残照日記

晩節を孤芳に生きる。

政治改革Ⅱ

2011-06-27 21:00:18 | 日記
【学問の方法】
≪博学・審問・慎思・明弁・篤行≫ (「中庸」)

∇「21世紀臨調」の【現下の政治に対する緊急提言】で、老生が第一番目に取り上げたのが、項目≪国民の自覚≫に出る<破天荒な英雄>不要論であった。老生も「そもそも民主政治は英雄の存在を前提にしない制度である」と考えるからである。老生は、<政治に精通した“普通の政治家”で、願わくば「使命感」に溢れた、組織を束ねる力量を有した、職務に真摯で忠実な人であればいゝ>と考える。勝海舟の言葉を借りれば、<政治家の秘訣は、何もない。ただただ「正心誠意」の四字ばかりだ。この四字によりてやりさえすれば、たとえいかなる人民でも、これに心服しないものはないはずだ。>(「氷川清話」)と思うからである。企業にはどんな企業であれ、その企業にとってのプロが必要だし、芸術家、スポーツ選手等々あらゆる職業に於いて「その道のプロ」が必要であるのと同じく、常識的な意味でプロとしての政治家であればいゝ。政治の世界だけ、特段に<破天荒な英雄>を必要とすることは無い、という主張である。そして、「21世紀臨調」が提言している≪国民の自覚≫とは、我々が当ブログで取り上げた、サミュエル・スマイルズの「政治家や政治のレベルは国民のレベルを超えない」(「自助論」)をその根本思想としているが、それには全く同感である、と。

∇そして、前回はジャーナリスト、先には政治評論家諸氏幾人かの意見を俎上に上げて、「しっかり評論して欲しい!」と発破をかけた。何故彼らを糺す必要があるのか。それは国民が、≪国民の自覚≫を形成する前提となる、「政治的事実」を客観的に知ろうとする際に、メディアを通じて媒介役を務める彼らに、「間違った事実や、偏見に満ちた見解」を垂れ流し続けられては甚だ迷惑するからである。政治の世界に関しては、我々国民には、メディアを通してしか知りえない事が多い。新聞・TV・雑誌・ネット等々から、直接或いは取材を通じての間接情報をもとに政府の方針や政治動向を知り、政局を垣間見ることができるのである。すると、誤解を恐れずに言えば、「政治家や政治のレベルは国民のレベルを超えない」の<国民>とは、誰にも先んじて、その国のジャーナリストや評論家・有識者たちを指し、彼らの質に「世論」は大きく依存している、とも換言できる。首相及び官邸の記者会見でさえ、その放映直後に「解説者」なる“評論家”“有識者”らが発言内容を噛み砕き、彼等の「自論」を主張するのが最近の一般的傾向である。気になるのが、非常に手前勝手で偏頗な解釈や、批判・非難に近い解説もどきばかりが横行していることである。

∇そこで、昨日引用したヘレン・トーマスさんの、<誰もがジャーナリストになれること、それが言論の自由と考えられる時代になった。しかし、自由には責任が伴い、報道の倫理を知らなければ大きな代償を払うことになる。いまジャーナリズムは重大な岐路に差し掛かっている。…ジャーナリストはいま、真実とは何なのかを見いだすことが極めて難しい、情報の無法地帯にいる>ことを認識し、かつそこから「国民の質」を論議する必要があるのではないかと考える。しかも、所謂それを業とする上記専門家は勿論のこと、現在我が国は、まさしく“一億総評論家”の時代である。どうすべきなのか。端的に言えば、何よりもものごとを正しく見、正しく「批評」することの原点回帰が欠かせない。即ち、情報を発信する側も、それをキャッチする我々の側も、「軽信しないこと」「鵜呑みしないこと」「妄信しないこと」、即ち、一旦キャッチした情報を自分の頭で反芻し、自分なりに検証する習慣を身につけることからスタートすべきだと考える。それについて、今後色々考究・提案していくわけだが、結局、「批評」するということに連結することなので、それについて考えてみることから始めてみたい。これについては、小林秀雄の名論「批評」という短文を参考にしてみよう。──これから見たいテレビがあるので、今日はこゝまで。