残照日記

晩節を孤芳に生きる。

陶器雑話

2011-06-18 22:10:57 | 日記
【陶磁器】
人の日々に用いる茶碗・土瓶・皿・鉢の類は、陶土といふ白き土を焼きて造りたるものにて、これを焼物といふ。其の中、普通の陶土にて造れるを陶器といひ、上等の陶土にて造れるを磁器といふ。焼物を製するには、先ず陶土をねりかためて、ろくろの上に乗せ、これを回しながら、思ふまゝの形に造り、素焼がまに入れて、焼き固む、これを素焼といふ。この素焼に、くすりをかけて、さらにかまに入れて焼きたるものを本焼といふ。この時、画をかき、又は何なりとも模様を染め付けて焼けば、美しき焼物となる。日本にて、焼物の製造の最も盛なる所は、尾張の瀬戸、肥前の有田、京都の清水、加賀の九谷等にして、其の名、海外にまで著れたり。…陶器は、肥前の伊万里焼、薩摩の薩摩焼、加賀の九谷焼を上等とし、廉価にして一般の用に適するは、尾張・美濃の産、これに次ぎては、岩代の会津焼なり。>(明治36年 小学「国語読本」より)

∇丁度5年前の昨日、偶然にも出光美術館で展覧会を拝観したことを書いた。ところで、今回の「花鳥の美」展には、初代酒井田柿右衛門の、「色絵花鳥文大鉢」や「色絵鸚鵡」など珍しい逸品が6点も展示されていた。そこで、彼の逸話や陶器雑話でも書こうと思っていたが、久し振りの遠出(?)のせいか、どっと疲れが出て、つい/\寝入ってしまった。不思議なことに、偶然は続くもの。実は旧暦の今日6月19日は、初代柿右衛門の命日である。来週以降、政局が慌しくなる「嵐の前の静けさ」である梅雨合間、思いつくまゝに「陶器雑話」といくことにした。さて先ずは酒井田柿右衛門。フリー百科事典「ウィキペディア」によれば、<酒井田柿右衛門、初代:1596年11月15日(慶長元年9月25日)─1666年7月20日(寛文6年6月19日)は、江戸時代、肥前国(佐賀県)有田の陶芸家、および代々その子孫(後継者)が襲名する名称。(後略)>と出る。豊臣秀吉が領土的野心のために強行した第二次朝鮮出兵である「慶長の役」の年(1596)に生まれ、徳川第四代将軍家綱の御世に亡くなっている。享年71歳だった。尚、現在、第十四代酒井田柿右衛門が当代(当主)で、重要無形文化財保持者である。(01年に人間国宝認定。色絵磁器) 

∇さて/\、「柿右衛門」といえば、苦心惨憺して研究に没頭していた過日、夕日に映える柿の実を見て赤絵磁器を作ったとする逸話が巷間流布しているが、これは大正時代の国語教育者・友納友次郎という人が、オランダの陶工に関するエピソードを柿右衛門に当てはめて小学校の教科書に載せた創作だといわれている。酒井田家の系図によって、その存在は確実であるが、柿右衛門その人の事跡はあまり明らかではないという。手許に森銑三著「偉人暦」(中公文庫)があるので、そこから拾ってみる。それによれば、柿右衛門ははじめ喜三右衛門といった。肥前有田の出身であった。彼の父は相当学問もあり、風雅に富み、ことに俳句を好んで、博多の承天寺の和尚と仲がよかった。その坊さんの知人に竹原五郎七という豊臣家お抱えの陶器師がいた。朝鮮出兵の際にも、その道の用か何かで、秀吉に随行して朝鮮に渡ったことがあるという。その五郎七が大阪落城後、流れ流れて博多の承天寺に身を隠していた。承天寺の和尚は柿右衛門に製陶の志があるのを知って五郎七に紹介した。五郎七が伝授したのは、磁器よりもごく火度の低い陶器だった。残念ながら質が脆く、色が濁り、壊れやすい上に雅味が乏しかった。

∇そこで柿右衛門は原料について百方苦心研究し、ついに泉山に磁鉱を発見して、精巧なる青華磁器を製り出すことに成功した。しかし、染付磁器を作ることは出来ても、色絵を焼き付けることができない。丁度その頃、たま/\佐賀県西部の伊万里の人で、東島徳右衛門という人が、長崎で支那人から絵付けの法を伝授されてきたのを柿右衛門に伝えた。それを弟子などと工夫に工夫を重ねて、遂に独創的な新しい色絵法を完成した。これを長崎に持っていき、支那人に売り与えたのが伊万里焼が海外に出た嚆矢(こうし=物事のはじまり)だそうである。さて、<鍋島藩主が、ある時彼に命じて磁器で柿の置物を作らしめ給うた。しかるにそれが非常によう出来て、大変お気に入り、そこでその柿に因んで柿右衛門の名を賜った。…(中略)…初代柿右衛門、人となり清廉寡欲、一身を斯業の研究に没頭して、ついに大成功を見るに至ったという。>。この話には後日譚が残る。柿右衛門の出身有田に近い三川内山では、陶工集団が独特の陶器を焼いていた。その陶工の一人に、美しい白地に染付の磁器を作り出そうと研究している今村三之丞という男がいた。

∇だが、中々思うような焼物は生まれなかった。三之丞は肥前の皿山に、修業の旅に出ること20年に及んだ。終に苦肉の策に出る。<当時は陶法秘密といい、その秘法を漏らすのを藩として禁じていた。今村三之丞は、初代・酒井田柿右衛門と五郎七の共同工場へ自分の女房を職工に入れて、五郎七が釉薬を調合する時、密かにその原料の目方を計らせた。すなわち持ち出した時の目方から、持ち帰る時の目方を差し引いて、調合に使った分を知ったのだ。>(同上森銑三著「偉人暦」)国禁を犯してまで秘法を探った三之丞を手放しで褒めるわけにはいかないが、何が何でも白磁に呉須で描かれる染付の製法を知りたいための涙ぐましい逸話は感動ものである。案に違わず、やがて三之丞は藩主の命令で帰国し、三川内に平戸藩御用窯を築くことになった。苦心に苦心を重ねて独創的な金銀泥着色の方を発明し、「三川内焼」を生み出した初代今村三之丞。初代柿右衛門が、三之丞のことを後で知ったら、苦笑いしただけで、きっと許したに違いない。尚、現在の十四代酒井田柿右衛門は、48歳で柿右衛門を襲名し、50歳で日本陶磁協会賞を受賞した。今日はこゝまで。次回は「薩摩焼」「古九谷」余話。