空と無と仮と

渡嘉敷島の集団自決 沖タイ連合と曽野組の仁義なき戦い 中編⑦

「沖縄戦」から未来に向かって 第4回


 曽野氏は第4回において二つの主張をしておられます。

 一つ目は太田氏の主張と同様に、曽野氏も当事者の証言を複数得ていることです。


 「私が現実に、島の人たちから聞いた赤松氏に対する見方を、太田氏は今回も全く無視している。島の人の中には、もちろん私などには会いたくない、という人もいたはずである。しかしその反面、私の「ある神話の背景」を読んで頂ければ分かることだが、決して一人は二人ではない多数の人々が、生死を共にした赤松隊に会うことや、彼らとの戦争中の体験を私に語ることを、少しも拒まなかった」


 上記は第4回からの引用ですが、「ある神話の背景」は住民のスパイ視及び処刑といった集団自決後の出来事を含んでおります。当ブログでは集団自決に関する事柄のみを取り扱う所存でありますから、その部分で曽野氏の「島の人たち」を取り上げてみると、元渡嘉敷村長と駐在巡査が典型的な例となります。
 元村長と駐在巡査については再三取り上げており、「ある神話の背景」でもハッキリと「自決命令は聞いていない」という証言がありますので、今回はこれ以上の考察はしません。

 その他も当時12歳だった住民の証言や、実名を伏せた座談会形式の証言も掲載されております。ただし、曽野氏が取材した複数の住民の証言によって、赤松大尉の「自決命令」が出されたかどうかについては、少なくとも元村長と駐在巡査を除けば全くの不明な状態であることも確かです。

 太田氏が執筆した「鉄の暴風」は当事者以外の証言から得た「伝聞証拠」にすぎないという曽野氏の「ある神話の背景」に対して、太田氏は「沖縄戦に「神話」はない」にて、自ら直接取材をしたという反論を行っており、具体的な当事者の氏名も明かしております。
 この反論に対する曽野氏も、自ら当事者に取材した結果が「ある神話の背景」であることを今回は主張しているようです。

 お互いがお互いに当事者への取材を行った結果、それぞれの主張が真逆の展開になっているという不思議な現象が再び浮き彫りになっています。

 月日の経過や記憶の不正確さによって当事者の証言が微妙に変わってしまうということは、なにも渡嘉敷島の住民に限らず、全てにおいて起こりえることだと思われます。
 ただし、今回の場合は集団自決で重要なキーパーソンである元渡嘉敷村長の存在が、赤松大尉の「自決命令」の点において、非常に曖昧な立場になっているというのが現状にあります。

 元村長の曖昧さについては既に当ブログで言及しており、詳細については省略します。ただ、それを簡略化すると「ある神話の背景」にて「自決命令は聞いていないが、自決命令があったようだ」という元村長の証言があり、複数の生存者によって元村長の号令で集団自決が始まったことが確認され、自決命令が出されたと主張する「鉄の暴風」の取材時において、太田氏の主張が正しいのであれば、元村長もその取材に応じているということです。

 
 二つ目の主張は、赤松大尉が発した「自決命令」は結局のところ「鉄の暴風」のみというものです。
 この件に関しましては既に「ある神話の背景」にて詳細な見解が掲載されておりますので、太田氏が「沖縄戦に「神話」はない」の第8回目に対する再反論という体裁ではないかと思われます。参考がてら、太田氏の反論を以下に引用いたします。


 「この三つの資料は、文章の類似点があるとはいえ、事実内容については、大筋において矛盾するところはないのである。それは当然のことで、「鉄の暴風」が伝聞証拠によって書かれたものではないことはもちろん、むしろ、上述の他の戦記資料によって「鉄の暴風」の事実内容の信ぴょう性が立証されたといえるのである」


 「この三つの資料」というのは「鉄の暴風」と「慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要」と「渡嘉敷島における戦争の様相」です。資料に関する詳細な説明は先述しておりますので省略します。

 集団自決に関する三資料が全くといっていいほどの同じ間違いがあり、発行年代順からすれば「鉄の暴風」の引き写しである可能性が高い。従って赤松大尉が発したとされる「自決命令」の根拠は、結局のところ「鉄の暴風」だけではないのかという曽野氏の疑問なのですが、この件については繰り返しになりますが「ある神話の背景」にて既に提起されております。
 このような曽野氏の疑問への反論が、既述したように「沖縄戦に「神話」はない」の第8回目で提示され、それへの再反論というのが今回の主張ということになります。

 同じ当事者が同じ経験をしているのであれば、同じ間違いをしても不思議ではなく、むしろ信憑性が高まるといったことを太田氏は主張しますが、それに対する曽野氏の主張を以下に引用いたします。


 「しかし私は再び太田氏に問いたい。米軍が島に上陸した日、といえばそれはおそらく島民にとって、忘れようとしても忘れられない日であったろうが、その日を三つの資料が三つとも三月二十六日とまちがって記載するということも自然なのだろうか。(中略)三つがそろって誤記するということはほとんどあり得ないものなのである」


 ちなみに米軍が渡嘉敷島へ上陸したのは三月二十七日の朝です。

 「慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要」と「渡嘉敷島における戦争の様相」については、発行されるまでの詳細な経緯が2020年現在でも不明のままです。この論争がおこなわれた1985年当時も当然ながら経緯は不明で、そういった理由があるからこそ、両者の主張が食い違う結果となっているということです。従って太田氏の主張と曽野氏の主張のどちらが正しいのかについては、ここでは全く判別することができません。
 あとに残されているのはどちらに説得力があるのか、あるいは整合性があるのかという推測しかできませんので、これ以上の考察は省略いたします。


次回以降に続きます。

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