残照日記

晩節を孤芳に生きる。

緊急提言

2011-06-25 15:37:33 | 日記
∇周知の通り、「新しい日本をつくる国民会議」(21世紀臨調)は、経済界、労働界、学識者、自治体関係者、報道関係者、NPO関係者など国民各界の有志約150名が結集し、「政治を変え、日本を変える」ために活動している。佐々木毅(前東大総長)、茂木友三郎(キッコーマン会長)、北川正恭(早稲田大学大学院教授)、西尾勝(国際基督教大学大学院教授)が共同代表である。この6月16日に「現下の政治に対する緊急提言」と題する提言をまとめた。これをたたき台にして今後色々考えてみたい。先ずは提言内容全文を掲げておくことにしよう。

【現下の政治に対する緊急提言】 

≪政党政治は競争と協力の政治≫
日本の政治はもはや先進国の政治とは呼ぶに値しない有様になっている。先進国の政治とは競争と協力を通して眼前の課題を着実に処理しうる政治であるが、日本の政治はこの水準から確実に滑り落ちつつある。国会議員たちのこの点についての危機感の希薄さこそが、危機の深刻さの何よりの証である。政党政治は競争を旨とするが、状況に応じて一定の協力を惜しまない一つのシステムである。ところが日本では二院制の制度的不具合もあって、競争乃至対決の要素ばかりが強まり、政権の慢性的な危機が発生してきた。いったん、衆参の「ねじれ」が生じ、制度的不具合が露出した場合、それを乗り越える鍵は政党内部の卓越したガバナンスにしかないが、政党自身の求心力は高まるどころか解体傾向を深め、政権は摩滅する一方の状態にある。このことに対し与野党はそれぞれに責任があるが、衆参両議長がこの危機に際し何ら建設的なイニシアティブをとろうとしない姿はまさに異様の一語に尽きる。

≪政権と政党の統治に失敗した民主党≫
民主党は政権と政党の統治に相次いで失敗し、マニフェスト(政権公約)の信用を失墜させ、日本国総理大臣の地位と政治主導の名を地に堕しめた。過日の内閣不信任案に際して前首相と現首相との間で交わされたとされる文書やその後の「ペテン師」呼ばわりは、まさに語るに堕ちた姿をさらけ出したというべきである。それら一連の失態は本来であれば下野に値するものといわざるを得ない。かりに一縷の光明を見出そうとするならば、統治の失敗と破綻した総選挙時のマニフェストについて徹底的な総括をおこない、新たな代表の選出を通して党の求心力と政策の軸の回復を地道にはかる以外に道はない。こうした政党としての自律性の涵養、自己規律の回復を疎かにしたまま、代表選レースや連立話ばかりを弄ぶならば、民主党はさらに失敗を繰り返すことを自ら選択したに等しい。

≪大連立騒動で問われていること≫
最近話題のいわゆる大連立について言えば、現下の国家的危機に強い基盤で対処するため、政党政治の正常な協力機能を回復させようとする試みの一つの手段である。否定はしないが、衆参両院の国会審議を含め「機能する政権」を実現することが眼目であるなら、特定の形態にこだわる必要はなく、様々な知恵が工夫されてよい。当然、衆参両院関係が重要な課題となる以上、両院議長の出番も果たすべき役割もまた大きい。ところが、現在の大連立騒動は定義も目的も手続きも曖昧なまま、ムードや言葉だけが独り歩きしているように見える。政策本位の視点も、政党の求心力・自己規律回復への努力も欠いたまま、無原則に多くの議員を糾合するだけの巨大政権ならば、「機能する政権」を実現することには到底ならない。国会機能が巨大な与党事前審査として院外へ大幅に流出する一方、徒に政権内の混乱と「動かない政治」を助長するだけである。それ以前の問題として、党内をまとめきれない政党に、大連立を成し遂げるだけの力量が果たしてどこまであるかも厳しく問われねばならない。

