小さな旅、大きな旅の写真物語(Virtual trips/travels)

京都や東京を本拠地として、自然の中や町を歩きながら、撮った写真をどんどん掲載します。いっしょに歩いているように。

Newアート考察 その1 <奄美の田中一村と後期印象派>そして奄美のFujifilm GFX50S -1

2019-03-01 22:10:12 | 日記
Newアート考察 その1 <奄美の田中一村と後期印象派>そして奄美のFujifilm GFX50S -1

以下の文は以前書いた同じタイトルのブログのリニューアル版です。田中一村および印象派の画家たちの絵を小さくして、数を削減し、最小限として本文の言わんとすることをサポートする<引用>の位置づけであることを明確にしました。おかげで、ご覧になる方は絵が小さくて何だかわからないことになり、申し訳ない。

当方は大学の先生ではありませんが、30年以上研究者であり、2年に1報は世界レベルの科学雑誌に研究論文を投稿してきました。論文は引用文献がとても重要な位置を占めます。これがなければ論文は成り立ちません。ネットにおける<引用>のルールがどうもはっきりしません。Newアート考察もこれでいいのだろうか心配です。リスクばかりあって何の得にもならないからやめちまおうかと今でも迷っています。しかし、考えることは、当方の生きていることそのものなのです。死ぬまで考え続けて、それを表現したい。

2019-1-15~1-18
予約が遅れ、奄美大島到着の日が田中一村美術館の田中一村生誕110年記念特別企画展の最終日になってしまいました。一度は田中一村が晩年、描いた絵がどのような環境で描かれたのか知りたい。生誕110年特別企画展をチャンスとして、奄美大島を訪ねよう。

・田中一村が晩年、描いた絵がどのような環境で描かれたのか知りたい。
・田中一村になったつもりで、奄美大島の海をFujifilm GFX50S中盤カメラで撮ってみたい。
この2つの目的で奄美大島へ飛びました。これが初めての奄美大島です。

田中一村特別企画展の最終日になんとか滑り込んで、田中一村を十分に見ることが出来ました。しかし、3泊4日のうち3日間は曇ったり雨が降ったりで最終日の飛行機に乗る前、半日しか日が当たりませんで、海らしい海はとうとう撮れませんでした。奄美大島の中判カメラをご期待くださいと前振りしたのですが、ちゃんと見てみると、見られる写真は無く、目的の半分は達成できませんでした。旅行記を書いてもしょうがないので、田中一村を中心に話を進めましょう。

当方はなぜ田中一村にひかれるのか?
田中一村はなぜ当時の画壇に評価されなかったのか?
これが今回のテーマです。

田中一村を知ってますかと陶芸やガラス工芸の関係者に聞くと、何とか名前を知っている方が一人、大ファンだと言いう方が一人、後の方々は皆知らないという返答でした。以下に少し彼の絵をのせますが、奄美の鳥や蝶がさりげなくおりこまれた絵には白金自然写真クラブの方は興味あるはずです。しかし、田中一村を知ってますかと聞いても何のレスポンスも無いと予想されて、聞く気もしません。

田中一村(1908-1977)は明治41年栃木県に生まれ、30才から千葉県時代を経て50才から奄美大島で一人で暮らしました。少数の支援者はいましたが、39才の時に一回の展覧会入選のあとは落選が続き、当時の画壇に失望し奄美大島へ移ったのです。他人の目を気にせず、自分の思う絵をどこまでも追求したいと思ったのです。69才まで、作品を発表することなく生涯を閉じました、


Sony alpha7RIII + Zeiss Batis 40mm F2 田中一村美術館

とてもセンスのいい、立派な美術館です。鹿児島県の力の入れようが感じられます。美術館には<田中一村への手紙>というコーナーがあって、来館者が自由に書いた手紙がつづられています。沢山の子供たちの手紙を読むと、子供たちが純粋に田中一村の絵に魅かれている様子がわかります。


Sony alpha7RIII + Zeiss Batis 40mm F2 
田中一村が死ぬ前に住んで、絵を描いていたアバラ屋

当方はなぜ田中一村に魅かれるのか?
それ答えの1番目は、彼の絵は当方が撮りたい自然の写真の理想形だからです。
実際には、一村の絵のような写真は撮影不可能でしょう。色、構図が良い所に鳥や蝶が具合よくいなければなりません。合成すればできるかもしれませんが、それでも難しい。同じような写真が撮りたいと言っているのではありません。感性が同調すると言っているのです。

