安茂里小 坂井です。ずいぶん久しぶりになってしまいました。
今日は鑑賞学習のすすめ その2です。写真は、つい最近おこなった、「せ~ので選ぼう」の一場面です。
私が鑑賞を始めた理由は
「子どもたちって、作りたい作品のモデルがあるかな?」と感じたことでした。
それまで、授業をやると発想・構想で悩み、時間だけがかかってしまう子がクラスに必ず何人かいました。
当初は「失敗をおそれているのだろう」と考えて、試行錯誤を保証する題材をしてみたり、造形遊びのような感性トレーニングをしてみたりしていました。
でも、ふと自分を振り返えってみると、ひらめきが降ってきたときは制作に乗れるけれど、そうでないときは苦しむ自分がいたことを思い出しました。
表現をすることは、コップから水があふれ出すことに似ていると思います。
満水なら、とめどなく溢れ続けて、どんどん外にでてくる。(表現できる)でも、いっぱいにならなければ、いつまでたっても外にはでてこない。
だから、必要なのは授業で「表現しろ~表現しろ~」というのではなく、言いたくなるように、子どもたちの心のコップに、水を注いであげることなのではないか??
と考えたのです。
「せ~ので選ぼう」は、これまでどのクラスでも行ってきましたが、例外なく盛り上がります。それは、作品を見ることで、子どもたちの中にどんどん水がたまっているからだと思います。肩肘はって発表しなくてもいい気軽さと、自分とは違う見方に出会える貴重な時間です。
今日は鑑賞学習のすすめ その2です。写真は、つい最近おこなった、「せ~ので選ぼう」の一場面です。
私が鑑賞を始めた理由は
「子どもたちって、作りたい作品のモデルがあるかな?」と感じたことでした。
それまで、授業をやると発想・構想で悩み、時間だけがかかってしまう子がクラスに必ず何人かいました。
当初は「失敗をおそれているのだろう」と考えて、試行錯誤を保証する題材をしてみたり、造形遊びのような感性トレーニングをしてみたりしていました。
でも、ふと自分を振り返えってみると、ひらめきが降ってきたときは制作に乗れるけれど、そうでないときは苦しむ自分がいたことを思い出しました。
表現をすることは、コップから水があふれ出すことに似ていると思います。
満水なら、とめどなく溢れ続けて、どんどん外にでてくる。(表現できる)でも、いっぱいにならなければ、いつまでたっても外にはでてこない。
だから、必要なのは授業で「表現しろ~表現しろ~」というのではなく、言いたくなるように、子どもたちの心のコップに、水を注いであげることなのではないか??
と考えたのです。
「せ~ので選ぼう」は、これまでどのクラスでも行ってきましたが、例外なく盛り上がります。それは、作品を見ることで、子どもたちの中にどんどん水がたまっているからだと思います。肩肘はって発表しなくてもいい気軽さと、自分とは違う見方に出会える貴重な時間です。