空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 前編⑨

沖縄戦に「神話」はない──「ある神話の背景」反論 第7回②

  • 西山A高地に住民が集合したのは軍の意思によるもの
  • 将校会議は証言をそのまま記録しただけ

 今回は「将校会議は証言をそのまま記録しただけ」についての個人的見解です。少し長くなりますが、以下に太田氏の主張を引用します。


 「将校会議はなかったということを証明するために、それをおこなう場所さえなかったと曽野氏は説明する。将校会議などやろうとおもえばどこでもできる。陣地の設備など問題ではない。
陣地になんの設備もなかったというのもおかしい。通常、陣地の移動は設備のある場所を選ぶ。「西山A高地」は軍隊用語であり、陣地名とおもわれる。(中略)西山A高地は要塞の場所らしいが、その場所に、その翌年(前年の間違いと思われる──引用者注)からきていた設営隊や赤松隊は、そこに陣地もつくらずに何をしていたのだろう。しかも、西山A高地を“複郭陣地”とよんでいる。複郭陣地は高度の防御陣地のことである。」


 以上が太田氏の主張になります。

 まず言っておかなければならないのは、残念ながら疑問点がことに多い文章だということです。
 「曽野氏は女だから軍隊を知らない」と、この論争で曽野氏を差別的に批判した太田氏ですが、軍隊経験がある当の本人も「軍隊を知らないのではないか?」という疑問がわいてくるのです。

 「西山A高地」は西山(北山=ニシヤマ)とA高地について、それぞれが別の場所であることは前述しました。
 そのような誤解はともかく、太田氏によると軍隊は通常「陣地の移動は設備のある場所を選ぶ」らしいのですが、仮にそれが本当だとしたら軍隊は「設備のない場所には布陣しない」のでしょうか。常識的に考えるならばそれは全くあり得ませんし、名称や呼称のみしかないというのは、なにも軍隊だけに起こる事象ではないはずです。
 もっとも、引用の後半部分を読んでみると「赤松隊や設営隊がいたにもかかわらず、陣地や設備を構築していない」というような前提があることになると思います。
 従って「ある神話の背景」や赤松大尉を含む元軍人の証言や主張する「地下壕陣地はなかった」に対して、太田氏は彼らの主張が全くのデタラメで、彼ら全てが嘘をついている、ということになるではないかと思います。

 それに加えて「高度な防御陣地」であるはずの「複郭陣地」があったのだから、「地下壕陣地」がないほうがおかしい、ということにもなるのではないでしょうか。

 そもそも太田氏のいう「高度の防御陣地」とは何を指すのでしょうか。これは本人に聞いてみなければわからないかもしれませんが、「完成された防御陣地」については、沖縄戦のなかでも激戦地で有名な安里五二高地(シュガーローフ)を例にして、以下に引用することが可能だと思われます。


 「この小さく裸の岩山は、その前面の斜面をトンネルで結ばれた機関銃陣地の十字砲火で、堅固に防護されていた。反斜面にもまた機関銃座が設けられ、相互にそして前方の機関銃座とトンネルで連絡され、さらに通路、前面の斜面、頂、そして側面を守る小銃手、軽機関銃手、そして擲弾兵(てきだんへい──引用者注)がひしめく塹壕であった」ゴードン・ロトマン イアン・パルマー 齊木伸生訳『太平洋戦争の日本軍防御陣地 1941-1945』(大日本絵画 2006年)


 ちなみに現在の安里五二高地は貯水施設の建設や商業施設、それらに伴う様々な開発によって、当時の面影は全くといっていいほどなくなりました。

 上記のような「高度な陣地があった」と、頑なに信じて疑わないというような態度をうかがわせる太田氏の主張ですが、では本当に渡嘉敷島にはそのような陣地があったのでしょうか。