≪無責任な野党の拒否的政治姿勢≫
自民党を初めとする野党もこの非常時にいつまで拒否的政治姿勢を続けるつもりなのか、その態度を厳しく問われるべきである。先の内閣不信任案にしても、国民の多くはそんなことをしている場合かとその姿勢に疑問を禁じ得ないでいる。大地震・大津波・原発事故という未曽有の事態が眼前に横たわっている中で、被災によって総選挙は事実上不可能な局面であるにもかかわらず、代わるべき首相候補も建設的な政権構想も国民に説明しないまま、ひたすら首相の退陣のみを要求する姿は国民の理解を到底得られるものではない。

≪与野党合作による政党政治の自滅≫
野党は日本国総理大臣の使い捨てに加担していると言われても仕方がない。いつまでも政権批判だけに軸足を置き続けることは、党内のガバナンス上は容易かもしれないが、それこそが「野党病」の危険な誘惑ではないかという危惧を覚える。結果として、この未曽有の事態にあって、被災地を含めすべての国民をおきざりにしたまま、与野党合作で、日本国総理大臣の地位をさらに失墜させ、日本の政党政治は自滅に歩みを進めているとしか思えない。

≪国民の自覚≫
日本政治の国際的な評価は著しく傷つけられた。これ以上、ダメージを大きくするわけにはいかない。目下の緊急課題はまさに日本国における「政権」の存在そのものが怪しくなり、内外から厳しく問われている点にある。そもそも民主政治は破天荒な英雄の存在を前提にしない制度である。ないものねだりをしていればよい時代は過ぎ去ったのである。それほど日本の現実は厳しいことを肝に銘ずる必要がある。われわれ国民の側も、総理大臣の一挙手一投足をあげつらっては潰し続け、政権批判をしていれば物事が前進するかのような錯覚からそろそろ卒業すべきである。政党政治がこのような惨めな姿になった責任の一端は間違いなく国民にもある。この意味で、国民の視線もまた試されている。われわれは以上の認識にもとづき、現下の政治情勢と今後の政党政治の筋道について以下の提言を行うものである。

≪提言項目≫
【首相の責任】
第1. いまの民主党は政党の体をなしていない。東日本大震災がなければ、本来なら解散総選挙を行い、出直すのが筋である。事態収拾の道筋をつける究極の責任は首相にある。ことここに至った以上、首相は会期末までに退陣の時期を明らかにすべきである。そして、代表選挙から与野党協議、首班指名に至る手順と時期を早急に決定し、国民に示す必要がある。かりに各党と政権等の協議を行うのであれば、代表選挙を通じて党内合意を取り付けた上で、新代表のもとで公党間の正式な手続きに則り行うべきである。
【代表選挙のあり方】
第2. 民主党の代表選挙は「政策本位」で行うべきである。代表候補はこれまでの統治の失敗の反省を踏まえた上で、「総選挙時のマニフェストの見直し方針」と「今後の政権運営・政権枠組み・国会運営」という「政策」と「仕組み」の二点を「党首公約」として必ず明示し、代表選挙を通じて党内合意をとりつける必要がある。代表選後は、選出された新代表の公約を党方針に落とし込み、所属議員はその方針に従うことを約束すべきである。このプロセスを踏むことなしに単に代表のみを入れ替えても、民主党の混乱の繰り返しは避けられない。
【政策協議と国会の仕組みづくり】
第3. 国民は与野党の不毛な政争にうんざりしている。野党も拒否的政治姿勢を早急に改め、与野党で知恵を出し合い、政策協議や国会運営などについて非常時の協調的な仕組みを作るべきである。例えば、政権を共有しないまでも政策テーマごとに政党間で調整・協議を行い、合意形成を促進する場を院の内外で設ける必要がある。また、衆参両院議長の積極的な斡旋で各党党首を招集し、国家や国民生活上の重要案件について議長指揮の下、両院合同の会議を設け、遅滞なく合意形成が行われる仕組みを立法府の意思として作ることなどを検討すべきである。また、現下の危機に対応するため、会期を年末まで大幅延長し、事実上の「通年国会」を実現すべきである。
【連立協議について】
第4. いわゆる大連立については、国民生活が戦争に匹敵する危機管理的な非常事態にあり且つ総選挙等の政党間競争による決裁が事実上不可能又は望ましくない期間及びそれでは解決できない事態、政権交代時代においてどちらが与党になっても直面する課題や制度的環境の解決を行う場合に成立しうる。ただし、定義や目的が曖昧になりがちな「大連立」という言葉よりも、特定目的のために期間を限定して政権を共有するという意味で、政策本位の「○○特命政権」という言葉のほうが国民に分かりやすく、政党間の競争と規律の確保にも有用と思われるので検討を促したい。

