空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 前編⑩

沖縄戦に「神話」はない──「ある神話の背景」反論 第7回③


  • 西山A高地に住民が集合したのは軍の意思によるもの
  • 将校会議は証言をそのまま記録しただけ


 前回は軍に対するものでしたが、今回は「将校会議は証言をそのまま記録しただけ」に対しての、直接的なことともいえる証言について考察いたします。


 「住民の自決をうながした自決前日の将校会議についての『鉄の暴風』の記述を曽野氏は、全くの虚構としてしりぞけている。(中略)
あの場面は、決して私が想像で書いたものではなく、渡嘉敷島の生き残りの証言をそのまま記録したにすぎない。将校会議はなかったことを証明するために、それをおこなう場所さえなかったと曽野氏は説明する。将校会議などやろうとおもえばどこでもできる。陣地の設備など問題ではない。」


 以上は第7回からの引用です。

 将校会議はあくまでも付帯的なものだから、あってもなくても関係がないというような主張だと思われます。たしかに「ある神話の背景」を読む限り、主体は「赤松大尉が発した自決命令」の有無であり、将校会議や似たようなミーティングがあったかどうかは二の次ではあります。もっとわかりやすくいえば、赤松大尉の「自決命令は出していない」を補完するうえでの状況証拠となりうるものが、「自決命令を発した場所である将校会議もなかった」という元軍人側の主張だということです。そういう意味では付帯的なものかもしれません。
 しかし、将校会議のなかで自決命令が発せられたという「鉄の暴風」の記述がある以上は、自決命令の虚実を把握するという点において非常に重要であり、どこで何がおこなわれたかが解明できるとなると、それこそ集団自決の実像が鮮明になるというものです。
 しかも「生き残りの証言をそのまま記録したにすぎない」という太田氏の主張を信ずるのであれば、住民の方々が将校会議や自決命令を「見て聞いて」いるということになるのですから、集団自決のキーポイントである日本軍の、更なる細かい動向を知る手段となる手掛かりにもなることでしょう。従って、将校会議がおこなわれたという事実の確認を看過することはできません。

 ただし、「生き残りの証言をそのまま記録したにすぎない」という太田氏の主張に関し、この1985年の時点において非常に不可解な現象がおきていて、それが2020年現在も継続している状態であるということが、将校会議が付帯的か否かにまったく関係なく存在するのです。

 それを単刀直入にいえば、太田氏は「生き残りの証言をそのまま記録したにすぎない」と主張しているのにもかかわらず、それを「見て聞いて」いた住民がいないという現象です。
 繰り返しになるかもしれませんが、「鉄の暴風」を構成するものは実際に体験してきた住民たちの証言でありますし、「鉄の暴風」にもそれが明記されております。
 証言を記録したのであるならば、当然のように「鉄の暴風」以外でも記録が残っているはずなのですが、赤松大尉の自決命令や将校会議の件についての証言は、なぜか「鉄の暴風」を除くと全くないのです。

 「鉄の暴風」は1950年発行、「ある神話の背景」は1973年発行で、太田氏と曽野氏の論争は1985年です。
 この間にも様々なメディアや媒体で集団自決が取り上げられ、その都度様々な方々が証言をなさっておりますが、どういうわけか「鉄の暴風」と同じことを証言する住民や元防衛隊員は皆無なのです。
 35年前の1985年なら高齢化が進んだ2020年現在に比べ、まだまだ生存なさっている方々が多数いたことは間違いありません。それにもかかわらず、赤松大尉の自決命令や将校会議を見たり聞いたりした住民や元防衛隊員がいないのです。この現象をどう解釈すればいいのでしょうか。

 太田氏はこの論争にて「住民の証言をそのまま記録」したと同時に、「赤松を信用しない」と明言しております。赤松大尉どころか、元軍人やその資料あるいは日本軍自体を信用していない傾向もみられます。
 信用するかしないかの是非はともかく、仮に太田氏と同じように元軍人の証言を一切排除し、住民の証言だけを信用する姿勢で赤松大尉の自決命令を考察した場合、非常に不可思議な矛盾が成立してしまいます。

 それは「住民の証言によって赤松大尉の自決命令が明らかになったのだが、同時に住民の証言によって自決命令が打ち消されている現象がおこっている」ということです。あるいは自決命令や将校会議を「聞いた」「見た」住民がいるはずなのに、なぜかその住民がいないという現象である、というふうに言い換えることができるのです。

 将校会議云々については軍事行動ですから、非戦闘員である住民が関与しなくても納得できるものであります。しかし現地の住民を徴兵したはずの防衛隊員からも、軍と行動を共にしているにもかかわらず、将校会議を見たり聞いたりしたという証言がありません。

 それどころか、赤松大尉の自決命令を聞いた住民自体が、「鉄の暴風」を除けば皆無なのです。

 非常に興味深い例として、渡嘉敷村の元村長が残した証言があります。
 太田氏によると「鉄の暴風」を編集した際、集まった元住民の中に元村長が含まれているということなのですが、「ある神話の背景」にも元村長の証言が掲載されています。
 ただ「ある神話の背景」では自決命令を聞いたことがないと証言し、また「軍から命令を受けることはない」とも証言しております。

 このような現象が1985年はおろか、2020年現在までも継続しているのであります。残念ながら困惑するというようなことしか表現できない事態です。

 なお、「自決命令を聞いた人はいない」ということについては、当ブログ「誤認と混乱と偏見が始まる鉄の暴風」にて詳しく考察しております。興味がある方は一読をお願い申し上げます。


次回以降に続きます。

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