まず。一村の奄美時代の絵の中で、蝶が登場するものをいくつか載せます。


<枇榔樹の森>


上の絵の左上の一部を拡大したもの。こうしないとアサギマダラに気づかない方もいるかもしれません。


<理想峡〉
これは真ん中にツマベニチョウがいます。
植物 ビロウ、コモチクジャクヤン、パパイア。ヒシバディゴ、ブーゲンビリア、アオノリュウゼツラン、クロトン

次は鳥が登場する絵。


<初夏の海にアカショウビン>
鳥:アカショウビン
植物: ビロウ、ミツバハマゴウ、アカミズキ、ハマユウ


<和光園のダチュラ>
鳥:アカショウビン
花:ダチュラ(ユウレイバナ)
<草花と岩上の赤髭>
鳥:赤髭

一村の鳥を含めた自然の表現は奄美時代に始まったわけでなく、以前から同じ感性で絵を描いています。


<忍冬に尾長鳥>


鳥:オナガドリ


これも当方がよく使う広角レンズ接近撮影と同じ感性で自然を表しています。(45才、<湯布獄朝霧>九州・四国。紀州の旅)


<秋晴>
39才の時に青龍社展に<白い花>が入選した後、45才この自信作<秋晴>が入選しなかったことから、画壇との亀裂が広がります。


<黄昏野梅>
30才に千葉市千葉寺に移った。千葉時代の38才の時の<黄昏野梅>。


千葉に移った秋に描いた<秋色>。

自然に対する感性はこのころと奄美と同じベースであると思います。彼を支援する人が以前から存在していたことは、これらの絵をみて当然のこととおもいます。

田中一村はなぜ当時の画壇に評価されなかったのか?
なぜ<秋晴>で画壇と対立したのか?
当方も写真撮影の鉄則から見ると<秋晴>は賛成できない。焦点が散らばりすぎている。白い大根がメインテーマで人目をひくが、庭の鶏、空の鳥、木の枝、井戸のはねつるべと視点が定まらない。写真撮影とは引き算であるといわれるように、メインテーマに人の目を引き付けるために、誘導する為の背景は必要だが、注目点を複数にして散らしてしまうことはご法度なのです(あくまで一般論ですが)。
しかし、彼の絵はみな絵全体に複数のパーツを散らばらせ、トータルとしてその場の印象を表そうとするのです。

以下は当方独自の見解です。(他人の説を研究したわけでないので独自かどうかはさだかでないですが。大体、田中一村を研究している専門家はいるのかな??)

1、一村は印象派なのだ
丁度、たずねた三菱一号館美術館の<The Phillips Collection>からのインプレッションから一村を見てみましょう。ワシントンDCにある美術館フィリップス・コレクションの絵画が日本で展示されています。実業家ダンカン・フィリップス(1886-1966)のコレクション、フィリプスによる一貫性のあるモダン・ヴィジョン(近代絵画)の提示です。


ポール・セザンヌ <ザクロと洋梨のあるショウが壺≫ 1893年

セザンヌは印象派の一員であったが、その後印象派を離れポスト印象派(当方は後期印象派の走りと捉えている)といわれています。セザンヌが目指したのは、既存概念から脱した主体的(自分自身の)印象表現だと思う。セザンヌが亡くなったころ丁度一村が生まれました。
一村は自然から受け取った印象を既存の日本画の伝統と関係なく、純粋に、一途に表現しようとした。そのために複数のパーツを投入することは必然だったのでしょう。こういう印象を受けた、こういう印象なのだときわめて正直に、真剣に全力を導入した結果、複数のパーツを投入することになったのでしょう(これは後期印象派とのつながりを後程議論する)。この時の日本画の画壇の印象の表し方というのは、すでに印象とパーツが既存概念として決まっていました。。つまり鶴はこういう印象、鷹はこういう印象、サクラはこういう印象、富士山はこういう印象を与えるパーツとして認識されており、これらを組み合わせて、うまいことインプレッシブな絵を作り出すことが賞に値することであったと推察されます。なんやかんやいっても琳派の影響が絶大だったのでしょう。例えば新しい琳派の方向を示した鈴木基一(1795-1858)の絵が新しい日本画として国内外で評価されていることでもわかります。一村はこの既存概念をはなれて、その場のパーツを組み合わせて、ほんとうにその場の印象を表現しようとした。<秋晴>で既存概念を完全に脱したことは一村にとっては、してやったりであったのでしょうが、審査員にとってはノーであった。

