空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 前編⑥

沖縄戦に「神話」はない──「ある神話の背景」反論 第5回と第6回③


 太田氏は「鉄の暴風」の正当性あるいは赤松大尉の自決命令があったとする主張を、第5回と第6回において具体的に掲示しております。
 
 その要点をわかりやすくいえば
  • 「厳重に管理」された手榴弾が住民に渡されるはずがない
  • 防衛隊は完全な掌握下にある
  • 防衛隊が手榴弾を自らの意思で持ち出すことはできない
  • 追加された手榴弾は防衛隊員が決めたことではない
  • 全ては指揮官の命令・許可・意思がなければ成立しない
 ということになるのではないかと思われます。

 この論争は太田氏と曽野氏によるものなので、次はこの点について曽野氏がどのように反論しているかということになります。
 しかし曽野氏の具体的な反論は次回以降、自ら執筆した「「沖縄戦」から未来へ向かって」の連載順に沿っていったほうが無難であると判断しました。従ってその都度取り上げていきたいと思います。
 そういうことでありますから、今回は上記の主張について個人的見解をもって分析・検証したいと思います。

 まずは「厳重に管理」された手榴弾についてですが、太田氏が何をもって「厳重に管理」されていたのかが気になるところでもあります。太田氏の主張が具体的にどのようかを把握するために、少し長いですが第5回から引用させていただきます。

 
「武器管理の常識
 (中略)切迫した状況のなかで、手りゅう弾五十二発が住民に渡されたのだが、そのことがいちばん重要な意味を持っている。
 
 これだけの手りゅう弾は、装備劣悪な赤松隊(第三戦隊──引用者注)にとって、かなりの比重をもつ火力であったはずである。(中略)自分は(赤松氏のこと──引用者注)知らぬと言っていたようだが、防衛隊員が、どういう理由で、自分の意思で、同じ島の住民である非戦闘員に手りゅう弾を渡すのか、その動機や理由が理解できないし、防衛隊員もまた、大切な武器である手りゅう弾を上官の許可なく他人に渡したりすると、軍規上、厳しい処罰を受けるおそれがあることを知らなかったはずはないのである。

(中略)軍隊の指揮官が武器の取り扱いについての注意もなしに武器をあたえることは考えられないのである。」


 最初の気がかりは「厳重に管理」についてというより、手榴弾が「52発」という、明確で具体的にカウントがされていることです。
 「鉄の暴風」では防衛隊員によって32発が持ち込まれ、さらに20発が追加されたという描写を受けたものであると同時に、生存者のどなたかがその個数を証言したものである可能性が非常に高いものです。ノンフィクションを謳った「鉄の暴風」やその執筆者である太田氏が証言する取材方法を信じるならば、生存者の中の誰かとしか考えられません。
 しかし、このように正確な個数が判明する状況だったのであれば、なぜ「赤松大尉の命令」を聞いた人がいないのか不思議です。

 手榴弾の個数と「自決命令」を比較した場合、よりインパクトが強い、あるいは印象が強いという点を考慮すれば、「自決命令」のほうが圧倒的に強いのではないでしょうか。
 「自決命令」はすなわち「死ね」と同意義です。現代の日常生活は勿論のこと、戦死することが常態化していた戦争中であったとしても、「死ね」と言われたり死ぬことを命じられたりしたならば、常識的に考えると手榴弾の個数より衝撃的な心象を受けるのではないでしょうか。
 しかも彼らは死を前提にした特攻隊員ではなく、ましては通常の兵隊でもありません。太田氏のいう非戦闘員であるはずの住民でした。防衛隊員も軍隊経験はあるとはいえ、いわば臨時雇いの身分で限りなく住民側に近いものでした。

 衝撃が強ければ強いほど残るものというのであれば、どうして誰も赤松大尉の命令を聞いていないのでしょうか。あるいは「聞いたことがある」といった証言が出てこないのでしょうか。

 自決命令の出所はどんなに探しても「鉄の暴風」だけにしかないのです。正にオンリーワンなのです。それとも可能性は非常に低いのですが、自決命令を聞いた住民だけが亡くなってしまったのでしょうか。
 なお、証言がないことについては当ブログ「誤認と混乱と偏見が始まる鉄の暴風」にて詳細に考察しておりますので、ご興味のある方は一読をお願いいたします。
 
 防衛隊員が手榴弾を持ち込んだことについては、「鉄の暴風」以外でも多数の証言によって判明しております。
 つまり、手榴弾の数と誰が手榴弾を持ち込んだのかということは、住民たちの証言によって把握できているのに、自決命令だけは全く証言がないというのが、この論争がおこなわれた1985年当時の現状でした。それは2020年現在も続いております。

 集団自決自体、現代の日本人からすれば想像を絶するような混乱や混沌があったことは間違いありません。また、住民の方々がどのようにして集団自決を行ったのかという実情は、それを知れば知るほど憂鬱さが深まるばかりです。
 しかしそういった大変な状況なのにもかかわらず、考えようによっては些末的ともいえる手榴弾の個数は正確に把握できても、よりインパクトが強い「自決命令」の経緯が、全く把握できていないという状態があるのも事実だと思います。
 そして残念ながら、なぜそうなるのかが理解できません。別の言い方をすれば、あまりにも「具体的すぎる数」の持つ意味が腑に落ちないのです。

 繰り返しになりますが、手榴弾の数はそれを証言した住民がいた可能性が非常に高いです。ただし、ここで住民の証言が「嘘かどうか」を詮索するつもりはありません。

 太田氏の主張を見る限り手榴弾が52発というのは、彼にとってゆるぎない既成事実であるようです。それを基調として自らの論理展開が始まるのですが、上記の疑問が払拭されない限り、残念ながら説得力に乏しいと言えるのが個人的見解です。


次回以降に続きます。

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