残照日記

晩節を孤芳に生きる。

古九谷余話

2011-06-20 18:07:36 | 日記
○山代のいでゆに遊ぶたのしさを
   たとへていえば古九谷の青  (与謝野鉄幹)

 出光美術館】
≪美術館は人の芸術作品であり、そこには日本人としての独創と美がなくてはならない。そして、優れた美術品の蒐集を常に心掛け、これをもって時の人の教学の資となし、後の世の人のために手厚く保存しこれを伝えることは、美術館の最も重要な使命である≫(出光佐三翁の昭和41年「出光美術館」開館挨拶より)

∇二度あることは三度ある。“偶然”も三度目。6月20日の今日、出光興産㈱が創業100周年を迎えた由。新聞に大きく載っていた。<「日本人にかえれ」 これは、創業者出光佐三の言葉です。>と。老生の切り抜き帳には次の記事が残っている。<「馘首(かくしゅ=首切り)してはならぬ」──終戦の日から一カ月たった九月十五日、出光佐三は東京の本社に在京の店員(社員)を集め、こう訓示した。…「君達、店員を何と思っておるのか。店員と会社は一つだ。家計が苦しいからと家族を追い出すようなことができるか。事業は飛び借金は残ったが、会社を支えるのは人だ。これが唯一の資本であり今後の事業を作る。人を大切にせずして何をしようというのか」><出光は単に石油業を営んでいるのではない。真に働く日本人の姿を通じて、国家社会に示唆を与えるのがわれわれの目的である。出光の仕事は金儲けにあらず、人間を作ること、経営の原点は「人間尊重」です。 世の中の中心は人間ですよ、金や物じゃない。その人間というものはね、苦労して、鍛錬されて、はじめて人間になるんです。苦労しなきゃ、人間の呼吸は分からんということですよ。>(「20世紀 日本の経済人」1999年7月11日付日経新聞) 「出光佐三翁と美術館」のことは後日一文を綴るつもりである。今日は古九谷について。

∇標記与謝野鉄幹の歌は、青(緑)・紫・紺青を主として用いている彩磁器・古九谷をうまく言い当てている気がする。豪快な絵模様と大胆な色づかいを特徴とする古九谷は、加賀百万石文化の産物として、当時の大名たちが開いた豪奢な宴席を華やかに彩ったことだろう。──さて、今回の出光美術館「花鳥の美」展では、「色絵松竹鶴文大皿」が見事で、「色絵梅花鶯文輪花皿」「色絵松鶴文皿」なども記憶に残っている。この古九谷については、陶磁器そのものについては勿論であるが、所謂“古九谷の謎”についてより興味をそゝられる。即ち、古九谷がいつ始められ、誰の手によって具体的にどのような方法で焼かれ、いつごろ最盛期を迎え、いつごろまで焼かれていたか、そしてなぜ忽然と廃絶されたかなどは今もって推論の域をでない、という点である。通説は以下の通りである。──加賀藩の支藩であった大聖寺藩初代藩主の前田利治が、領内の九谷村で、鉱山開発中に陶石が発見されたのを契機に、磁器生産を企画。九谷鉱山の開発に従事して、錬金の役を務めていた後藤才次郎を肥前有田に陶業技術修得に遣わした。後藤は帰藩後、九谷の地で窯を築き、田村権左右衛門を指導して、明暦元年(1655)頃に色絵磁器生産を始めた。これが九谷焼生産のはじまりである、とされる。

∇その後、この事業を二代藩主利明が引き継ぎ、この時期までに焼成された作品は「古九谷」と呼ばれ、元禄の頃(1700)一旦忽然と消える。一世紀後に「再興九谷」が生まれるのである。謎の第一が産地問題。古九谷が佐賀で焼かれたのか、又は後藤才次郎が習得した技術をもとに加賀で開窯・生産されたのか。それについては、笠間焼を焼いている友人から、<数年前に「加賀地方」ではなく「佐賀」だ、とされる発見があったと聞いている>とのの情報があったので、産地問題は一旦それに従う。第二の「生産者の謎」については、後藤才次郎なる人物が明然としない。或いは越後から金沢に来た白銀師・吉定、或いは傲慢で口数の多い鋳金師・定次、或いは上絵付け職長クラスの忠清などが挙げられ、百石取りの錬金役で唐津修業に派遣されて現地で妻を娶り、妻子を捨てて逃げたというものまである。これについては後述する。第三の謎が、明暦に始まって元禄に終わったとされるわずか40年間での「短命廃窯の理由」である。忽然と消えた理由には、1675年に大聖寺藩内が凶作で本家・加賀藩より米千石の貸与を受けたこと、1682年に藩邸が火事にあい、1686年頃から財政悪化のため藩士の減俸措置がとられた事実があることから、多額の経費を要する陶業が廃止される羽目になったのではないか。さらに二代目藩主利明が1692年に没し、後藤才次郎も1704年に他界して事業推進の中心人物を失ったためではないか等といわれている。又、当時「伊万里」が大量生産され、流通環境に変革が起きて廃窯に拍車がかかった等々…。

