残照日記

晩節を孤芳に生きる。

田能村竹田

2011-06-21 18:14:36 | 日記
【一適意也】(気の向くまゝに) 田能村竹田詩
書棚から気まゝに本を取り出して読む。それは、散文であったり詩であったりする。特にこの書をいつまでにと決めたりはしない。その時の気の向くまゝだ。読むのは或いは一二行、或いは十数行、或いは最後迄。その時の気の向くまゝだ。読むのは或いは一二行、或いは十数行、或いは途中迄。その時の気の向くまゝだ。楽しいことに出合えば笑う。その時の気の向くまゝだ。悲憤することに出会えば泣く。その時の気の向くまゝだ。しっかり記憶して忘れない。その時の気の向くまゝだ。忘れてしまって覚えていない。その時の気の向くまゝだ。

≪原文:凡そ書室の中、手に随(従)ひ帙(ちつ)を抽(引)きて読む。或は文或は詩、敢て課を以て限を作らず、一適意也。読むところ或は一二行或は十数行或は終篇を要す、一適意也。読むところ或は一二行或は十数行或は終篇を要さざる、一適意也。楽事に遇ひて笑ふ。一適意也。悲憤に遇ひて泣く、一適意也。記して忘れざる、一適意也。忘れて記せざる、一適意也。≫(「随縁沙弥語録」より)

∇「出光美術館」拝観記の最終回。富貴花(牡丹)ばかりを一堂に会したコーナー「富貴花の展開」に、「春園富貴図」なる気になる一幅があった。大輪の牡丹が鮮やかに描かれている。田能村竹田画とある。名前だけは聞き知っていたが、その人となりを全く知らない。気がかりだったので、帰って早速調べてみた。事典・辞書類を幾つか当ってみたら、凡そ次の如き人物像が浮かんできた。<田能村竹田(たのむら ちくでん) 江戸後期の文人画家(1777~1835)。豊後(ぶんご=大分県)竹田の人。名は孝憲、字(あざな)は君彝(くんい)。通称は行蔵。九畳仙史・竹田老圃・随縁居士等を号した。藩政に対する不満から官を辞し、頼山陽・浦上玉堂などの文人墨客と交わる。谷文晁らに師事、近世に於ける南画の名手として知られている。「亦復一楽帖(またまたいちらくじょう)」に代表される清高淡雅な絵を描く一方、詩文にもすぐれた。画論書に「山中人饒舌」がある>。上記<藩政に対する不満から官を辞し>については、前々回引用した森銑三著「偉人暦」には次のように載っている。

∇<彼はただ画人としてのみ伝うべき人ではなかった。豊後の岡藩の士で、文化中領内の百姓一揆に、彼は言を尽くして藩侯を諌めた。その建言書の如き、騒擾の罪は有司にありとして、仁政を請い、慈悲を説き、愛の精神の紙面に溢るるものがある。しかもその言は容れられず、彼は三七歳にして致仕(辞職)してしまった。非を見て非を正すことが出来ず、きたない環境に同化して行くには、彼の人格はあまりに清かった。>と。又ぞろ政局が蠢(うごめ)き始めたが、凡そ永田町族とは相容れぬ高潔で毅然とした御仁であったようだ。そのせいだろう、交際は広かったようだが、心を許した友人は頼山陽他数人に限られていた。<「善く書を読む者で六法に精通しているのは山陽一人だ。みんな口先の連中ばかりで、腹に(胆)識がない」などといった。彼の画には山陽が多く賛をした。合作もした。ある時は竹田、長い絵巻を描いて、その上に、「山陽を除くの外、他人の一語を著くるを容さず」と題した。>(同上) 余程偏屈で一刻者だったに相違ない。

∇頼山陽も彼と馬が合った。「岡城に田能村君彝を問う。余、君彝に鞆津(とものつ)に邂逅す。已に五年なり」と題する詩が残っている。岩波「江戸詩人選集」巻八によれば、<文化十一(1814)年10月、広島に帰省していた山陽が京都にもどる途中、大阪から帰郷する竹田と鞆津(=福山市にある港町)で出合っている>。詩を意訳する。<長旅のせいで、草鞋はボロ/\、髪はボウ/\。道を迂回して君を尋ねるが、遠くてもちっとも苦にならぬ。昔二人で海に舟を並べて遊んだのを昨日のように思い出す。今宵林に面した窓辺で、灯下又語り明かせる嬉しさよ。君の屋敷は荒れ果てた空地ゆえ、年貢は不要。荒涼たる裏山を背景に、君の畑でとれた野菜を肴に、私は酔っ払って居座る。出処進退などという面倒くさいことなど、皆な、濁り酒を注いで流してしまおうではないか>。二人の親交ぶりが羨ましい。先述した通り、竹田に随縁居士の号があるが、これは頼山陽が付けた。まさに冒頭に掲げた竹田の詩がそれを裏付ける。彼の画論書「山中人饒舌」は、昨日古本市で買ってきて、今読んでいるところ。孰れ又。尚、田能村竹田の作品は、出光美術館に約200点も所蔵されている由である。二番目に多いのが大分市美術館で45点、以下日本各地24箇所の美術館・博物館に幾点かずつ所蔵されているというから、出光佐三翁の眼識・蒐集力の凄さが分る。

∇余談ながら出光佐三翁は「古唐津」をこよなく愛した。「出光美術館」主任学芸員の荒川正明氏が「出光佐三店主と唐津茶碗の出会い」について触れている。<あるとき(昭和14年)、品川区高輪の出光家に古美術商が訪れ、古唐津の茶碗をみせました。ざっくりとした唐津焼独特の縮緬皺(ちりめんじわ)の土に灰がかけられ、茶碗のちょうど胴部の真ん中に丸の枠のなかに「十」の字を書いたものでした。長い間茶器として使われていたために、茶しぶが素地に入り込み、口には金繕(つくろ)いがしてあります。出光店主はこの茶碗をぱっと見た瞬間、「これは偽物でないか。持って帰れ」と言ったそうです。しかし、茶碗をもってきた古美術商は「いえいえ、これこそが正真正銘の古唐津というものです」とものおじせず、自信満々に応えました。そこで店主は再びじっくりと拝見して納得、けっきょくその茶碗を求めることとなりました。何の造作もない、野武士のような粗削りな作風。そして手にもつとすっぽりとおさまり、安定感のあるかたち。出光店主はどんどんこの茶碗のとりこになり、「丸十の茶碗で」といってお茶を一服所望する回数が増えたと伝えられています。この「丸十茶碗」との出会いから、事実上出光店主の古唐津コレクションが開始され、爾来出光の古唐津コレクションは総数三百点を超す規模となり、国内最大にして最高の内容を誇るに至りました。>。 出光美術館に関しては仙和尚等語るべきことは多々あるが、孰れ又。