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パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

イースターとパルジファル

2017年04月16日 09時46分38秒 | 音楽

最近では日本でもイースターを流行化させようとしているらしい
もちろん宗教的な意味ではなく、商業的な意味で
イースターエッグ、うさぎとか、その他もろもろのアイテムが
なんとなく可愛らしいのできっと商売になると考えてのことだろう

イースターは
「春分のあとの最初の満月から数えて最初の日曜日」
と定義されていて、今年は4月16日(日)

このイースターについては、わかりやすい解説は⇒こちら

一昨年、この時期に足を伸ばしたウィーンのホテルで出迎えてくれたのが


イースターエッグ
日本の旅館のちょっとしたお出迎えのお菓子みたいなものだろうか

キリスト教徒でもない自分が、敢えてこの時期に足を伸ばしたのかと言えば
イースターの時期に上演されるヴァーグナーの「パルジファル」を見たかったから

「パルジファル」はあの長大な「ニーベルングの指環」を作曲したリヒャルト・ワーグナーの最後の楽劇で
無垢な同情するという感覚をもった青年が、人を救うという、少しメルヘンチックな物語
この音楽の響きが刺激的でなくて、聴いててとても気持ちよくて、指環やトリスタンよりも好きだった

このパルジファルを初めて体験できたのは、無謀なドイツ一人旅を企てた若い頃
それも本家本元のバイロイトで、偶然のきっかけで見られた
その時土産に購入した写真が、これ

 

ここまでは、自慢話も混じえた前書きで、本当の話題はここから

イースターにはヨーロッパでは、バッハのマタイ受難曲や
このヴァーグナーのパルジファルが上演されることが多いそうだ
バッハの「マタイ受難曲」は確かに名曲で、人類の宝物としてとても大切なものだけれど
だからといって、自分にとってはそう何回も聴く気になれない曲
内容が真面目すぎて、深すぎて、こちらの気力が充実していないと
まず聴く気になれない(その気になって聴いた時は半端じゃない感動を得ることが出来る)

一方、ヴァーグナーのパルジファルは楽劇で動きがあるだけ(自分にとって)退屈にならないし
その響きも、また上演から得た感想や解釈も自由で、いろんな想像をするのが楽しい
ところが問題はここからで、最近のオペラというのは演出至上主義のようで
「台本の読み替え」による演出が主流となっている
1976年のバイロイト音楽祭100周年でシェローが指環で、モーニングを着たヴォータンを
登場させて、現代の物語として示唆に富んだ(考えさせる)演出が示されて以来
その方向での演出が当たり前のようになっている(らしい)

これはよくオペラを見て比較対象できる人々にはよいが
たまにというが、ほとんどオペラを見る機会のない者にとってはかなりしんどい
正直なところ、そんなに考えさせられなくていいから、もっとありのままの
原作に近い演出をやってほしい、、というのが本音だ

指環が現代に通じる物語だったとしても、それは見終わったこちらが
頭のなかで、「現代にも流用出来るな」と勝手に想像するから
上演はオーソドックスな形にしてほしい 
それがめったに体験できないファンの希望

パルジファルは結局、バイロイト、東京上野の文化会館(20年位前?)、そして新国立劇場、
そして一昨年のウィーン国立歌劇場で体験したが、
その記憶に残っていることと言えば
バイロイトはオーソドックスな演出(宗教的な雰囲気に富んでいて終了後拍手は出来ない雰囲気)
上野の文化会館は病人の夢の中の物語
新国立は、(読み替えでもなかなか面白かったが)仏教徒が出てきて
何かよくわからんが、面白かったという印象
そしてウィーンは、よくわからん!
特に上野の文化会館やウィーンのような読み替えの演出は、気持ちと外れると
なかなか上演中も気分を持ち直すことが難しく楽しめないことになってしまう
そんなことなら、当たりハズレのないように原作に近い演出を、、、
とめったに見る機会のない人間は希望してしまう 

