太った中年

日本男児たるもの

知的ブランド

2009-01-11 | weblog

戦後思想界の巨人と呼ばれ、日本の言論界を長年リードしてきた吉本隆明(よしもと・たかあき)さん。84歳になった今も、自らの「老い」と向き合いながら、思索を続けている。

吉本さんは、目が不自由になり読み書きがあまりできなくなった。足腰も弱り、糖尿病を抱えている。しかし、2008年夏、「これまでの仕事をひとつにつなぐ話をしてみたい」と親交のあるコピーライター糸井重里氏に協力を依頼し講演会を開いた。

「僕の本なんか読んでいない人に、どうやったら分かってもらえるかが勝負です。」

車椅子に乗って登場した吉本さんは、2千人を超える聴衆を前に、3時間にわたり休むことなく語り続けた。

詩人にして文芸評論家、そして思想家。文学や芸術だけでなく、政治・経済、国家、宗教、家族や大衆文化まで、人間社会のあらゆる事象を縦横無尽に論じてきた吉本さん。彼は、今、私たちに何を語りかけるのか。

番組は、吉本隆明が自らの思想の核心「芸術言語論」を語った3時間の講演を記録、戦後60年以上かけて紡いできたその思想の到達点を描く。

(以上、NHK-ETV特集 これまでの放送内容 から無断転載)

先週の日曜夜、たまたまNHK教育を見たら上記番組の最後のところを放送していた。なにしろ吉本隆明がしゃべるのもTVで見るのも初めてだ。ひたすら天井に目をやり小林秀雄について語る吉本の姿は強烈なインパクトがあった。84歳にして老人性ボケなど微塵もなくハッキリとしゃべっていた。しかし、講演内容はまったく理解不能で、最初は講演会というよりパフォーマンスだと思った。

「僕の本なんか読んでいない人に、どうやったら分かってもらえるかが勝負です。」

昔、吉本の本はよく読んでいた。それでもナニを言っているのかさっぱり分からなかった。

あるエッセイで吉本は他人と話すとき頭の中で書き言葉を話し言葉に変えてしゃべると言っていた。思想界の巨人はいつも書き言葉で脳内思考をするのだ。そして吉本の脳内翻訳を実際にTVで見てみると書き言葉と話し言葉がゴチャ混ぜで、詰まりながら難解な言葉を言い換えたり、過剰に説明したり、モウ、ワケが分からない。後味が悪く、ナニか喉につっかえたような感じがしたので少し調べてみた。

以下、芸術言語論のキーワードとなる「自己表出」。これを核にして吉本は思考をしていたワケだ。

表出
 
言語は、動物的な段階では現実的な反射であり、その反射がしだいに意識のさわりを含むようになり。それが発達して自己表出として指示性をもつようになったとき、はじめて言語とよばれるべき条件を獲得した。

指示表出
 
指示表出としての言語は、あきらかにその時代の社会、生産手段、人間の諸関係そこからうみだされる幻想によって規定されるし、強いていえば、言語を表出する個々の人間の幼児から死までの個々の環境によっても決定的に影響される。

自己表出
 
現実的な意識の体験が累積して、もはや意識の内部に幻想の可能性として想定できるにいたったもの。

(以上、吉本隆明著「言語にとって美とはなにか」より一部抜粋)

以下、番組の「芸術言語論」について。脳内翻訳をして語っていたのは大体こんなことだろう。

芸術的価値が有効であるかどうかということは、読む人によって区々(まちまち)である。そうなると、マルクスのいう経済的価値の問題も芸術的価値の問題に転嫁することはできませんから、究極のところでは、芸術的価値はもっぱら自己表出に依存するんだと、きっぱり言い切ってしまわないとダメだと思います。

では自己表出とは何なんだといえば、厳密にいえばこうなります。自分と、それから理想を願望するもうひとりの自分とのあいだがどれだけ豊富であるかということ、これが自己表出の元であり芸術的価値の元である。厳密にはそういうふうに言い直さなければいけないというのがぼくの考え方です。

(以上、吉本隆明著「日本語のゆくえ」より一部抜粋)

問題はこのような脳内翻訳をしたワケが分からない講演を未だ知的ブランドとして有り難がっている視聴者のことである。逆吉本を考えてみればよい。簡単なことをワザワザ難解に翻訳して語るのは簡単なことを理解していないからであり、知的退行以外の何物でもない。NHKはそうした知的ブランド視聴者に向け3時間も放送した。30分に編集しても充分だろう。初TVパフォーマンスを差し引いても支払っている受信料を損した気分だった。