残照日記

晩節を孤芳に生きる。

素隠行怪

2011-06-10 18:19:54 | 日記

≪子曰く、「隠れたることを素(求)め、怪しきことを行なうは、後世述ぶること有らん。吾はこれを為さず。…君子は中庸に依る。」>と。「中庸」≫(孔子が言うには「隠れたことを無理に詮索したり、意表を衝いた奇怪なることを行なったりすると、世間では騒ぎ立てして後世にも伝わることがあるだろうが、私はそういうことをしない」と。)

≪孟子曰く、「仲尼(孔子)は甚だしきことを為さざる者なり」、と。(「孟子」離婁下篇)≫(孟子が言うには、「孔子は、極端で人を驚かすような行為・発言はしなかった。いつも中正中庸を旨とし、時宜を得た、調和ある言動をした。)

∇<いつの世にも、悪は絶えない。その頃、徳川幕府は、火付盗賊改方という特別警察を設けていた。凶悪な、賊の群れを容赦なく取り締まるためである。独自の機動性を与えられたこの火付盗賊改方の長官こそが、長谷川平蔵、人呼んで鬼の平蔵である。>は、テレビ「鬼平犯科帳」の出だしのナレーション部分である。或る時、「いまこそ各界にはびこる左翼どもを殲滅するときだという神武天皇のお声を聞いた」と言い出し、「不倶戴天」の敵・朝日新聞を悪の淵藪として敵対論陣を張り、憲法改正や徴兵制の重要性を説く、日本における保守論客の一人とされるのが櫻井よしこ女史である。元日本テレビのニュースキャスター、現在は産経新聞「正論」等の常連批評家。彼女は、顔に似合わぬ強烈な毒舌まがいの菅首相批判を繰り返す。昨日(6月9日)の産経新聞に彼女が投稿した「責任は政権そのものに」と題する「時評」記事を読んだ。曰く、<(外交政策で)この一年間に菅政権が行なったことは、終始一貫、日本を一方的に貶(おとし)めることだった>として現政権の“弱腰外交”を非難するとともに、さらに、国内政治に目を転じて菅首相や現政権の不手際を幾つか上げて、<その責任は首相一人でなく、政権を支える中枢部全体にある>と筆を運んでいる。

∇彼女の常套手段は、先ず論評する相手(菅首相・政権)の今日までの“批判的事実を枚挙する”ことから始まる。<中国漁船が尖閣諸島沖で日本領海を侵犯した。温家宝首相が船長の即時無条件釈放を要求すると、翌未明、菅政権は中国を恐れ即時釈放に踏み切り、それは那覇地方検察庁の判断だったと卑怯な弁明を展開した。><中露両国が第二次大戦終戦65周年の共同声明を発表、「ファシスト及び軍国主義」の侵略に勝利した、「第二次大戦の歴史の歪曲」には断固非難すると宣言した。ソ連・ロシアとの関係で侵略されたのは日本だ。第二次大戦の歴史を歪曲したのは中露だ。だが、菅政権は抗議しなかった。><横浜APECで、メドベージェフ大統領に菅首相が抗議したが、平和条約締結問題を日露経済交流の進展とからめて提案され、あしらわれて終わった。><首相が横浜APECで胡錦濤国家主席に会ったのはこんなとき(ビデオ流出で事実が明らかになった時)だった。嘘をついた中国に胸を張って対峙出来たものを、首相は胡主席を正視することさえ出来なかった。会談ではおどおどと視線を落としてメモを読んだ。それほど中国を恐れるのが首相である。>etc etc──まぁ、こんな調子が続くのである。

∇国内政治に関しても菅政権の失政(?)が連綿と述べられる。<原発事故に関する杜撰な情報開示の害も測り知れない。…国際社会は日本政府を隠蔽体質だと批判し、我が国の信頼は著しく失墜した。国際政治における日本の影響力は急激に弱体化している。>と述べ、最後をこう括ったのである。<大震災の前も後も、菅政権は評価出来る仕事をしていない。その責任は首相一人でなく、政権を支える中枢部全体にある。にも拘(かか)わらず、首相一人を排除して、連立政権に逃げ込む画策こそ見苦しい。政党間の価値観の相違に目をつぶる大連立になんの意味があるのか。いま必要なのは、菅流政治との決別である。国際社会で怯(おび)えることなく国益を主張出来る国になることだ。国内の課題解決に責任をもてる政府をつくることだ。手垢のついた人々は去り、新しい日本を担う中核的政治家が立ち上がる時がきたのである。>と。一読して威勢のよい論評に見える。「菅降ろし」派の人々は、「櫻井さん、よく言ってくれた」と手を叩いて次に期待するのである。──しかし、もう一度冷静にこの「時評」を読んでみよう。節々穴だらけであることに気がつく。

∇さて、「時評」は、言うまでもなく、<その時々における批評・評論>(「広辞苑」)である。又、「批評」「評論」を岩波「日本語 語感の辞典」で引くと、<ものごとの長所や欠点を指摘した上でその本質的な価値を総合的に判定する意><ものごとの是非・善悪・価値・美醜・優劣などを論ずる意>と出る。一方で、「批判」は、<人間の考え方や行動、物事のあり方などを論拠を持って否定的に評価する意>とある。この定義でいけば、櫻井女史は批評家でも評論家でもなく、単なる批判家に過ぎない。しかも”枚挙している事実”は、「時評」でありながら、時節外れで自己都合的独断解釈に満ちた所謂「素隠行怪」なものが多い。老生が孔子に代って「批判」してみよう。──最近、こうした時評は、「結論部分から読み上げていくべきだ」と感じている。途中経過が幾ら詳細に述べられていても、現在の停滞した時局を打破するために、結論として「どうあるべきだ」という具体的提案が、①的を射ているか、或は②傾聴に値するか、が問われるからである。「今こそ、強烈なリーダーシップを持った首相が期待される」、で終わってもらっては困る。そんなことは評論家でなくても誰もが希求していることなのだから。もう一歩踏み込んで、例えば誰々、或は△△という具体的で合点のいく人物・組織体制・方策等を提案して欲しいのだ。それを前提として、上記「櫻井時評」や、同日産経新聞の「世論」に載った笹川洋平氏の「これでいいのか、政治家諸君」を、「批判」してみることにしよう。今日はこゝまで。