ところで、6月は自分にとってヴァーグナー月間
6月7日に新国立で飯守泰次郎さんの仕切る「ジークフリート」
6月11日は愛知祝祭オーケストラによる演奏会形式の「ワルキューレ」
楽しみ、、

出来ることなら、あまり突飛な演出は、、、避けてほしいのだが、、、 


 

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津軽三味線の音楽

2017年03月20日 09時22分42秒 | 音楽

昨日新城市のお寺さんの本堂で津軽三味線のコンサートが行われた

今まで津軽三味線の生の音は聴いたことがなかった
ところが偶然、昨日は2つ続けてまとめて聴ける機会を得た
この画像のコンサートに遡ること3時間前、新城市設楽原歴史資料館で 
「ふみの蔵コンサート」と題する催しで津軽三味線のコンサートが催された

初めて聞く津軽三味線の音はなかなか迫力があった
まるで打楽器のような印象
豊橋にある雅会という津軽三味線のグループの若いメンバーから(小学生)
お年寄り、そしてこの地区の勉強を始めたばかりのメンバーまで
本格的なものやら昭和歌謡をアレンジしたものやら
聴きに来た人を飽きさせない工夫がされたコンサートだった

そこで少し変なことを考えた
津軽三味線の演奏で盛り上がるのは超絶技巧的なところで
左の指と右のバチのその素早さがアクロバチックで、音もさることながら
見ていてもなかなか動かされるものがある
しかし、音楽の迫力とはスピード感とか音量とかそれだけなものか
もしかしたら津軽三味線で一番難しいのはのんびりしたフレーズを
人が感動するような演奏をするのことではないかと思ったりした

そんなことを思いながら、結果的に予習した状態で夕方のコンサートに臨んだ
夕方は黒澤博幸さん一人で、歌も歌いながら進められた
昼間と違っている点があった
それは音量の点、むやみに大きな音ではなかった
そして楽器のせいかどうかはわからないが、こちらのほうが良い音
(潤いのある艶やかな)音だった

そこで先程の迫力という話に繋がるが、黒澤さんの民謡を歌いながらの演奏は
その伴奏がまとわりつくような、絡むような、雄弁という言葉以外にない
一種の迫力のあるものだった
もともと津軽三味線は慰霊のためにもので、基本的には歌と絡むようだが
強く納得する
そしてこの伴奏の雄弁な絡み具合は、シューマンとかヴォルフの歌曲の
ピアノ伴奏を彷彿とさせる
時代や地域が違っても音楽的な効果の狙い方とか美しさの観点は
似たようなのかもしれないとつくづく感じる

歌のない時の演奏は、もともと目の見えない方の音楽で基本は即興
同じものが二度と無い点でジャズに似ていると演奏の合間に解説された
確かに、ジャズと似た印象を聴いていてもった
そしてそのフレーズは自分が日本人なのでジャズの横に流れるフレーズよりも
予想しやすくしっくりした

だがまた変な事を考えた
この即興はとても自由で何でもありで無限の可能性があるように見えても
実は人間には癖とか傾向があっていつか新鮮と思ったフレーズも
以前やったことの繰り返し、マンネリに落ち着いてしまわないか
もちろん同じようなフレーズや癖も、演奏する場所や時間が違うから
同じものとは言えないが、それでも演奏している本人がマンネリを自覚してしまうのではないか
キース・ジャレットがソロコンサートを行い世界的に評判になった時
しばらくはその溢れ出る発想に驚いたが、徐々に慣れ(世間の)と自分自身へのマンネリ(?)で
スランプになったような気がするが、この人たちも同じようなことはないのだろうか

とまあ、聴きながら頭に浮かんだことの妄想
こうした毒にも薬にもならないどうでも良いことが、ポッと頭に浮かぶ事の楽しさ
これは生ならではの出来事 
やっぱり生は良い、普段続かない集中も出来るし、、、
 