2、一村は後期印象派と共鳴する
後期印象派であるボナールは1867-1947であるから一村(1908-1977)と半分かぶっています。彼の絵は中心課題がはっきりしている絵と複数のパーツで一つの印象を表そうとする絵が混在しています。


ピエール・ボナール <犬を抱く女> 1922年


ピエール・ボナール <開かれた窓> 1921年


アンリ・マチス (1869-1954)  <サン=ミッシェル河岸のアトリエ> 1916年

後期印象派のマティスはボナールよりさらに、複数のパーツの積み合わせでトータルな印象を表現しようとしています。

この後期印象派の行き方を、日本の日本画。画壇は全く理解していなかったのでしょう。一村が西洋画、後期印象派の影響をうけたかどうかはわかりませんが、おそらく彼独自の道が後期印象派と共鳴しているように見えます。一村は昨年フランスで展覧会が開かれて、海外でも評価を受けました。今回の展覧会にも、西洋人が訪れており、西洋人に一村のファンが少なからずいると推測されます。伊藤若冲も海外コレクターの注目の方が、日本人大衆の注目よりずっと先に進んでいたのです。

当方が一村の絵と自然の写真撮影との共鳴を感じるのは、自然に対する愛情とその印象を表そうとする心が共通するからだと思います。


ジョルジュ・ブラック <フィロデンドロン> 1952年

ジョルジュ・ブラック(1882-1963)は後期印象派からキュビズムへの移行へ重要な位置づけを持ちます。

ジョルジュ・ブラックは最も一村に近い気がするのです。既存概念を脱して、純粋にその場の印象をその場のパーツの組み合わせで表現しようとしている。ジョルジュ・ブラックはさらに3次元の対象を2次元パーツに分解して、これらのパーツを組み合わせて印象を表現しようとしました。

バブロ・ピカソ(1881-1973)は3次元を2次元パーツに分解して印象を表現することから、さらにこれらパーツの組み合わせで、新たな印象を創作するようになった。この印象の自主的コントロールは抽象画に発展するのです。


パブロ・ピカソ <横たわる人> 1934年

ブラック、ピカソはちょうど一村と同時代を生きました。一村が海外とつながっていたら、これら後期印象派やキュビズム、抽象画への道へ入り込んだと思います。

一村に魅かれる2番目の理由は、既存概念からの脱出へ、自分へ忠実であろうとする壮絶な生き方にあります。

後期印象派、セザンヌ、ゴッホ、ゴーガンいずれもそう簡単に世に受け入れられなかったことからも、田中一村はなぜ当時の画壇に評価されなかったのか?に対してする答えは明白でしょう。

既存概念を壊そうとすると、世の中はそれを排除し、放り出そうとします。それはロバスト性を強く持っています。新しい流れを認めさせるには、何ものかのクリティカル・ポイントを越さねばなりません。それが死後になってしまうこともあるのです。

しかし、ダンカン・フィリップス(1886-1966)という男は既存概念を壊してゆく印象派から抽象画まで、新しい流れをわずかの時差をもって理解し追求した者として、大したものだと思います。金持ちの道楽かもしれませんが、わかる者はわかるのです。

明日は<田中一村になったつもりで、奄美大島の海をFujifilm GFX50S中判カメラで撮る>を載せます。

掲載写真(次回も含めて)は
1、田中一村 新たなる全貌 20108-21~9-26 千葉市美術館 特別展カタログ
2、田中一村 作品集 NHK出版編
3、A Modern Vision The Phillips Collection 2018-10-17~2019-2-11 三菱一号館美術館 フィリップス・コレクション展カタログ
からまたは撮影OK展示の撮影を用いて引用しました。




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