 実は沖縄戦の日本軍、具体的にいえば沖縄に駐屯した陸軍の第三十二軍が置かれた状況や実情をつぶさに観察すれば、そもそも渡嘉敷島を含めた慶良間諸島に「高度な防御陣地」を構築する計画さえなかったことがわかります。これはなにも2020年に発掘された新事実ではなく、この論争がおこなわれた1985年当時でも資料をちゃんと考察すれば、簡単に理解できることでもあったのです。
 つまり最初から渡嘉敷島を含む島嶼部に、太田氏の主張するような「高度な防御陣地」を構築する計画も必要性もなかったことが言えるのです。

 沖縄を担当する第三十二軍は布陣当初から防御だけを考え、上陸するであろう米軍をできるだけ「足止め」するようにと、沖縄本島に様々な防御陣地を構築しました。上記引用の安里五二高地は比較的有名ですが、ほかにも最近では「ハクソーリッジ」という映画での舞台となった前田高地や、嘉数台公園として整備されている嘉数高地も有名で、その場所には慰霊塔にまじってコンクリート製のトーチカ跡や、防御陣地の入り口が戦争遺跡として現在でも残されております。
 また、司令部がおかれた首里城の地下やその近辺にもありました。陸軍ではありませんが那覇市小禄の「海軍壕」も同様です。 
 「高度な防御陣地」ゆえに、上記の場所はそれぞれが激戦地となりました。米軍はカミカゼ攻撃の恐怖にさらされたうえ、予想以上の損害を出したと言われております。

 米軍をできるだけ「釘付け」にして侵入を食い止めようというのが基本方針ですから、「沖縄は捨て石にされた」という批判もありますが、その是非はともかく、現地軍にしてみればとにかく沖縄本島に兵力を集中させなければなりません。
 しかし、兵力や資材が極めて限定されているうえ、その補給も全くといっていいほど期待できない戦争末期の実情は、沖縄本島内でも全てが不足していたといっても過言ではありません。
 
 軍事学的観点の基本として兵力を分散させるということは、それをさせればさせるほど弱体化していくということになります。従って第三十二軍には慶良間諸島みたいな、本島から遠く離れた島嶼部にまで、米軍を食い止めるような「高度な防御陣地」を構築する余裕などないことがわかるのです。繰り返しになりますが、このことは1985年当時でも十分に理解できるものなのです。

 その代わりに考え出したのが「小型ボートによる特攻」でした。
 渡嘉敷島では舟艇攻撃が任務の第三戦隊と、舟艇基地群の建設とサポートが主任務の第三大隊が駐屯していました。しかし舟艇基地群が完成していないのにもかかわらず、第三大隊は本島防衛のために配置転換され、その主力部隊は渡嘉敷島から去っていきます。

 このような実情があったことを考え、太田氏が信用しない元軍人たちの証言である「地下壕陣地はなかった」等を突き合わせてみれば、舟艇基地群は造ったかもしれないが「高度な防御陣地」は造らなかったのではないかという仮説が成立するのです。
 なお、この件に関しては当ブログ「誤認と混乱と偏見が始まる鉄の暴風」にて詳しく考察しております。ご興味があれば一読をお願いします。

 ここで一番問題にしなければならないのは、太田氏が頑なに元軍人の証言や軍側の資料を信用しないという姿勢です。
 「信用しない」こと自体は全く問題ありません。しかし証言や資料をロクに考察もせず、分析すらしないで突き放しているような、偏りがあるような気がしてなりません。要は信用しないその理由に、論理的かつ合理的なものが見えてこないのです。

 太田氏は「女だから軍隊を知らない」と書いておりますが、軍隊経験がある太田氏こそ「軍隊を知ろうとしない」のではないかと危惧した次第であります。

次回以降に続きます。


参考文献

防衛庁防衛研究所戦史室 『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』(朝雲新聞社 1968年)
八原博通 『沖縄決戦』(読売新聞社 1972年)
大田嘉弘 『沖縄作戦の統帥』(相模書房 1984年)
戸部良一他 『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』(ダイヤモンド社 1984年)

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