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敢えて「予習なし!」としよう(ブルックナー8番のコンサート)

2017年03月16日 20時43分13秒 | 音楽

今週の土曜日(3月18日)久しぶりにオーケストラを聴きに行く
会場は名古屋芸術劇場コンサートホール
名フィルの444回定期公演でプログラムはブルックナーの交響曲8番 ハ短調の一曲だけ

久しぶりということもあるが、とても楽しみだ
これまでにこの曲はズービン・メータ イスラエル・フィル
ギュンター・ヴァントと北ドイツ放送交響楽団
朝比奈隆と大阪フィルの組み合わせで聞いており
そのどれもが感動している 

その記憶は今でも呼び起こす事ができるが、今のところハズレのないプログラムとなっている
(大好きな曲 特に第3楽章が)

ところで、今までならレコードなりCDを引っ張り出して予習をするところだが
今は無理してでも聴かないようにしている
(聴き込んで他と)比較する楽しみよりは、その時流れている音楽が与える印象を
体全体で新鮮に感じるほうが得なような、そうしないともったいないような気がするからだ
そのためには気持ちとコンディションを整えておかねば、、、

会場はプログラムがブルックナーだから男ばっかりだろうな、きっと

 

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最後まで聴けない演奏

2017年02月16日 09時23分58秒 | 音楽

どうでもいい話!

それほど音楽(演奏)に好き嫌いがある方ではないが(?)
不思議と最後まで聴けないクラシック音楽の演奏(CD・レコード)がある
相性が悪いということになるのだろうけれど、
筆頭は自分と割合似たような思いを持つことの多い人であるアーノンクール
個性的なんだけどゴツゴツしてて(自分は)楽しめない
世間評価は高いけれど、、

次はマレイ・ペライア
昔、通勤時間にしばしばNHKのFMでモーツアルトのピアノ音楽を聞くことがあった
多くは途中から聞く事になって演奏者が誰かわからない状態で
耳を傾けるのだが、「何か嫌だな」とか「この音色は好きじゃない」
と感じて、その曲が終わって紹介された演奏者がマレイ・ペライアだった
これが偶然の一回だけのことかとかといえば、どうもそうではなくて
何度も同じように感じたりする
マレイ・ペライアはモーツアルトの演奏で当時評価されていたけど
どうも相性が良くない

相性が良くないピアニストはアシュケナージ
たっぷりと響く音で、それなりにきれいそうな音なんだが
どうも気持ちがフィットしない
生で聞いたこともあったが、ピアノと対話するよりもピアノを壊すような
感じの印象が記憶に残っている
この人の演奏もFMで途中から聞いていると、何か合わない、、
と思うことがたびたびだ

何か昔の演奏家ばかりだが、最近CDの購入はほとんどしていないからで
録音された音楽を楽しむ手段としてはレコードばかりを聴いているからだ
CDの実験室で録音されたような一見スッキリした音も、何か不自然に思えて
ズシンと響くレコードの音のほうが好ましくなっている
当然今はレコードで発売される新譜はなくて、
(ベルリン・フィル、ラトルの指揮でブラームスのレコードが出た(出る)ようだが
 価格が高すぎて手がでない)
古いものばかりとなる

古いものついでにもう一人相性が良くないのが、日本ではそれなりの評価のカール・ベーム
どうもこの人とは合わない
一番最初に手にしたブラームスの一番のレコードも合わなくて(合わないのが演奏か曲かわからないが)
同級生に譲ってしまった
その後、モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」のレコードもすすんで聴けないでいるし
ポリーニとのモーツアルトの協奏曲(19番・23番)もずっと棚に収納されているだけの状態
ベートーヴェンの序曲集のレコードも楽しめないでいて、
ここまで来ると、相性が良くないと確信せざるを得ない

上記三人は時々偏見を直そうと最後まで聴くようにトライするが
我慢できなくなって止めてしまうことが多い 

しかし、なんで合わないのか?と考えるとそれがよくわからない
(もっとも真剣に考えたことなどないけれど)
とにかく世の中にはそういう存在があるということだけは実感する

ところで合わない人ばかり挙げたが、日本の評価は低いかもしれないが
自分が意外と相性がいいと感じるのが
指揮者ではハイティンク(この人のブルックナーの8番 コンセルトヘボウは最高だ)
ピアニストはクラウディオ・アラウ(懐の深い人間性に満ちた音が好きだな)

それにしても、音色の好き嫌いとか、演奏の好き嫌いのあること、不思議だ
なぜ最後まで我慢できないのだろう? 


