残照日記

晩節を孤芳に生きる。

薩摩焼余話

2011-06-19 20:18:55 | 日記
【茶道の極意】
○茶の湯とはたゞ湯をわかし
  茶をたてゝのむばかりなる事と知るべし 千利休

∇前回引用した明治36年発刊の小学校用「国語読本」に、<陶器は、肥前の伊万里焼、薩摩の薩摩焼、加賀の九谷焼を上等とし、廉価にして一般の用に適するは、尾張・美濃の産、これに次ぎては、岩代の会津焼なり。>とあった。伊万里焼は、<江戸初期から佐賀県有田地方で産する磁器の総称。主に有田焼をいう。伊万里港から積み出したのでこの名がある。>(「大辞泉」) 柿右衛門や、今村三之丞の「三川内焼」がこれに相当する。薩摩焼は、<鹿児島県薩摩・大隅地方に産する陶磁器の総称。文禄の役後、島津義弘が朝鮮から伴ってきた陶工によって始められた。俗に白薩摩・黒薩摩とよばれる白釉(はくゆう)地のものと黒釉地のものとがあり、作風も多様であったが、江戸末期以降は色絵が主力。>(同上) 今回出光美術館「花鳥の美」展には、出品されていなかったと思うが、ふと、司馬遼太郎の短編小説「故郷忘じがたく候」が、この薩摩焼に関わる朝鮮陶工たちの異郷の念をモチーフとした物語で、読後感爽やかなるを覚えた記憶が蘇ってきたので、備忘用として簡略ながらまとめておくことにした。

∇小説の詳細については割愛させて頂くが、司馬氏の「故郷忘じがたく候」は、江戸時代の天明期の医師で旅行家として知られた橘南谿(たちばななんけい)の旅行記「西遊記」の「高麗の子孫」という記事をネタに物語が展開される。南谿は、当時外界人は入村一切禁止とされていた、鹿児島県南部にある苗代川(美山)に何としても一足踏み入れてみたかった。色々コネを使ったのであろう、薩摩藩の陶器役人に接近して許可状及び紹介状を入手して入村許可を得た。次の文章からこの章が始まる。以下拙訳で──。<薩摩鹿児島城下より七里西の方、苗代川という所は、一郷皆な高麗人(朝鮮人)である。かつて太閤秀吉が朝鮮征伐の時(1598年)、この国の先君(島津義弘公)が、高麗国の老若男女を捕虜にして帰られ、薩摩にて彼らに一郷の土地を与え、永住させた。現在その子孫が増え、朝鮮の風俗のまゝで、衣服言語も皆な母国語を使い、日ごとに増えて、数百戸にもなっている。> 要するに「慶長の役」で朝鮮から陶工を拉致して、苗代川に住まわせ、窯を開いて陶器を焼かせたのが始まりだ、というのである。

∇さて、南谿は紹介状を持って入村したので、庄屋から手厚く迎えられ、酒飯のもてなしを受けて四方山話に花が咲いた。彼の苗字の由来に打ち興じ、互いに手をたたいて笑いあった。時が過ぎ、話が佳境に入った。<「さて、ところで日本にこられて何代になられますかな」、と問うと、「かれこれ五代になりましょうか。村の中には長寿とて四代なる者もいますし、又、早く代替わりして八代になる者もおります」、と。「そうですか、それならば、朝鮮は故郷でしょうが、数代も経たことですから彼の地の事はもう思い出すことはありますまい」というと、「“故郷忘じがたし”とは誰の言葉でしたでしょうか。今では最早二百年にも近く経ち、この国に厚恩を蒙り、言葉もいつの間にか覚え、この国の人と少しも変わりません。たゞ衣類と髪とのみ朝鮮の風俗で、外見にももう母国の風儀は残っておらず、その上消息は全く途絶えている事ですから、すっかり忘れるべきことなのでしょうが、唯何となく折節に故郷を床しく思い出し、今でももし帰国のお許しが出るならば、厚恩を忘れたわけではありませんが、帰国致したき心地です」と答えたので、私(南谿)も哀れに思ったことであった。>と。

∇日本にも朝鮮人拉致の事実があった。この「慶長の役」で拉致され、鹿児島の当地に連行された<老若男女>は一説に70人ほどだったという。司馬遼太郎曰く、<当時、日本の貴族、武将、富商のあいだで茶道が隆盛している。茶器はとくに渡来物が珍重され、たとえば韓人が日常の飯盛茶碗にしている程度のものが日本に入り、利休などの茶頭の折り紙がつくことによって千金の価をよび、この国にきた南蛮人たちまでが、「ちょうどヨーロッパにおける宝石のような扱いをうけている」と驚嘆するまでになっている。ときに茶器は武功の恩賞としてあたえられた。一国に相当する茶器まであらわれた。>と。秀吉が起こした「文禄・慶長の役」が「焼き物戦争」ともいわれる所以である。全く手前勝手で酷い話だが、翻って、北朝鮮による日本人拉致事件がこのまゝ何も進展せず経過すれば、まさに我が同朋が、彼の地で梅雨空を見て、“故郷忘じがたし”と歎ずる姿が彷彿してくる気がする。──閑話休題、こゝまでが司馬遼太郎の小説に関係する部分で、橘南谿の話に戻る。彼は翌日案内の者に連れられ、<高麗焼の細工場、並びに竈(かまど)を見物>した。

∇「薩摩焼」の白焼・黒焼の説明が記述されている。曰く、<この村の半分は皆な焼物師である。朝鮮より伝来した方法で焼くので、白焼などは実に高麗渡りらしく誠に見事な物である。日本で焼いた物とは思えない。それ故に上品の焼物は御大名方からの御用物ばかりで、売買は厳しく禁じられている。このため一般人が入手することは出来ず、他国にももてはやされることは見ない。私も案内者に頼んでみたが、白焼は得ることが出来なかった。やっとのことで黒焼の中の上品の小猪口を得た。これも私が遠国者なので内緒で得られたのである。大事に携えて持ち帰り、今でも秘蔵している。その外は下品で質厚く、色も薄黒いが、烈火にかけても破れることはない。従って、下品は土瓶などに多く造り出す。これは夥(おびただ)しく売買され、南九州一帯の民間でもこの土瓶が使われている。尚、大阪からも買い求めに来て、「薩摩焼」と称して重宝されている。>と。拉致されて故郷を失した無名の陶工たちによる「薩摩焼」の秘伝と伝承、そしてその裏に残る悲話。名状し難い思いが陶磁器の深い色あいを醸し出しているのかも知れない……。尚、出光美術館は「唐津焼」、特に江戸初期に焼かれた所謂「古唐津」陶器の蒐集で名高いのだが、それは孰れ機会をみて語ることにする。次回は「古九谷」余話である。