残照日記

晩節を孤芳に生きる。

職業政治家

2011-06-12 18:37:41 | 日記
【大詐欺師】 ソクラテス
誰かが、人を納得させて金あるいは道具を借りてゆき、そのまま自分の物にしてしまったら、詐欺師も相当なものと呼ばなくてはならん。しかし、それにもましてなお大きい詐欺師は、その価値なくして国を欺き、国家を指導する力ありと信じさせた人間である。(クセノフォーン「ソクラテスの思い出」 岩波文庫)

∇<「ペテン師」発言を陳謝 鳩山前首相──民主党の鳩山由紀夫前首相は9日、国会内で開かれた自身に近い議員グループの会合であいさつし、「今我々に求められているのは冷静な心だ。私も一時、冷静さを欠いた発言をしてしまい、大変ご無礼したことを皆さんにおわびしたい」と表明。早期退陣を否定した菅直人首相を「ペテン師」とこき下ろしたことを陳謝した。>(6/10毎日新聞)──確かに菅首相を公然と「ペテン師」呼ばわりしたのは拙かった。菅氏が「ペテン師」であるや否やよりも、民主党内の内輪もめを世間に晒し、かつ“騙された”鳩山氏自身の甘さ=<お坊ちゃま>ぶりが世間の失笑を買う羽目になったからだ。ズバリ言えば日本に限らずどの国の国家元首でも皆「ペテン師」である。当初は国民的指導者と仰がれたリビアのカダフィ大佐、エジプトのムバラク元大統領など世界には化けの皮が剥がれて初めて分る大物「ペテン師」がウヨ/\している。但し、就任早々から期待されず、「ダメ菅」「イラ菅」「スッカラ菅」等と嘲笑を受けてきた菅首相は、ソクラテスの言う<国家を指導する力ありと信じさせた人間である。>という種類の「ペテン師」ではない。今回はそれについて考えてみたい。先ずは、3月9日の産経新聞「正論」に寄せた日本財団会長・笹川陽平氏「これでいいのか、政治家諸君」を読んでみよう。

∇産経新聞の「正論」は、櫻井女史風の現政権に対する徹底的追求型論文が多いのだが、今回の笹川論文は珍しく総ての国会議員を対象に糾弾している。曰く、<見るに堪えない政治の低迷と混乱が続き、国民の憤りと怒りは今や頂点に達している。国会議員諸君、皆さんは国家国民のために身を捧げるという高邁な理想を持って政治の世界に入ったのではなかったか。然るに今や、その志どころか、党利党略さえも忘れ、議員として存在することだけが目的となっているのではないか。>と。そして、政治がかくも劣化した原因を上げた。<①小選挙区制度の欠陥のほか②国民・マスコミを含め社会全体が政治家を育てる努力を怠ってきたこの国の政治風土もある。しかし、③それ以前に、政治家になって何をするかより、政治家になること自体が自己目的化した結果、政治家として国家国民に貢献する志より、権力の上にあぐらをかき、「自身の明日」を優先する独善的態度ばかりが目立つようになった。(番号は筆者)>と。その挙句、今回の大震災では、世界からは、「震災後の日本の混乱は政治指導力の欠如が原因」「下らない政府の下で国民はよく頑張っている」「日本は社会がしっかりしているから政治が貧困なままでいられる」等と言われる始末。

∇<こうまで言われてなお、政治家諸君は黙っているのか>、笹川氏は憤る。そして曰く、<「国民不在」「単なる永田町のいす取りゲーム」と揶揄(やゆ)されて済む段階は過ぎた。……今、被災地には、首相や閣僚より現場の先頭に立つ首長の方がよほどたくましく信頼できるといった声に溢れている。真摯に耳を傾けるべきである。大死一番の覚悟を持て。><日本はこれまでも関東大震災や焦土と化した敗戦、阪神淡路大震災などあらゆる国難を乗り越えてきた。この国には十分な底力があり、今回も必ず復興する。しかし、それには政治の再生が欠かせない。「政治家や政治のレベルは国民のレベルを超えない」との格言があるが、このままでは「国民は一流、政治は三流」の汚名を着ることにもなりかねない。日本には恥の文化がある。国家国民のため命を投げ出す覚悟のない政治家は大死一番、潔く議員バッジを外してほしい。こうした潔さが政治家の覚悟につながる。国家国民のためそうした気骨ある政治家の出現を期待してやまない。>と。──菅首相及び現政権による“失政と決め付けられそうな”幾つかの事件を、ありったけ枚挙して屁理屈攻撃しただけの、先の櫻井論文に比すれば、“憂国の情”迸(ほとばし)る真摯で爽やかな評論だと言える。これをテキストに、色々考察してみよう。

∇今、①の小選挙区制の是非は一旦棚に上げておく。さて、笹川氏は、<政治が劣化>した原因に、<②国民・マスコミを含め社会全体が政治家を育てる努力を怠ってきたこの国の政治風土もある。><③政治家になって何をするかより、政治家になること自体が自己目的化した結果…「自身の明日」を優先する独善的態度(を生んだ)>を上げた。③から先にいこう。即ち、笹川氏は、「政治の職業化」が、本来彼が理想とする政治家魂=<国家国民に貢献する志>より、自己保存優先の政治家を生み出すようになってしまった、と言うのである。この見解には深い省察が必要である。こゝでは、マックスヴェーバー著「職業としての政治」(岩波文庫)を参考にしてみたい。先ずヴェーバーは、政治を職業とするのに二つの道がある、という。<政治「のために」生きるか、それとも政治「によって」生きるか、そのどちらかである>。そしてその区別は、「経済的な側面」に関係している、と。即ち、<政治を恒常的な収入源にしようとする者、これが職業としての政治「によって」生きる者であり、そうでない者は政治「のために」ということになる。…(そして)経済的な意味で政治「のために」生きることができるためには、…政治から得られる収入に経済的に依存しないですむこと、ずばり言えば、恒産があるか、でなければ私生活の面で充分な収入の得られるような地位にあるか、そのどちらかが必要である>と。

∇論者・笹川陽平氏は、父である笹川良一氏の遺された「遺産=恒産」を充分所有している。国会議員の中にもそれなりの「恒産」又は「充分な収入」を得ている者はいるだろう。だが、選挙基盤や余裕資金・不労所得、或は強烈な派閥のバックボーン等を持たない議員、例えば民主党の小沢チルドレンの中には、親分の多面的な「庇護」なしには、政治「のために」生きたいと理想を掲げていても、現実的には経済的側面で行き詰ってしまう議員も多かろう。彼らは、政治「のために」生きる志があったにせよ、心ならずも選挙民の顔色を窺い、かつ“カネと政治”がらみの親分ではあるが、「面倒を見てくれる」小沢派から自立できない。即ち政治「によって」生きざるを得ない議員も多いのである。故に笹川氏が気安く<潔く議員バッジを外せ>、といっても、それは氏の如き有閑資産家が描ける画餅にすぎない。老生、否、総ての国民とて、<国家国民のため命を投げ出す覚悟>があり、<気骨ある政治家の出現を期待してやまない>。そのためには、彼ら政治家が、政治「のために」、職業政治家として自立できる経済的所与をどう担保できるか、しかもそれを個人の「聖人性」のみに期待せず、制度として確立すること、それが、<国家国民に貢献する志>を持った政治家輩出の必要条件であると思うがどうだろうか。食べていけない議員に、“大死一番”命をかけろとは言えないのである。次回に提案も含めて検討してみたい。今日はこゝまで。