 


 

 

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何度も聴く曲

2017年02月11日 08時54分25秒 | 音楽

クラシック音楽が好きだ
別に高尚だとは思っていないし、サッカーやプロレスのパフォーマンスを
楽しむのとさほど違いはないと思っている

ただし楽しむには若干のコツが必要で(何ごともそうだけど)
コツを覚えるのには、偶然のきっかけとか時間が不可欠かもしれない
たまたま自分の場合は、あるクラシック音楽を聴いて
とてつもなく圧倒された事があり、それを何度も体験したくて
聴いてるうちに楽しむコツを覚えた、みたいなものだ

ところが好きだからと言って何度も聴けない曲がある
偉大な曲「第九」や「マタイ受難曲」などはシーズンになると
演奏会プログラムにあがる
しかし、自分に限ってはこれらの曲の演奏を「聴き比べる」という
楽しみ方はどうも出来ないでいる
それは前に聴いた時に「もう一生分の聴き方をした」と感じられるような
経験をしているからだ
偏っているがフルトヴェングラーの第九、リヒターのマタイ
もうそれだけでお腹はいっぱいになっている、、みたいなものだ

ところが大曲の中でも何度でも聞きたい曲は存在する
しかも過去に感動してお腹いっぱいと感じる曲なのに
もう一回聴いてみたい、、自然とそんな風に思える曲がある

それらの曲をツラツラと拾い出してみると、今更ながら
あろことに気づいた
それはモーツァルトとブルックナーに偏っているということだ
何度も聴きたい曲、それは二人の音楽
そしてそれに共通するのは、
多分、彼らの音楽が人生観とか生き方とかはあまり関係ないところで
音楽、音自体に楽しめる要素があるということではないかと想像する

ふたりとも何かを強要するわけじゃない
感じる人が感じればいい、、まるでそんなふうな装い

ということで、聴きたい曲であるブルックナー
3月に名フィルで八番のコンサートがありチケット購入済み
今までメータ、ヴァント、朝比奈、と全部それなりに楽しめて外れなし
だったので今回も期待できそう

土曜の朝、毒にも薬にもならないお話、、、

 

 

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フルトヴェングラーの音色

2017年01月11日 19時51分27秒 | 音楽

なんの根拠もない、ただそう感じるというだけの話

先日のNHKテレビの「旅するドイツ語」にかつてウィーンの三羽烏
と言われたうちの一人、パウル・バドゥラ・スコダが出演していて
そのインタビューの話の中にフルトヴェングラーの思い出が
語られていた

カラヤンの前のベルリン・フィルの常任指揮者であるフルトヴェングラーは
もはや伝説的な存在となっており、その音楽を聴いた人たちからは
それこそいろんな表現で演奏の強烈な印象の言葉が発せられる

このパウル・バドゥラ・スコダの話もそのうちのひとつで
指揮が始まる前から(音楽が始める前から)すばらしいことが起きる
という予感に満ちて、実際にその音は決して忘れることが出来ない
と述べられていた

フルトヴェングラーの演奏を語る時にいつも取り上げられるのが
テンポの変化、即興的に速くなったり遅くなったり、そして休止の効果
弱音の緊張感とフォルテのものすごい迫力(音量だけではない)