第5. なお、かりに民主党と自民党を中心に政権協議を行うのであれば、民主党は解散総選挙の時期や取り扱うべき課題を公党間で事前合意することを前提に、野党第一党の自民党に首相の座を譲ることで政権共有を含めた時限的な協調体制の構築を申し入れるくらいの、大胆な検討がなされてもよい。以上は、国家的危機にありながらなお動こうとしない政治を動かすための提案である。方法は様々に考えられるのであり、一つではない。その智恵を出し合うのは与野党全体の責任であり共同作業である。そして、遅かれ早かれ総選挙によって国民の審判を受ける日が訪れる。国民の目からすれば、その時までに違憲状態にある衆参両院の定数格差の不均衡を解消しておくことは与野党に課せられた責務であり、衆参同日選挙によって「ねじれ国会」の打開をめざすこともきわめて合理的な選択肢の一つである。

不争の徳

2011-06-24 18:42:53 | 日記
【老子の道】
天之道、利而不害。 (天の道は利して害せず)
聖人之道、為而不争。(聖人の道は為して争わず)
(「老子」第八十一章)

≪パン国連事務総長、再任演説に「老子の名言引用」―中国新聞網は22日、今年いっぱいで任期の切れる潘基文(パン・ギムン)国連事務総長が次期も続投することが決定し、老子の言葉を引用して再任演説を行ったと伝えた。国連の公式ページによると、任期は来年1月1日からの5年間。潘事務総長は、1945年のサンフランシスコ会議で用いられたオリジナルの「国連憲章」の上に左手を乗せ、右手を掲げながら再任を宣言。就任演説では中国の古代哲学者である老子の「天の道は利して害せず、聖人の道は為(な)して争わず」という文言を引用し、「このような普及の知恵を今の仕事に生かし、百家争鳴の中から行動の統一性を見いだす」ことを強調した。また、気候変化、金融危機など世界規模の危機が訪れる時代において協力関係を強め、協力的かつ一致した行動を取らなければならないとし、「国連事務総長として全力を尽くしたい」と意気込みを新たにした。≫(6/22 サーチナ)

∇【国際連合憲章】前文:≪われら連合国の人民は、われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること並びに、このために、寛容を実行し、且つ、善良な隣人として互いに平和に生活し、国際の平和及び安全を維持するためにわれらの力を合わせ、共同の利益の場合を除く外は武力を用いないことを原則の受諾と方法の設定によって確保し、すべての人民の経済的及び社会的発達を促進するために国際機構を用いることを決意して、これらの目的を達成するために、われらの努力を結集することに決定した。よって、われらの各自の政府は、サン・フランシスコ市に会合し、全権委任状を示してそれが良好妥当であると認められた代表者を通じて、この国際連合憲章に同意したので、ここに国際連合という国際機構を設ける。≫

