空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 後編③

「土俵を間違えた人」第1回③


前回の続きです。

 「住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために二十発増加された」(別掲 「鉄の暴風」)


 2020年現在、誰が32個の手榴弾を渡し、誰が20個の手榴弾を持ち込んだのかという具体的なものは不明なままです。また個人的な見解ながら、手榴弾の数は正確に把握しているのに、それを持ち込んだ人物がなぜ不明なのかが不可解です。
 ただし、防衛隊員には2個の手榴弾が支給されたことが、軍人・防衛隊・住民の証言でそれぞれ確認されています。従って52個の手榴弾という具体的な数字に不可解さが残るのではあるのですが、住民と合流した防衛隊員が手榴弾を持ち込んだのは紛れもない事実であります。

 正誤はともかく、「鉄の暴風」は事実であると太田氏は言明しております。それを前提に考慮し、なおかつ太田氏の一連の主張を考え合わせれば、上記の引用で描写された「二十発増加」に着目していると思われます。
 個人的見解になりますが、住民に配布された手榴弾は防衛隊員に支給されたものに加え、「自決用」として既に用意されていたのが「増加された手榴弾」だということを、太田氏は暗に主張しているのではないかと思われます。少なくとも「鉄の暴風」の描写・文脈を常識的に考えれば、そのような帰結になってもおかしくはないと思われます。

 以上のことを端的にまとめるとすれば、「厳重に管理された手榴弾」が別の場所、あるいは別の施設から新たに20個も持ち込まれているが、そこから防衛隊員が勝手に持ち出すことは不可能である。それでもなお持ち出したというのであれば、そこに赤松大尉や軍の「命令・指示・暗黙の了解」があったはずである、ということになるのではないでしょうか。

 別の場所あるいは施設というのは、太田氏のいう「高度な防御陣地」である複郭陣地ということになります。理解しやすいようにもう一度引用いたします。


 「陣地になんの設備もなかったというのもおかしい。通常、陣地の移動は設備の場所を選ぶ。(中略)西山A高地は要塞の場所らしいが、その翌年からきていた設営隊や赤松隊はそこに陣地もつくらず何をしていたのだろう。しかも西山A高地を“複郭陣地”とよんでいる。複郭陣地とは高度の防御陣地のことである」(「沖縄戦に「神話」はない」第7回)


 複郭陣地については当ブログ「沖縄戦に「神話」はない──「ある神話の背景」反論 第7回②」で考察をしておりますが、ここでは太田氏の視点からのものですので詳細は省きます。

 太田氏の主張は、複郭陣地と呼ばれた場所にどんな形であれ完成された施設が存在し、そこで武器弾薬が武器庫等によって厳重に格納され管理されていた、という前提があるのではないかと思われます。それゆえに手榴弾の勝手な持ち出しは不可能であるということです。
 そういうことであるならば、個人的見解としてミスリードではないかと前述した二二六事件の具体例が、この前提によって適切なものになってくると思います。どちらも「厳重に管理された」ことについて、それなりに共通点があることは間違いありません。

 しかし、「沖縄戦に「神話」はない──「ある神話の背景」反論 第7回②」で考察したとおり、集団自決時には太田氏のいう「高度な防御陣地」はなく、複郭陣地というのは地図上のみに存在するもので、実際はそのような施設がなかった可能性が非常に高いのです。
 もう少し詳しく説明すると、第三戦隊は複郭陣地という場所を事前に選定していたが、メインである舟艇基地群の建設遅延によって、サブ的な存在であった複郭陣地の構築は実施されていません。
 しかも米軍の攻撃や上陸が重なってきます。各部隊は当然のごとく各自戦闘を交えながら集団自決が起こる前の時期に、一律ではなくそれぞれの部隊が選定された場所へ移動しました。なお、一部の部隊は集団自決の直後になってから移動が完了したそうです。
 そのような状況の中、現地に到着して初めてタコツボや地下壕といった、陣地の本格的な構築を実施するのです。
 つまり集団自決の直前から陣地の構築・建設が開始され、完成したのは集団自決が行われた後だった、という可能性が非常に高いのです。また、これらは軍人や住民の証言でも裏付けることが可能な状態であります。

 太田氏が主張する「厳重に管理された手榴弾」という前提自体、もっと具体的にいえば、前回の「精神的に厳重管理された手榴弾」とともに「物理的に厳重管理された手榴弾」という前提にも、これで大きな疑問が生じてしまうのです。
 太田氏の主張に反して、厳重に管理できる場所・施設自体がなかった可能性が非常に高いのです。

 なお、複郭陣地については当ブログ「誤認と混乱と偏見が始まる「鉄の暴風」でも詳細に考察しておりますので、重複を避けるため今回は省略させていただきます。

 それでは「鉄の暴風」に描写された「追加された手榴弾」そのものがなかったのか、あるいは防衛隊員に支給された手榴弾以外のものはなかったのかというと、必ずしもそうとは言い切れません。

 「鉄の暴風」に描写された「追加された手榴弾」が事実だと仮定し、そうであるならばどのように追加されたのかを考察・検証した場合、もう一つの仮説を提示することが可能になります。
 この仮説は太田氏が主張する「厳重に管理された手榴弾」という前提を更に崩す可能性が高くなる仮説にもなりますので、これから詳しく解説したいと思います。


次回以降に続きます。

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