しかし、最近は実は音色も独特なのではないか
と思うようになった
と言っても録音されたレコードやCDで聴いているときの印象や
感想に過ぎないのだが

ウィーン・フィルのときもベルリン・フィルのときも
重心が重いどっしりした音には変わりない
ただそれでも2つのオーケストラの音色は違う
少しウィーンの方が輝きというか明るさというか
そういったものを感じる
ベルリン・フィルの尖ったところのない柔らかな
音色もとても魅力的だ 

録音が違うと言ってしまえばそれまでだが
同じウィーン・フィルやベルリン・フィルでもカラヤンや
ラトルとは随分音が違う
ラトルは時代が違いすぎるから比較にはならないかもしれないが
比較的近い時代のベームの録音でもやはり音は違う

例えばベームのエグモントとフルトヴェングラーのエグモントは
冒頭から音色が全然違う
それは劇的な効果のある音と言うよりは
音色自体がとても特別なものに感じられてしまう

フルトヴェングラーはメンデルスゾーンヴァイオリン協奏曲でも
冒頭の音色はとても魅力的だし
トリスタンとイゾルデの全曲盤もベルリン・フィルではないが
他の人では絶対出せないような音色で濃厚なロマンティシズムを感じさせる

ベートーヴェンのあの第九でも3楽章のファンファーレのあとの寂寥感(1回目)や
荘厳さ(2回目)は 、他の人では感じることの出来ない音楽になっているし
シューベルトのグレイトでも第二楽章の転調するところの微妙さは
ものすごい効果的だが、これらを支えているのが音色のような気がする

昔「フルトヴェングラーかカラヤンか」という本で
テーリヒェンというティンパニ奏者が書いた文章の中に
フルトヴェングラー以外の人が指揮していた音楽の音色が
彼(フルトヴェングラー)の姿がそこに見えるようになっただけで
劇的に変わったというところがあった

やっぱり、人の存在によって音色は変わるんだ
物理的にはスコアの中のどの音を大事に扱うか
と言ったことに収斂されるかもしれないが
それでもここには人間の行うことの不思議さが
当たり前のように存在する 

それにしても、音色は別にしても何かを感じる人は
フルトヴェングラーの演奏を聴いて
何か巨大なもの(体験)がやってくる
との印象を持つようだ

しかし、最近の録音された音楽の音色(の傾向)を思うと
フルトヴェングラーの音色は、あの時代だったから出た
音色だったのだろうかとも思う
時代が音色や音楽の質を求めているとしたら
現代はもはやあのような切実な何かが詰まったような音は
求めることが出来ないのだろうか
いや、そもそも今はそれほどの切実感をもって
音楽を求めたりはしていないのかもしれない
それを思うと、現代は本当に豊かな時代か
と考えてしまう 

 


 

 

 

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ブルックナーの4・8番をオルガンの演奏で聴く

2017年01月07日 08時54分53秒 | 音楽

一番嫌いなクラシックの作曲家として
堂々一番の位置を占めるのがブルックナーだそうだ
(NHKのTV番組で放送された) 

ところが、自分はその反対でブルックナーは
大好きな作曲家の部類に入る 
最近は徐々にレコードやCDで聞く音楽が
昔のように雑食系ではなく定番化しつつあるが
モーツァルト・ベートーヴェン・ブルックナー、
それにここ2.3年はヴァーグナー でそれで特に不満はない

ブルックナーは交響曲の作曲家で、ものの本によると
オルガン的発想で曲を書いたとされている
オルガン的発想とは何か?
そこで数年前に手にしたのがこのCD

壮大な8番の交響曲と、ポピュラーな「ロマンティック」の名がある4番の交響曲を
オルガン用に編曲して演奏されたものだ

これらを聴くとオルガン的発想から、、、の言葉の意味がよく分かる
確かに音楽的な効果はオルガンのそれを前提としているようだ
しかし、一番残念なのはオルガンの(教会全体に)
響きわたる音が我が家の再生装置では再現できないことだ
音量はフォルテで大きくなる、
しかし、音が空間を満たす感覚はどうしても無理がある
これは多分どんな良い装置をもってしても無理なのではないか
と思ったりする