∇1944年、 米国、英国、中国、ソ連の代表がワシントンD・C郊外のダンバートン・オークス・ガーデンで会議を開き、憲章の原案となる「一般的国際機構設立に関する提案」を作成、45年10月24日正式に成立した。日本は1951年(昭和26)9月8日、サンフランシスコ平和条約を全権委員(吉田茂首席全権)が署名し、1952年、日本国として国際連合への加盟申請を行うことを閣議において決定、56年に加盟した。加盟国は2010年現在192カ国である。前文にある≪基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権≫≪共同の利益の場合を除く外は武力を用いないこと≫≪すべての人民の経済的及び社会的発達を促進する≫等々は、実際のところ“謳い文句”で終わっている。老子の「利して害せず、為して争わず」という名言の実現を望む者である。その為のキーポイントは、第六十七章にある、所謂“老子の三宝”の実践にある。曰く、≪我に三宝有り。持して之を保つ。一に曰く、慈。ニに曰く、倹。三に曰く、敢て天下の先とならず≫と。先ずは相手に対する慈=慈しみの心、温かい思いやりの心。ニには、倹=倹約、つつましやかなこと。自分ばかり欲張らないこと。そして三つ目が、「オレが/\」、とシャシャリ出ないこと。他者に譲る精神を持つこと。それが出来れば世界は間違いなく“四海の内は皆な兄弟”(「論語」顔淵篇)たり得る。──是非そうあって欲しいものだ。暑いので今日はこゝまで。


情報選択

2011-06-23 18:39:39 | 日記
【喧々諤々】
≪ナニ、誰を味方にしようなどと云ふから、間違ふのだ。みンな、敵がいゝ。敵が無いと、事が出来ぬ。国家と云ふものは、みンながワイ/\反対して、それでいゝのだ。≫(「海舟座談」より)

≪菅首相、続投に意欲=「復興へ燃え尽きる覚悟」 菅直人首相は23日午後、今後の政権運営に関し、「(東日本大震災からの)復旧・復興と、福島第1原発事故の収束に向け全力を挙げ、燃え尽きる覚悟でこのことに取り組みたい」と述べ、続投への意欲を表明した。沖縄県糸満市内で記者団の質問に答えた。≫ (時事通信)

∇70日の会期延長劇は、当然ながらマスコミの一斉批判を受けている。例えば6大新聞の今朝の社説の題名をあげれば、中味が推察できる。<70日会期延長 政治の機能不全極まれり>(産経)<国会会期延長 首相延命策には付き合えない>(読売)<延長国会―さっさと懸案片づけよ>(朝日)<国会70日間延長 政治の原点を忘れたか>(東京)<70日延長 国会こそ復興の道歩め>(毎日)<延長国会で懸案処理し退陣へ道筋を。>(日経)──批判の内容は常識的に鑑みれば誰もが同感するであろう「茶番劇」のことで、全紙それを糾弾している。問題は今後どうすべきか。相も変わらず首相の早期退陣を叫んでいるのが読売・産経だ。<早急に首相の職を辞すべきだ。新しい体制を築く以外に政治再生への道はない。>(読売)<できる限り早く、衆院解散・総選挙を行い、民主党政権の是非に対して、国民の審判を仰ぐべきである。それが難しいなら菅首相は一日も早く退陣して「新たな体制」を構築し、東日本大震災という国難を克服せねばならない。>(産経)

∇何故未だに“早期退陣”“菅降ろし”を訴えねばならないのだろう。殆どの新聞が<政治空白をこれ以上広げてはなるまい>と尤もらしい言葉でそれを表現しているが、「政治空白」は現実にあるのか。あるとしたらどの点で空白があり、それは菅首相が退陣表明をしないからか。与野党こぞって「菅降ろし」のみに明け暮れているからではないのか。マスコミの使う常套語でぼかされてはいけない。この点は再度自分の頭で検証してみる必要がある。もう一つ日経がこんな指摘をしている。<すでに退陣を表明し、与党内の支持を失った菅首相がいつまでも政権の座にとどまれば、日本の国際的な地位低下をさらに加速させかねない。> これも尤もらしく聞こえ、かつよく用いられる言葉であるが、<日本の国際的な地位低下云々>には疑義を感じる。早期退陣をしないからそうなるのか。仮に<国際的な地位低下>があるとしたら、恐らく、この大震災の最中、菅首相+与野党の繰り広げる「茶番劇」全体を以て、日本の政治のレベルの低俗性を失笑するだけの話だろう。他国のことに彼らも構ってはおれない事情を抱えているからだ。

