空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」⑫

予定通りだった?持久戦と集団自決


 前回の続きで、船舶団長の渡嘉敷島来島を説明することによって、「鉄の暴風」から垣間見える「持久戦や集団自決も軍によって予め決められていたのではないか」というような誤認を誘発した原因を解説したいと思います。

 3月23日から米軍の空襲が始まり、25日には艦艇による艦砲射撃も加わって本格的な攻撃が続いておりました。そのような状況の中、25日の夜に第十一船舶団の団長と随行員が渡嘉敷島に到着しました。
 これは第三戦隊を含む慶良間諸島の配置された、各戦隊を指揮下に置く第十一船舶団による慶良間諸島の視察なのですが、タイミングとしては最悪の状態でした。

 船舶団長はすなわち、第三戦隊戦隊長である赤松大尉の直属上官です。このような関係によって舟艇攻撃をするかしないかの混乱が起こり、結果的に舟艇攻撃を中止して地上戦へと転換したという経緯があります。しかしここではあまり関係ないことなので、具体的な内容は省略いたします。興味がある方は他の文献で確認してみてください。

 船舶団長の来島で一番興味を惹かれるのは、複数いる随行員の中に、実は元第三大隊の大隊長である鈴木少佐が含まれていたということです。

 ただし、なぜ鈴木少佐が随行していたかは不明です。前述の通り第三戦隊は第十一船舶団の指揮下にありますので、最悪なタイミングとはいえ、船舶団長が視察するのは極々普通なのですが、第三戦隊の「陣中日誌」によりますと、鈴木少佐は独立混成第四十四旅団へ転属になっております。
 文字通り第十一船舶団と第四十四旅団は全く違う部隊です。しかしながら、どういった経緯でそうなったのかはわかりませんが、鈴木少佐も船舶団長とともに渡嘉敷島に到着したのです。
 これは赤松大尉が鈴木少佐と会話したという証言や、再会を喜びあったというような住民の証言で確かめることができますので、元第三大隊の鈴木少佐であることは紛れのない事実です。

 船舶団長ではなく、鈴木少佐の渡嘉敷島来島が興味深い出来事ということになりますが、なぜそれが興味深いのかを説明する前に、再び赤松大尉が置かれていた状況を説明したいと思います。

 集団自決が起こる2日前に、舟艇攻撃から地上戦の転換が決定されました。赤松大尉はこの瞬間から米軍への対処と同時に、いわゆる住民対策も考慮しなければなりませんでした。
 それ以前は地上戦や、それにともなう住民対策も考慮する必要がありませんでした。それは生死を問わず、渡嘉敷島を出撃した後は戻ってこないということが、早い段階で決まっていたからです。
 第三大隊が配備されていた頃は、その大隊長が地上戦を担当することになりますので考える必要がありません。仮に地上戦に関する命令は勿論のこと、指示や要請といったものを赤松大尉がしていたら、指揮系統や命令系統上において大問題になっていたと思われます。
 第三大隊が第三戦隊に吸収された後も、地上戦や住民対策を考慮する必要はありませんでした。繰り返しになりますが、生死を問わず渡嘉敷島に戻ってこない状況は変わりませんから、残置する戦隊、具体的には元第三大隊の大尉が指揮を執ることになっていましたので、その大尉に全てを一任しても問題がありません。

 それにもかかわらず3月26日の夜、赤松大尉は地上戦と住民対策をしなければならない立場になりました。

「複郭陣地の場所が分からなかった」
「住民のことは考えていなかった」

 個人的には赤松大尉による上記の証言は嘘だとは思われません。赤松大尉の置かれた状況がそれを補佐しています。
 しかし、そんな状況は26日の夜で終了し、以降は複郭陣地のことを誰よりも一番把握しなければならず、住民対策も同時に行われなければならない立場になりました。
 今まで考えたことがないから、あるいは分からないからと、腰を据えて熟考する時間は全くありません。米軍の攻撃がそれを許すはずがありません。

 それでも指揮官の責務として、的確な指令や指揮を早急に出さなければならない時、その傍らには偶然にも鈴木少佐がいたのです。
 当ブログで掲示した仮説が正しいのであれば、最初に渡嘉敷島の地上戦における対処を計画立案したのは、紛れもなく鈴木少佐その人だと思われます。

 どうしていいのかわからない赤松大尉に対して、鈴木少佐ほど的確なアドバイザーはいないのではないでしょうか。

 アドバイザーといえば元第三大隊の大尉もおりますし、鈴木少佐からの引継ぎも行われていたと思われます。しかしながら、幸運にも計画立案の張本人が目の前にいるのですから、その人から色々なことを存分に聞くということは、日常生活の中でも当たり前の行為ですから特に不審な行動ではありません。

 舟艇攻撃から地上戦へのスムーズな転換は、赤松大尉の手腕ではなく鈴木少佐のアドバイスによるものではないか、という仮説が成立することを掲示します。

 ただし、赤松大尉と鈴木少佐が会ったという事実がありますが、具体的にどのような会話を交わしたのか、地上戦に関するアドバイスを受けたかどうかの資料や証言は、現在のところ存在しないということも付言します。

 鈴木少佐側から証言等の資料も存在しません。船舶団長と一緒に渡嘉敷島を脱出し、沖縄本島へ向かっていたのですが、結果的に到着することができず、船舶団長とともに行方不明となってしまいました。


 複郭陣地があったから「地下壕陣地」もあったのではないか、という誤認を誘発したそもそもの原因が、複郭陣地が早い段階で選定されていたことではないかということを前回は掲示しました。

 今回は持久戦や集団自決も軍によって予め決められていたのではないか、という誤認を誘発した原因が、舟艇攻撃から地上戦へのスムーズな転換であり、実際は予定通りでは決してなく、偶然の産物だったのではないかという仮説を提示しました。
 これは「地下壕陣地」の存在とは直接関係ないかもしれませんが、その延長として理解していただくとありがたいです。

 次回以降に続きます。

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