空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」⑧

あそこを「複郭陣地」に選んだのは誰?①


 住民や元軍人の証言と第三大隊・第三戦隊の行動によって、「鉄の暴風」に描写された「地下壕陣地」は、集団自決が起こる前には存在していなかったことが判明しました。

 「鉄の暴風」は当事者の証言を元にしたノンフィクションでありますから、誤った認識によって存在しないものが存在したということになったと思います。

 ではなぜ、そういった誤認が引き起こされてしまったのでしょうか。

 この点については様々な要因があるとは思いますが、再び「地下壕陣地」という観点から考えてみると、集団自決が起こる前に「複郭陣地」が「既にあった」という事実が、複数ある原因の一つではないかというのが個人的見解であります。

 わかりやすく言えば「複郭陣地があったから、地下壕陣地もあったに違いない」といった考え方です。あるいは「複郭陣地があったのだから、そこに地下壕陣地があってもおかしくはない」というものです。
 そういった渡嘉敷島の事情に疎い「鉄の暴風」の編集スタッフや、軍隊内の事情を知らなかった住民の間違った認識によって、ないはずの地下壕陣地が実在したと誤解してしまった原因の一つではないかということです。

 ただ誤解したといっても、それを誘発してしまうような現象があったと思われます。
 それは第三戦隊の舟艇攻撃から地上戦への転換によってではないか、ということが挙げられます。

 予想外だった米軍の攻撃や上陸作戦への対応で、第三戦隊は混乱状態に陥ったということは先述しました。それは「陣中日誌」といった資料や元軍人の証言・手記等から共通認識として、簡単に確認することができます。

 もう一つの共通点として、複郭陣地への移動が比較的スムーズに行われていたことがあります。ただし、完全武装だった米軍の追撃に対し、戦死者が続出しながら後退したということですから、何の苦労もなく簡単に複郭陣地へ移動したということではありません。

 この場合、舟艇攻撃をするかしないかの混乱はありましたが、地上戦をするという決定をした後は、どこに陣地を置くかという混乱が見当たらず、何の躊躇もなく複郭陣地へ移動していったことになります。
 つまり、それは比較的早い段階で複郭陣地が決まっていた、ということになります。

 では、誰がその複郭陣地を最初に選定したのでしょうか。

 まず、第三戦隊の赤松大尉ではないと思われます。赤松大尉本人が「ある神話の背景」等で「複郭陣地の場所が分からなかった」や、「住民のことは考えていなかった」というような主張をなさっています。

 第三戦隊は結果的に渡嘉敷島に残りましたが、本来なら渡嘉敷島を出撃した後は生死を問わず戻ってこないという計画でした。
 したがって、渡嘉敷島の防衛を副次的な任務としていた第三大隊、厳密にいえば大隊長が、渡嘉敷島防衛に関する陣地構築や住民対策を考慮すべき事案でありますから、渡嘉敷島に戻ってこない第三戦隊の戦隊長が「分からなく」ても「考えていなく」ても、特に問題はなかったのです。個人的見解ですが、この点について赤松大尉は嘘を言っているとは思えません。

 第三戦隊と第三大隊は戦闘序列では同列ですから、渡嘉敷島防衛における陣地構築に関して、第三戦隊の戦隊長が第三大隊の大隊長に「命令」すること自体がありえません。ただでさえセクショナリズムが横行していた軍隊ですから、そのようなことをしたら大問題になるはずです。

 現に建設途中の舟艇基地を変更してもらいたいという「要請」が、第三戦隊から第三大隊にあったこと、それが原因で「感情的なもつれ」があったことを、当ブログの「造りたくても造れなかった?その②」で取り上げました。この場合、あくまで「要請」であって「命令」ではないという事実が肝心です。
 これは現代の会社組織と同じです。例えば営業部の部長が生産部の業務に「口出し」したらどうなるか、特に説明するまでもありません。
 そうことでありますから、第三戦隊の赤松大尉はこの時点で考える必要性がありません。

 しかし、先述したように第三大隊は1945年2月中旬に第三戦隊へ編入されました。それでも、戦隊長である赤松大尉が戻ってこないことには変わりがありません。
 第三戦隊の残地部隊が渡嘉敷島の防衛を担当することになりましたが、実際の指揮を執る予定だったのは元第三大隊の大尉だったようです。

 ただし、地上戦に関する陣地構築や住民対策を考慮しなければならない時期がありました。
 それは舟艇攻撃を断念した1945年3月26日、集団自決が起こる二日前です。その時点で初めて赤松大尉は地上戦や住民対策を、自らの意思決定で行動しなければならなかったのです。

 3月26日以後において、地上戦における陣地構築についての混乱は、様々な資料で考察した結果、全く見当たらないということは先述しました。つまり赤松大尉は既に決まっていた複郭陣地へ移動したということになります。

 そういうことでありますから、赤松大尉が複郭陣地を選定したのではありません。

 では誰が最初に複郭陣地を選定したかといえば、第三大隊の大隊長しかいないことになります。

追伸
 第三戦隊と第三大隊の違いが分からないと思った方は、当ブログ「海上挺身第三戦隊と海上挺身基地第三大隊の概要」で説明しておりますのでご参照ください。

次回以降に続きます。


参考文献

別掲『海上挺身第三戦隊 陣中日誌(複製版)』
別掲『海上挺身第三戦隊 渡嘉敷島戦闘概要』
別掲『戦史叢書 沖縄方面陸軍作戦』
別掲『ある神話の背景』
赤松嘉次「《私記》私は命令をしていない」『潮』1971年11月号(潮出版社)

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