∇<自民党は首相の退陣をめぐり民主党内の模様眺めだった。首相の下では人災が広がるなどとして、「一日も早い退陣」を求めていた対決姿勢はどこへいったのか。>と、自民党を責めたのは産経のみだった。賛成だ。今回の一連の「菅降ろし」劇は、喧嘩両成敗だ。そこで、次の朝日の提案は一考すべきだと思うがどうだろう。<内閣不信任案が否決されている以上、首相を引きずりおろすのは容易ではない。 ここは、すべての国会議員が大胆に発想を変えたらどうか。 「首相おろし」で与野党が協調できるのならば、首相が意欲を示す政策課題に取り組み、さっさと片づけてしまうのだ。 慎重を要する審議を早く打ち切れというのではない。進めるべきことをきちんと進める。それだけで、首相がとどまる理由を消していける。>と。例えば、「特例公債法案」「 再生エネ法案」等の<成立を引き延ばして首相を追い込む戦術を改め(早期に)成立させるのだ>と。結局、70日延長をどう活用するか、が大切だ。<菅直人首相の退陣時期を含めすべてが先送りされた観があるものの、新ステージに入ったのも事実だ。これを機に国会の再生を強く望む。>(毎日)<与野党合意なき延長で対立激化が避けられないとしても折角の国会延長だ。国民、特に被災者の思いに応える論戦を交わしてほしい。>(東京)


窮鼠猫を噛む

2011-06-22 19:21:46 | 日記
<国会会期70日間延長を議決──22日夕方開かれた衆議院本会議で、この日が会期末の今の国会を8月31日まで70日間延長することが、与党などの賛成多数で議決された。>(6/22 午後5時2分 NHKオンライン)

∇<午後4時から衆議院本会議が開かれ、各党が、会期の延長に賛成と反対の立場から討論を行った。このうち、民主党の高山智司氏は「被災者のみならず、すべての国民が、与野党が協力して取り組むことを期待しており、今後もオールジャパンで震災対応に取り組むことが必要だ。野党側は、政局優先で会期の延長に反対すべきでない。震災復興には夏休みはなく、与野党は全力で働くべきだ」と述べた。これに対し、自民党の木村太郎氏は「菅総理大臣は自分の地位を守るために公党間の信頼関係を壊した。『熟議の国会』と言っていたが、全くのうそだった。民主党も政党の体をなしておらず、菅総理大臣の下では被災地の復旧・復興は進まない。菅総理大臣は一刻も早く退陣すべきだ」と述べ、70日間の会期の延長に反対する考えを示した。そして、採決が行われた結果、与党と、共産党、社民党、みんなの党などが賛成、自民党と公明党、たちあがれ日本などが反対し、賛成多数で70日間の会期延長が議決された。>(同上)

