が11時 (東京の店はなんでこんなに開店が遅いのだろう)

今回はあれこれ迷わずフルトヴェングラーがらみのレコードを
そこで見つけたのが、ニーベルングの指環のうちの
「ラインの黄金」と「ワルキューレ」

このシリーズの「神々の黄昏」は所有している
(しかし、通して聴いた記憶はない ただジークフリートの葬送行進曲のあたりが
 やけに切実だった印象はある)

購入したものの、気合を入れて聴かないと面白くないので少し時間を置いたが
やっと聴いてみようかという気になって「ワルキューレ」の方から

ワルキューレはCDで晩年のウィーンフィルと録音したものを持っているが
CD音源のせいかイマイチ感動した記憶が無い
同時期のトリスタンは圧倒的に良いのに(レコードの方の話だが)

オーケストラはローマ・イタリア放送響らしい
海外盤なので詳しい情報はわからない

冒頭の嵐の部分、イタリアのオーケストラと言うよりは
フルトヴェングラーの音
想像以上にクリアだったし、表情が豊か
もっとも別の部分で音量が大きくなるとちょっと明るすぎる音色が感じられたが
ソロ楽器が奏でるメロディーはノリの良さを感じさせる

フルトヴェングラーの指揮は緩急が激しくて演奏者は大変だ
と言った印象があるが、これを聞いていて思ったのが
歌う人は歌いやすいんだろうな
ということ、イメージとは違って言葉がしっかりと伝わってくる

あの有名なショルティの録音のワルキューレより言葉としての
伝わり方は何故か強い
そういえばフルトヴェングラーの「ドン・ジョバンニ」の録音を聴いた時も
同じような印象を持った
ベームのドン・ジョバンニよりは人が演ずる人物としての存在感が
ずっとリアリティがあって言葉が伝わってくる

このレコードは海外版なので台本はあっても外国語
真面目に向かうときは、以前に購入したレコードについている台本の訳を
借りることにするが、今回は勢いで音楽だけに集中
一幕はだいたい内容は知っているので言葉がわからなくても
それほど影響はない

言葉を気にしない分だけライトモチーフの活用、効果が耳に残る
なるほど、ヴァーグナーのセンスは大したものだ(自分が偉そうに言うのは変だが)

指輪はいろんなライトモチーフが出てくるが記憶に残り格好いいのは
シークフリートのモチーフ
第3幕のブリュンヒルデが炎の中に横たわって、それを救い出すのが
ジークフリートであると暗示させる時のあの場面で奏されるモチーフ
わかっていてもゾクッとする

ワルハラとかヴォータン、ジークムント、ジークリンデ、
ローゲや剣のライトモチーフも覚えてしまうと楽しみは深くなるのだろうけど
なかなか対訳をみながら長時間集中するのは難しい
それこそ気合が入った時だけ

このレコードの一幕は気に入ったので
次を聴いてみようかと今は思っている

でもその前に「ラインの黄金」
10月4日の国立歌劇場での上演の予習をしなくては
(聴きすぎて実演がつまらなく感じるようなことがなければいいのだが) 

 


 

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