残照日記

晩節を孤芳に生きる。

政治改革Ⅲ

2011-06-28 21:09:23 | 日記
【イエスと姦通の女】(「ヨハネ伝」)
イエスはオリーブ山に行かれた。朝早く、再び神殿境内に来られると、民がみなイエスのもとにやって来たので、イエスは座って彼らを教えられた。そこへ、律法学者たちとファリサイ派の人たちが、姦通の現場で捕らえられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、イエスに言う、「先生、この女は姦通行為をしている現場で捕らえられました。モーセは律法の中で、このような女たちは石打にするように、わたしたちに命じました。そこで、あなたは何と言われますか」。彼らはイエスを試みて、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスは低くかがんで、指で地面に何かを書いておられた。 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こし、彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、最初にこの女に石を投げなさい」。そして、再びかがみこんで、地面に書き続けられた。 これを聞いた者たちは、年長の者から始まって、一人また一人と立ち去り、イエスひとりと、真ん中にいた女だけが残った。(7章53~8章11)

∇≪「風評被害」の元凶は誰か、政府の情報開示法は誤り――(前略)政府の情報開示の姿勢と日本のマスコミの報道には、不信感を持っている。…(中略)…危険を過小に見せようという政府の姿勢に、国の原子力政策にかかわった多くの専門家たちも加担し、テレビの報道番組で「安心です」と言い続けた結果、国民の信頼を失ったのではないか。気象庁や日本気象学会は、風に乗って広がる汚染を予測して避難を呼びかけるべきであった。しかし気象学会は学会員に対して、汚染情報を発表しないようにとの通達まで出した。学会の自殺行為だ。日本政府の情報開示に不信感を持った外国政府が厳しい態度を取り、外国からの観光客、留学生が逃げ出したのも無理はない。(後略)≫(深尾光洋・慶応義塾大学教授 6/28東洋経済オンライン)

∇現在手に入るどの雑誌でも、新聞でも、単行本でも、或はテレビ番組でもいゝ、この度の大震災で後手に回ったとされる「あらゆる不手際」に関する“元凶”や“犯人”の追究として、必ず上述の如き論調の主張に出くわす筈だ。要するに政府も、マスコミも、関係する科学専門家も、皆な信用が置けない、と。まさしくその通りなのだが、じゃあ、我々一般人は誰の情報・発言に信を置けばよいのか。筆者の深尾氏、貴方は悪くないのか。何故騒乱当時に声を挙げなかったのか、と反論したくもなる。昨日老生も指摘した如く、<「政治家や政治のレベルは国民のレベルを超えない」の<国民>とは、誰にも先んじて、その国のジャーナリストや評論家・有識者たち(深尾氏も、関係する科学専門家も)を指し>ていることは間違いない。結論をズバリ述べれば、「批評家もどき」が多すぎるからだ、と断言してよい。例のピアスの「悪魔の辞典」では、「批評家」を<自分の機嫌を取ろうとしてくれる者が一人もいないところから、おれは気難しい男だ、と自負しているやから。>(岩波文庫版)と定義しているが、<男>を<男女>とすれば見事に痛いところを衝いている。

∇ピアスの定義は、実は老生の言う「批評家もどき」のことである。「批評家もどき」とは、「他人より目立ちたい、世間の関心を引きたい、ゆえに手っ取り早く“相手の弱点”を衝けばよい、とする戦法をとる批判家のこと」である。例えばかつて当ブログで取り上げた、小池百合子議員や櫻井よしこ女史の「批評」を頭に浮かべればいゝ。さてこゝで、文芸評論家の小林秀雄が「批評」という短文を書いているが、次の引用文の「文学界」を「政界」と読み替えて先ず、読んでみて欲しい。曰く、<批評文を書いた経験のある人たちならだれでも、悪口を言う退屈を、非難否定の働きの非生産性を、よく承知しているはずなのだ。承知していながら、一向やめないのは、自分の主張というものがあるからだろう。主張するためには、非難もやむを得ない、というわけだろう。文学界でも、論戦は相変わらず盛んだが、大体において、非難的主張或は主張的非難の形を取っているのが普通である。…(そして)論戦に誘いこまれる批評家は、非難は非生産的な働きだろうが、主張する事は生産する事だという独断に知らず識らずのうちに誘われているものだ。……>。(「考えるヒント」) 非難否定だけの論戦は、非生産的で何の役にも立たない、そういうことだ。

∇そして小林秀雄は、この文をこう締めくくっている。<批評そのものと呼んでいいような、批評の純粋な形式というものを、心に描いてみるのは大事なことである。これは観念論ではない。批評家各自が、自分のうちに、批評の具体的な動機を捜し求め、これを明瞭化しようと努力するという、その事にほかならないからだ。今日の批評的表現が、その多様豊富な外観の下に隠している不毛性を教えてくれるのも、そういう反省だけであろう。>と。<その多様豊富な外観の下に隠している不毛性>の“愚”に気付かねばならない。要するに、小林の言う<非難否定の働きの非生産性>をもっと真剣に反省しなければならない、ということだろう。小池・櫻井女史たちの「批評もどき」がどれほど今日の政治や社会に役立ったかを振り返るだけでそれは一目瞭然たる事実だ。そして、それは「批評」好きの老生を含めた、まさに「国民一人一人」に課せられた反省点でもある。相手の欠点を衝くのは簡単だ。幼児でさえ、大人の欠点を即座に探し出す能力を神から授かっている。<ある対象を批判するとは、それを正しく評価することであり、正しく評価するとは、その在るがままの性質を積極的に肯定する事であり、そのためには、対象の他のものとは違う特質を明瞭化しなければならず、また、そのためには、分析あるいは限定という手段は必至のものだ──批評とは人をほめる特殊の技術だ、といえそうだ。>──ウーンその通りだが、<批評とは人をほめる特殊の技術だ>については次回以降の課題としよう。