∇尚、午後7時のNHKニュースでは、菅首相の下で、2次補正と特例公債法案を成立させる、再生可能エネルギー促進法案を実質審議入りさせる、3次補正は「新体制の下で対応」するとしている。首相退陣の時期に加え、会期延長日数でも二転三転したギクシャク決議は、残る70日にもつれ込むことになった。特に、「新体制の下」の「新体制」が何を意味するのかが不明で、今後の論議の的になる。この「国会会期70日間延長」が、大震災復旧速度、復興諸政策、そして与野党、ひいては日本の将来にどのような影響を与えるかは、現在のところ全く予測できない。要するに今後70日間の首相・与野党の姿勢次第である。我々は事態の推移を注視し、百出する筈のマスコミや評論家の言い分を冷静に自分の頭で咀嚼し、かつ彼らを監視することが大切であろう。「政治の質は、国民の質に左右される」のだから。どう監視し、政治の質をどうレベルアップしていくべきかは、現在当ブログの課題でもあるので、次回以降順次述べていこうと思う。今回は、菅首相がこゝまで粘り腰で退陣拒否し続けている理由と、「菅降ろし」失敗の原因を探ってみたい。

∇辞めない理由のヒントは次の6月12日付け読売新聞の記事にある。<「四面楚歌」の菅首相、被災地で励まされる──菅首相は11日、東日本大震災の発生から3か月を迎えたのに合わせ、津波などで大きな被害を受けた岩手県釜石市を訪問した。首相の被災地視察は、2日の退陣表明後は初めて。同市の魚市場を訪れた際、漁業関係者から「辞めないで頑張ってください。ここに来る時間があるなら、早く予算を付けてください」と迫られた首相は、「必ず付けます」と応じた。また、同市内のボランティアセンターでは、同行していた辻元清美首相補佐官に勧められ、被災者に向けた寄せ書きに「決然と生きる 菅直人」とメッセージを書き込んだ。政府・与党内からも早期退陣を迫られるなど「四面楚歌」の首相だが、その後に訪れた避難所では、被災者から「いつもテレビで見て応援してるから」「頑張って」と励まされると、しみじみと「ありがとうございます」と繰り返していた。> 又、「再生エネルギー法案が成立するまで、辞任しない、私の顔を見たくなければ、この法案を早く通した方がいい」と述べ、 ソフトバンクの孫正義社長に「驚異の粘り腰」を称賛された。出席者の「辞めないで」の声には、ピースサインで 応えていた事などに……。

∇もと/\2日の退陣表明の翌日、朝日新聞や毎日新聞は、一面トップに、<今年の秋前後に退陣を示唆>と理解した。即刻に辞任だと騒いだのは産経新聞であり、読売がやゝ近い表現をした。そして野党は勿論のこと、身内も読み違えた。<内閣不信任決議案否決後、岡田氏らが「長く居座ることはない」などと一斉に早期退陣への道筋を付けようとしたことに、首相は「手のひらを返されたと思い、相当びっくりした」(政府関係者)という。その後も仙谷由人代表代行(官房副長官)が特例公債法案の成立と引き換えの早期退陣に繰り返し言及し、首相は反発を強めているとみられる。首相が耳を傾ける相手は、今や北沢俊美防衛相と亀井静香国民新党代表ぐらいだ。>(6/22時事通信) 振り返れば、対中国・ロシア・普天間等外交問題での野党からの追求、菅─鳩山─小沢の「トロイカ体制」の分裂、更に未曾有の大震災に於ける菅首相の初動の言動が原発事故の元凶であり、総てが「後手だ、後手だ」の非難続き。そして就任から今日まで、「イラ菅」「ダメ菅」「スッカラ菅」「史上最低の首相」等あらゆる罵倒を身に浴び続けた首相。挙句の果て「辞めろ/\」コールのみ。──まさに“四面楚歌”敵・味方の声あれども、首相として、一つくらい実績は残しておきたい、と考えるのは寧ろ当然ではなかろうか。