そこで、実現されない夢(希望)とも思うが
オルガンを備えたコンサートホールでブルックナーの
交響曲をオルガンで演奏するプログラムがないものか

これは個人的には興味深くて面白いと思うが
市場性という見地からは、多分とても無理だろうな
なにしろ一番嫌いな作曲家ときているから

大好きなブルックナーでは他にも聴きたいものが2つある
ひとつは8番の初稿版(シモーネ・ヤングとかインバルのやったもの)
そしてもう一つは9番のフィナーレ(ラトルが録音したもの)
でも、これもあまり可能性はないか
大都市東京なら少しは可能性があるかもしれないが
ポール・マッカートニーのライブも飛ばされてしまう中部圏では
とても無理かな

でも、誰かやってくれないかな!


 

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今年の聴き始めの曲

2017年01月01日 11時16分02秒 | 音楽

近くの神社へ初詣も済んだ
一段落したところで音楽に向かう気持ちになったが
年始めは選曲に慎重になる

一年の計は元旦にあり! 
の言葉に影響を受けているせいか、最初が楽しめないと
その年一年がつまらなくなりそうで、、

少し前から聞き始めの曲は考えていた
今年はバッハのロ短調ミサから「サンクトゥス」を聴こうと
壮大なスケールの音楽で昂揚感がある
いつもはカール・リヒターを選ぶが今年はクレンペラーを選んだ

幸先は良し!
という印象でこれを聴いている間、次の曲を選んでいた
(カラオケの歌選びみたい)
次はベートーヴェンのミサ・ソレムニスから「グローリア」
これもエネルギーに満ちた曲で、最後のコーラスだけの終わり方が
ものすごく効果的だ
選んだCDがエリオット・ガードナーのものだったが
ちょっと外した感じで全体的なエネルギー感が足りない

次はグローリアを聴いている時に決めた
ブルックナーのテ・デウムだ
自分はクリスチャンではないが、肯定的に神を称える音楽は
とても肉体的快感を覚える
ブルックナーのこれはロックを大音量を聞く時の快感に似ているかもしれない
演奏はブルックナーに定評のあるヨッフムのもの

ということで、聞き始めの儀式は終了
今年は良い音楽体験ができそう、、、
(と思いたい)

 

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第九のシーズンだが

2016年12月24日 10時19分58秒 | 音楽

海外ではこのシーズンはチャイコフスキーのくるみ割り人形や
モーツァルトの歌劇「魔笛」が演奏されることが多いようだが
日本では圧倒的にベートーヴェンの第九 

音楽好きの立場からすると当然演奏会には行かなくても
CD・レコードで聴くのが普通なのだろうが
これがなかなか出来ない

この音楽はそんなに気楽に対面してはいけないような気がしている
気合が入って気分的にも盛り上がったときにしか
その音楽の深いところを感じ取ることが出来ない気がしてならない

確かにベートーヴェンの音楽は多少押し付けがましいところがある
それを感覚的に拒否しているのかもしれない
が、多分こちらのほうが本当の理由だと思うが、もうひとつの理由は
「聴いて感動しなかったら怖い」ということだ

聴いて感動しなかった怖い
これは以前にいつまでも記憶に残っている圧倒的な印象をもたらした
演奏を聴いてしまったからだ
それは音楽を聴いているという言葉では収まらない、まるで人生における
直接体験した事件のように感じられたからだ
明らかに聴く前と聴いた後の自分に変化が感じられるような 
そんなことを思わせる演奏だった

その演奏とは知る人ぞ知るフルトヴェングラーの
バイロイト祝祭管弦楽団による演奏
定番中の定番だ 

これを聴いた時の印象や感動が強すぎるため
新しく聴く演奏との比較でここが物足りないとか、ここが違う とか
ついつい言ってしまいそうで、その結果楽しめなくなりうそうというわけだ

