残照日記

晩節を孤芳に生きる。

政治関与

2011-06-15 19:21:43 | 日記
【周りに人材がいないと思ったら、自分がなるしかない】
 ≪近ごろ世間で時々西郷がいたらとか、大久保がいたらとかいうものがあるが、あれは畢竟(ひっきょう)自分の責任を免れるための口実だ。西郷でも大久保でも、たとえ生きていているとしても、今ではもはや老いぼれ爺だ。人をあてにしていてはだめだから、自分で西郷や大久保の代りをやればよいではないか。──しかし今日困るのは、さしあたり世間を承知さするだけの勲功と経歴とを持っている人材がいないことだ。けれども人材だって、そうあつらえ向きのものばかりはどこにもいないさ。≫≪政治家の秘訣は、何もない。ただただ「正心誠意」の四字ばかりだ。この四字によりてやりさえすれば、たとえいかなる人民でも、これに心服しないものはないはずだ。≫(勝海舟「氷川清話」角川文庫)

∇<政治が劣化した原因>の一つとして笹川論文で挙げる、<国民・マスコミを含め社会全体が政治家を育てる努力を怠ってきたこの国の政治風土もある。>、を検討している。ところで、彼はこの論文のエピローグで、こうも言った。<日本はこれまでも関東大震災や焦土と化した敗戦、阪神淡路大震災などあらゆる国難を乗り越えてきた。この国には十分な底力があり、今回も必ず復興する。しかし、それには政治の再生が欠かせない。「政治家や政治のレベルは国民のレベルを超えない」との格言があるが、このままでは「国民は一流、政治は三流」の汚名を着ることにもなりかねない。…(故に)国家国民のため…気骨ある政治家の出現を期待してやまない。>と。こゝで、彼の文脈からすれば、「政治家や政治のレベルは国民のレベルを超えない」を、「政治家や政治のレベルは、国民のレベル以下である」と解釈しているが、それは間違い。この言葉は、「格言」というよりは、明治時代から読み継がれた、サミュエル・スマイルズの「自助論」から生まれた「成語」であろう。以下に三笠書房版・竹内均訳で当該部分を抜粋引用する。

∇S・スマイルズ曰く、<政治とは、国民の考えや行動の反映に過ぎない。どんなに高い理想を掲げても国民がそれについていけなければ、政治は国民のレベルにまで引き下げられる。逆に、国民が優秀であれば、いくらひどい政治でもいつしか国民のレベルにまで引き上げられる。つまり、国民全体の質がその国の政治の質を決定するのだ。>と。即ち、「政治家や政治のレベルは国民のレベルを超えない」は、<政治の劣化(=政治家や政治のレベルが低い)>は、国民の質や国民の政治レベルが低いからだ。国民がしっかりしないから政治もダメなんだ、という意味である。そしてまさにその通りで、<国民・マスコミを含め社会全体が政治家を育てる努力を怠ってきたこの国の政治風土もある。>(笹川論)に帰着するのである。結局笹川論文の題名「これでいいのか、政治家諸君」は、「これでいいのか、日本国民諸君」となり、襟を正すべきなのは我々国民なのである。尚、 <「国民は一流、政治は三流」の汚名>は既に着ている。<国家国民のため…気骨ある政治家の出現>は、我々国民次第、ということになる。

∇乾いた冷徹な頭脳で「政治」を定義すれば、<政治とは、…要するに権力の分け前にあずかり権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力である、といってよいであろう。>(M・W「職業としての政治」)──彼らは権力を求める。<その場合、権力を別の目的(高邁な目的または利己的な目的)のための手段として追求するか、それとも権力を「それ自体のために」、つまり権力自体がもたらす優越感を満喫するために追求するか、そのどちらかである。>(同上) 笹川氏は論文の冒頭で、<国会議員諸君、皆さんは国家国民のために身を捧げるという高邁な理想を持って政治の世界に入ったのではなかったか。然るに今や、その志どころか云々>と切り出したが、<高邁な理想>のために政治家になったかどうかは、本音のところは本人に聞いてみなければ分らない。<利己的な目的>だったかも知れないし、<権力の上にあぐらをかき>たかったからかも知れない。くどいようだが、政治をおこなう者は権力を求める。そして権力の分け前にあずからない限り、「たゞの人」と何ら変わりない。何もできないのである。

∇結局、政治家が<国家国民のために身を捧げる>ためには、彼らを選出した我々国民による不断の監視が欠かせないことになる。我が国の「日本国憲法」前文に曰く、<そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。>と。即ち、「国政の権力」は<国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する>。但し、それを享受し続けるためには、<第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。>のである。アウンサンスーチー女史は、繰り返し、繰り返し<国民の責任は、良き指導者を選び、本当に良き指導者であるかをチェックし、彼が変節したらすみやかに解任することです。>(「アウンサンスーチー演説集」みすず書房)と訴えていた。国民個々人の質が高い日本、<政治の劣化>を招いているのは我々自身の政治関与が希薄なためだ、と再認識し、憲法の原点に立ち返り、<政治「によって」>生計を営む“職業”としての政治家たちを、<政治「のために」>「正心誠意」身を捧げてくれる政治家へと、懇望かつ変貌させるべく監視・督励すべきなのであろう。──時間切れ。その方策は次回以降に。今日もこゝまで。