∇首相が「依怙地」になっている一番の理由は、やはり身内からの不信任であろう。鳩山氏の「ペテン師」、小沢氏の再三の「菅ではもうダメだ」、言われる筋合いのない参院の西岡氏の「急流での馬替え」発言、そして側近らの野党に媚びた早期退陣要求、その他側近たちの発言ミスや献金疑惑。etc etc 今まさに“窮鼠猫を噛む”心境なのだろう。そうあってはならぬのが「宰相」たるものの資格であることは重々承知の上で“切れた”のだろう。老生は何度も書いたように、決して菅首相を弁護しようとする者ではない。たゞ、「菅降ろし」が余りにも下手過ぎる。その政治的技術が未熟なために、国会が混乱し、ひいては与野党共々国民の「信」を失い、遂には最近、香港のある筋から、「国民一流、官僚二流、政治家三流」の汚名を頂く羽目になっている。菅首相も普通の人間だ。褒めてもらいたいのだ。頑張れと励ましてもらいたいのだ。花道を上手く演出すべきなのである。それが結局は国民のためでもある。「菅降ろし」には、今後次の鉄則を守るべし。≪孫子曰く、囲師には必ず闕(欠)き、窮寇には迫ること勿れ、と。(九変篇)──孫子が言うには、包囲した相手には、必ず逃げ口を開けておけ。進退極まった相手を追詰め過ぎてはならない、と。≫

田能村竹田

2011-06-21 18:14:36 | 日記
【一適意也】(気の向くまゝに) 田能村竹田詩
書棚から気まゝに本を取り出して読む。それは、散文であったり詩であったりする。特にこの書をいつまでにと決めたりはしない。その時の気の向くまゝだ。読むのは或いは一二行、或いは十数行、或いは最後迄。その時の気の向くまゝだ。読むのは或いは一二行、或いは十数行、或いは途中迄。その時の気の向くまゝだ。楽しいことに出合えば笑う。その時の気の向くまゝだ。悲憤することに出会えば泣く。その時の気の向くまゝだ。しっかり記憶して忘れない。その時の気の向くまゝだ。忘れてしまって覚えていない。その時の気の向くまゝだ。

≪原文:凡そ書室の中、手に随(従)ひ帙(ちつ)を抽(引)きて読む。或は文或は詩、敢て課を以て限を作らず、一適意也。読むところ或は一二行或は十数行或は終篇を要す、一適意也。読むところ或は一二行或は十数行或は終篇を要さざる、一適意也。楽事に遇ひて笑ふ。一適意也。悲憤に遇ひて泣く、一適意也。記して忘れざる、一適意也。忘れて記せざる、一適意也。≫(「随縁沙弥語録」より)

∇「出光美術館」拝観記の最終回。富貴花(牡丹)ばかりを一堂に会したコーナー「富貴花の展開」に、「春園富貴図」なる気になる一幅があった。大輪の牡丹が鮮やかに描かれている。田能村竹田画とある。名前だけは聞き知っていたが、その人となりを全く知らない。気がかりだったので、帰って早速調べてみた。事典・辞書類を幾つか当ってみたら、凡そ次の如き人物像が浮かんできた。<田能村竹田(たのむら ちくでん) 江戸後期の文人画家(1777~1835)。豊後(ぶんご=大分県)竹田の人。名は孝憲、字(あざな)は君彝(くんい)。通称は行蔵。九畳仙史・竹田老圃・随縁居士等を号した。藩政に対する不満から官を辞し、頼山陽・浦上玉堂などの文人墨客と交わる。谷文晁らに師事、近世に於ける南画の名手として知られている。「亦復一楽帖(またまたいちらくじょう)」に代表される清高淡雅な絵を描く一方、詩文にもすぐれた。画論書に「山中人饒舌」がある>。上記<藩政に対する不満から官を辞し>については、前々回引用した森銑三著「偉人暦」には次のように載っている。