第九の演奏は、もうあの演奏を聴いて心のなかに残っているだけで
一生分の経験はしたのかもしれない

あの演奏を聞聴いたのは若いときだった
それが今でも記憶に残っている
リヒターのバッハのマタイ受難曲でも同じ様な経験があった
音楽を聴いているのだが目前でキリストの受難を見ているような錯覚を覚え、
喉がかわいて仕方なかった

あれも若いときのこと
そう言えば最近はそんなに切実な体験のような演奏は耳にしていない
それは最近の演奏者の表現するものによるものか
それとも自分の感覚の鈍化のせいか、、

後者は認めたくないが、、、かも知れない

毒にも薬にもならない話!
 

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詩(哲学)と長編小説(ブルックナーとマーラー)

2016年12月01日 08時52分33秒 | 音楽

毒にも薬にもならないどうでもいい話

音楽の後期ロマン派の作曲家にブルックナーとマーラーがいる
ふたりとも大きなオーケストラ構成の長大な交響曲を書いた 
年齢はブルックナーの方がだいぶ上だが
一時期は一括りにされて扱われた

残された写真を見るとマーラーの神経質そうなイケメン風な顔に比べて
ブルックナーはかわいそうなくらい田舎の親父っぽい
風貌だけでは絶対興味を持つ対象にはならない

でも自分はこの田舎の垢抜けないブルックナーが大好きだ
彼との付き合いは高校生の時、何ヶ月に一度レコードを買える時
町のレコード店でマーラーの巨人とブルックナーの9番を
聴かさせてもらたときからだ
財布の事情でどちらかを選ばなければならなかったが
冒頭の数分の試聴で自分はブルックナーを選んだ
何かよくわからないが、深い響きが、体全体を包み込むような響きが心地よかった

それからずっと長い付き合いだ
後期ロマン派と一括りされるこの2人
多分納得する人は少ない(いない)と思うが、自分は
ブルックナーの音楽は詩、または哲学で、マーラーのそれは
長編小説のように思えてならない

一見、どこに向かうかわからないような音を鳴らし放しに思える
ブルックナーの音楽も、慣れてくると不思議に見通しが良くて
それなりのまとまりがあるようにとさえ思えてくる
一方マーラーは、長編小説だから最後まで読まないとよくわからないような
そんな面がある

この2人、当たり前といえば当たり前だが
表現したい内容が(関心が)全然違う
聴きやすいところではマーラーの5番のアダージェット
映画音楽にも使われた耽美的な曲と
ブルックナーの7番の第2楽章は、これらを聞いて結果的に
自分の中に作られる世界が大きく異る
マーラーの場合はあくまでも音を聴いている、客観的な自分を感じる
(バーンスタインの入神の演奏であったとしても)
しかしブルックナーの場合はときに自分が音になったような
その響きの中にいるような気さえする

と個人的な印象だが
彼らの最後の交響曲となったアダージョの楽章を聴き比べると
興味深い
まずはマーラー

この曲を聴くと自分はいつもヨーロッパの(多分文化の)終焉を感じてしまう

今まで作り上げてきた壮大な体系としての文化の終焉
そんなものを思い浮かべる

次にブルックナー

なにか具体的でない訳のわからないものを、それは個人的なものに過ぎないかもしれないが
それでも多分人の心の中に存在する何かを刺激するような、、 
そしてこの楽章の沈潜した第二主題が、年齢とともに益々愛おしくなっていく

ブルックナーは嫌いな作曲家の一番に挙げられる事が多いようだ
ブルックナー信者の自分は、なぜこんなに豊かな世界を嫌うのか
さっぱり分からないが、それは人それぞれだから、、、仕方ないか

ところで、上の動画長いので全部聞くのはしんどいけど
最初の数分だけでも聴くことをお勧めします
はたしてどちらが気に入るか?

(ブルックナーと言って欲しいけど、、、)

 

 


 

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