太った中年

日本男児たるもの

ざんげの値打ちもない

2009-01-19 | weblog

改革派の急先鋒だったのは浅はかだった

――懺悔の書『資本主義はなぜ自壊したのか』を書いた中谷巌氏に聞く

細川内閣、小渕内閣で経済改革の旗振り役を担った中谷巌氏が「懺悔の書」を刊行した。なぜ転向したのか。その真意を聞いた。

――本書のまえがきに「自戒の念を込めて書かれた『懺悔の書』」とあります。

短絡した軽薄なものの考え方がまずかった。新自由主義的な、市場至上主義的な、あるいは改革派の急先鋒的な自分の行動に対して、それは浅はかであり、社会全体、あるいは人間の幸せとはと、考慮すべきだった。犯罪を犯したわけではないし、そのときそのときに必要なことを言っていたと思うが、配慮が足りなかった。たとえば貧困層がこんなに急激に増えていくことに気づかなかった。多様な目線を持っていないと、バランスの取れた政策は議論できないという反省がある。

小さい政府や自己責任をただ求めれば、日本社会がうまくいく、さらに経済成長がうまくでき、国際競争力もつく、そういう考え方は間違い。そう考えるようになった。一方的な新自由主義信奉者ではなくなったという意味だ。

――ここしばらくあまり表舞台に登場されませんでした。

私の中に変化が起きたので、この7~8年むしろ意識的に発言を控えてきた。小渕内閣の経済戦略会議に参加した後、アメリカ流の構造改革を推進することが日本社会にどういう影響を及ぼすのか見定めたいという気持ちになった。それまで積極的に改革をやるべしと言ってきた人間なのだから、無責任に違うことを言ってはダメだなと思い、新たに勉強を始めた。

講座を持つ多摩大学で、40歳代CEO育成講座というリーダーシップ論をやっている。ここを一つの根城にして、歴史、哲学、文明論、宗教など、いわばリベラルアーツを中心にカリキュラムを組み、私も生徒になった気持ちでその辺を徹底的に勉強することにした。

というのも、アメリカで経済学を勉強して経済学そのものについては体系的にしっかり頭に入っているが、合理性の世界の経済学だけで政策や社会を論じ、描いていいのかという気持ちになった。人間はそんなに合理的な存在ではない。ロジックだけでは抜け落ちるところがあまりに多い。それと現実に日本社会で起こっていることを観察し、じっくり考えをまとめてみたいとも思った。この本はまだ「中間決算」だが、勉強に8年かかった。

――今回の世界的金融危機が執筆動機ではないということですね。

リーマンショックのかなり前から、半年ぐらいかけて書いた。日本社会のおかしいところが目につきだして、それを理論的に分析してみたいと思い立った。

マーケットメカニズムについて言えば良い面と悪い面がある。それをきちんと考慮しないでそのメカニズムにどんどん組み込めば問題は解決するようなことを主張して、まずい方向に引っ張りすぎてしまった。マーケットを否定しているわけでは毛頭ないが、行き過ぎたために恐慌に似たような状況をつくり出し、貧困が増大するなど所得格差が拡大し、それに環境破壊の問題が激化した。グローバル資本主義の正体をしっかり分析して、良い点もあるが、まずい点はきちんと手当てしないと副作用が大きすぎることを、この本で一所懸命書こうとしている。  

――目についたおかしいところとはどういうものですか。

たとえば財政投融資の改革で、郵貯のおカネが自動的に道路建設に行くのを遮断したことは、いまでも高く評価しているし、必要だったと思う。だが郵政改革では、人の減った過疎地で郵便局が唯一の人間的接触の場所になっているところまでばっさり廃止してしまっている。こうしたことにどれほどの意味があるのか。

高齢化社会になって介護とか医療とか、生活関連の仕事は地方に委ねて住民と一緒になっていいサービス体制をつくる、その意味で日本の中央集権的な国家体制は絶対によくない。これは動かしがたい。75歳以上の後期高齢者医療について言えば、日本の高度成長を支えてきた人たちに対して急に制度を変え、あなたの年金から保険料を天引きするとやっていいのか。人間的な配慮がない。これらはあまりに小さな政府、自己責任路線という「哲学」に固執しすぎている結果だ。

――リベラルアーツの勉強の成果とはどういう結びつきになりますか。

日本は鎌倉時代ごろからずっと庶民が主役になるような社会風土をつくってきた。中でも江戸時代は歌舞伎や浮世絵を含め、町人層が担い手であり、貴族階級や武士階級が担い手だったわけではない。こういう庶民層が主人公になる、そういう社会は世界的にもユニークであり、ほかの国々はどこも過酷な階級社会だ。日本だけがわりと庶民社会で、中間層がそれなりの当事者意識を持っていたからこそ、西欧諸国と伍す経済大国になれた根本的な理由があると判断している。

それが新自由主義路線に乗っかったために壊れてきた。石炭産業のようにどうにもならなければ別だが、人員削減をそんな簡単に行っていいのか、経営者は悩みに悩む。ところが、最近はアメリカ流にすぐクビだとか内定取り消しだとか、する。これでは日本の強さは奪い去られてしまう。

――社会的にすさんできているともいわれます。

新自由主義でいちばんまずいと思うのは、とにかく個人が分断されること。その分断された個人はマーケットで出会う。マーケットは得か損かの世界だから、人間的なつながりはない。

そのマーケットで失敗すれば、投票行動を通じて国家に向けて発言するようになる。あるのは国家とマーケットだけの世界。

しかし、人間にとって必要なのはその間にある社会、あるいはコミュニティではないか。そこで温かい人間的なつながりを確認しながら人は孤独に陥らず、喜んだり悲しんだりする。その中で幸せをつかむ。新自由主義的発想は社会的動物である人間を全然考慮していない。完全に孤立したアトムとしての個人と、その集団である国家というものだけで社会を描いて、その中で政策も決めていこうというものだから、社会的にすさんでくる。

――伝統的価値を重視せよと。

いまからでも遅くない。転換して、別の発想で議論しなければいけない。日本の伝統的な社会的価値が新自由主義とバッティングして壊されている。それがまずい。人間的な温かみのある社会を生みださなければいけない。

(以上、週刊東洋経済より無断転載)

そんなワケで、世界不況の元凶になった米国新自由主義の旗振り役だった中谷巌氏の懺悔録。まあ、ナンつーか、日本は明治維新の文明開化以来、脱亜入欧として欧米からアカデミックに限らず、文化、社会制度を取り入れて国づくりをしてきた。で、うまくいかないと和魂洋才とか言って日本回帰する。中谷さんの懺悔は良くも悪くもこうした日本の伝統の域を出ない。また、中谷さんの懺悔を新自由主義の背景にあるリバタリアニズムで批判しても欧米からのアカデミズムというワクに変わりはない。

どうせ100年に一度の経済危機で暫くはニッチもサッチもいかないのが現状である。ならば、懺悔するのもそれを批判するのも別に目新しくなくていいからナニか面白みが必要だ。中谷さんには太った中年曰く芸風が足りない。そこで、せっかく中谷さんは懺悔をし日本回帰して希望の光を見つけようとするなら、フラれた女の情念を描いた昭和の名作「ざんげの値打ちもない」を聞いてまずは自分の心を見つめ直したほうがいい。

――新自由主義の米国人男性について行き、結局フラれた男、それが中谷さん、あなただ。

ざんげの値打ちもない/北原ミレイ