∇<彼はただ画人としてのみ伝うべき人ではなかった。豊後の岡藩の士で、文化中領内の百姓一揆に、彼は言を尽くして藩侯を諌めた。その建言書の如き、騒擾の罪は有司にありとして、仁政を請い、慈悲を説き、愛の精神の紙面に溢るるものがある。しかもその言は容れられず、彼は三七歳にして致仕(辞職)してしまった。非を見て非を正すことが出来ず、きたない環境に同化して行くには、彼の人格はあまりに清かった。>と。又ぞろ政局が蠢(うごめ)き始めたが、凡そ永田町族とは相容れぬ高潔で毅然とした御仁であったようだ。そのせいだろう、交際は広かったようだが、心を許した友人は頼山陽他数人に限られていた。<「善く書を読む者で六法に精通しているのは山陽一人だ。みんな口先の連中ばかりで、腹に(胆)識がない」などといった。彼の画には山陽が多く賛をした。合作もした。ある時は竹田、長い絵巻を描いて、その上に、「山陽を除くの外、他人の一語を著くるを容さず」と題した。>(同上) 余程偏屈で一刻者だったに相違ない。

∇頼山陽も彼と馬が合った。「岡城に田能村君彝を問う。余、君彝に鞆津(とものつ)に邂逅す。已に五年なり」と題する詩が残っている。岩波「江戸詩人選集」巻八によれば、<文化十一(1814)年10月、広島に帰省していた山陽が京都にもどる途中、大阪から帰郷する竹田と鞆津(=福山市にある港町)で出合っている>。詩を意訳する。<長旅のせいで、草鞋はボロ/\、髪はボウ/\。道を迂回して君を尋ねるが、遠くてもちっとも苦にならぬ。昔二人で海に舟を並べて遊んだのを昨日のように思い出す。今宵林に面した窓辺で、灯下又語り明かせる嬉しさよ。君の屋敷は荒れ果てた空地ゆえ、年貢は不要。荒涼たる裏山を背景に、君の畑でとれた野菜を肴に、私は酔っ払って居座る。出処進退などという面倒くさいことなど、皆な、濁り酒を注いで流してしまおうではないか>。二人の親交ぶりが羨ましい。先述した通り、竹田に随縁居士の号があるが、これは頼山陽が付けた。まさに冒頭に掲げた竹田の詩がそれを裏付ける。彼の画論書「山中人饒舌」は、昨日古本市で買ってきて、今読んでいるところ。孰れ又。尚、田能村竹田の作品は、出光美術館に約200点も所蔵されている由である。二番目に多いのが大分市美術館で45点、以下日本各地24箇所の美術館・博物館に幾点かずつ所蔵されているというから、出光佐三翁の眼識・蒐集力の凄さが分る。

∇余談ながら出光佐三翁は「古唐津」をこよなく愛した。「出光美術館」主任学芸員の荒川正明氏が「出光佐三店主と唐津茶碗の出会い」について触れている。<あるとき(昭和14年)、品川区高輪の出光家に古美術商が訪れ、古唐津の茶碗をみせました。ざっくりとした唐津焼独特の縮緬皺(ちりめんじわ)の土に灰がかけられ、茶碗のちょうど胴部の真ん中に丸の枠のなかに「十」の字を書いたものでした。長い間茶器として使われていたために、茶しぶが素地に入り込み、口には金繕(つくろ)いがしてあります。出光店主はこの茶碗をぱっと見た瞬間、「これは偽物でないか。持って帰れ」と言ったそうです。しかし、茶碗をもってきた古美術商は「いえいえ、これこそが正真正銘の古唐津というものです」とものおじせず、自信満々に応えました。そこで店主は再びじっくりと拝見して納得、けっきょくその茶碗を求めることとなりました。何の造作もない、野武士のような粗削りな作風。そして手にもつとすっぽりとおさまり、安定感のあるかたち。出光店主はどんどんこの茶碗のとりこになり、「丸十の茶碗で」といってお茶を一服所望する回数が増えたと伝えられています。この「丸十茶碗」との出会いから、事実上出光店主の古唐津コレクションが開始され、爾来出光の古唐津コレクションは総数三百点を超す規模となり、国内最大にして最高の内容を誇るに至りました。>。 出光美術館に関しては仙和尚等語るべきことは多々あるが、孰れ又。