∇上記諸説の複合的要因が古九谷を廃絶に追いやったのであろう。だが、古九谷に関する最も古い文献に「中頃制禁有、今は絶えたり」とあることから、何らかの権力によって差し止められたのではないか、という説があるが、老生は、おそらくそれが古九谷廃窯の最大契機であったのではないか、と推量している。1689年、将軍・綱吉から御三家に準じる重職を拝命した5代・加賀藩主綱紀。彼の厳命により、加賀藩そして大聖寺藩へと奢侈厳禁令が敢行された。大藩として幕府から謀反を疑義されていた加賀藩は、率先して諸国大名の範を垂れる必要があった──。周知の通り加賀藩の初代は前田利家。3代・利常の時代に支配機構の整備が行われて藩体制が確立した。そして利常が隠居するとき、三男・利治を取り立てて支藩としたのが大聖寺藩で、7万石を分与された。利治は藩祖として産業振興に力を注ぎ、九谷焼・九谷金山などの開発を奨励・推進した。時に幕府は家康の莫大な遺金も家綱までで食い潰し、綱吉が就任(1680~)する5年前から諸国の飢饉が毎年のように続いていた。元禄の世は、貨幣中心の経済社会となり、町民は活発に活動していたが、諸藩の経営は苦しく、家臣の生活は次第に困窮していった。幕府は諸藩に備荒貯穀を命じ、検地を厳しくして年貢高を高め、酒造半減令を出して財政難を切り抜けようとした。荻原重秀を起用して貨幣の改悪も断行した。元禄6年(1693)、加賀藩は百姓が所有する田の売買を認める「切高仕法」のお触れを出した。これは、当時年貢の率は固定する一方で、貧農に米を貸し与える制度が滞っていたため、百姓同志の貸借が増えており、換金の便を図ったものだが、同時に藩命による倹約令や奢侈禁止令が頻発された。「伊万里」の如く国内のみならず、貿易を通じて貨幣を稼ぎ出す流通産品にまで成長していなかった「古九谷」に圧力がかかるのは当然であったろう。

∇文献を探っていたら、「雪古九谷」(光文社)という面白い小説に出会った。著者の高田宏は加賀陶芸美術館館長で、「言葉の海へ」で大佛次郎賞、亀井勝一郎賞を、「木に会う」で読売文学賞を受賞している。「雪古九谷」は、高田が描く“古九谷の歴史を蘇らせる”傑作時代小説である。彼はこゝで、初代窯場奉行を後藤才次郎・定次とし、甥の才次郎・忠清を跡目奉行とした。“後世に残る加賀独自の彩磁器”を志向した定次に対し、九谷焼繁栄のためには有田の白生地をもとに何でも生産する必要があると説いた忠清が、二代目藩主前田利明を動かした。そして、九谷窯場は十年もしないうちに閉じられた……。<「殿様が気に入ろうが気に入るまいが、何百年の後の人でも、一度見たら引き込まれる絵を残さねばならん。一度見たら目のうらに焼きついて忘れられんほどの絵でなくてはならん。そういう絵は、銭の世から離れて、心で描かねば生れないのだ」>と定次が絵師に説いた「古九谷」こそが、現在珍重されている本物に違いあるまい。──ところで、ルネッサンス芸術が人間復興に根ざしたものであるという一般論に対して、否、豪華絢爛を好む権力者階級が芸術家を酷使して己の欲望を満たした遺産物だという見方がある。利休の切腹理由も、侘び寂び主義だった彼が、金箔でギンギラの茶室を弄んだ秀吉を嫌がったことにある、と梅原猛は言っているが、豪華絢爛たる桃山文化は「銭と権力の誇示」なしには出現しなかった。「伊万里」も「古九谷」も、もとはといえば、当時の大名たちが開いた豪奢な宴席を華やかに彩った奢侈品だった。経済が緊縮に傾く時が、豪快な絵模様と大胆な色づかいを特徴とする古九谷が消える時だった、とする「短命廃窯の理由」は、おそらく芸術一般の盛衰と理を一にするのであろう。閑人の誰に気兼ねもいらぬ推量話である。……