残照日記

晩節を孤芳に生きる。

夏目漱石

2011-06-09 20:28:50 | 日記
○銭湯に客のいさかふ暑さかな  漱石
○よき人のわざとがましや衣更え 漱石
○叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉  漱石

<菅首相:早期退陣に否定的 「震災対応めど」改めて強調──菅直人首相は9日午前の衆院東日本大震災復興特別委員会で、与野党から早期退陣要求が強まっていることについて「大震災に対する努力に『一定のめどがつくまで私が責任を持ってやらせてほしい』と言い、内閣不信任決議案が衆院本会議で否決された。私に『めどがつくまでしっかりやれ』と議決をいただいた」と述べ、早期退陣に改めて否定的な考えを示した。自民党の谷公一氏が「復興基本法案の成立を機に辞めなければ末代までの名折れだ」と早期退陣を促したのに対し、首相は「仮設住宅に入った人が生活できるよう、またがれき処理、原発収束に一定のめどがつくまで、責任を持って仕事をさせてほしい」と力説。「8月中に(被災者の)生活地域からのがれき搬出が目標だ。その後の2次、3次処理につなげていくことも含めて、私の大きな責任だ」と述べた。>(6/9毎日新聞)

∇菅首相はやっぱりペテン師なのだろうか。──菅氏を“ペテン師”呼ばわりしたのは盟友(?)鳩山前首相だった。<内閣不信任決議案が出る直前に辞めると言い、否決されたら辞めないと言う。そんなペテン師まがいのことを時の首相がなさってはいけない。人間はうそをついてはいけません>と。──1906年(明治39)、ニューヨークの出版社から風変わりな「冷笑家用語集」が発刊された。現在尚広く読まれている「悪魔の辞典」である。著者はオハイオ州出身の文筆家アンブローズ・ピアス。当時は政界、宗教界が腐敗し、不正事件が続出した時代であった。それだけに、鋭い社会時評に満ちた「定義集」となっている。因みに日本語で「ペテン師」は、詐欺師。「広辞苑」では中国語のbengziの訛りであると出るが、ピアスの辞典から「政治」「ペテン師」を引くと、以下の通りである。【政治】主義主張の争いという美名のかげに正体を隠している利害関係の衝突。私の利益のために国事を運営すること。【ペテン師】社会的名声を得たいと乞い願うあなたの競争相手。(ピアス「悪魔の辞典」岩波文庫より)──実に見事な定義ではないか!

∇ところで話はガラリと変わる。──明治39年といえば、我が国では英国留学から帰国し、東大講師を辞して朝日新聞社に入社した夏目漱石が、「吾輩は猫である」「倫敦塔」に続いて「坊ちゃん」を出版した年である。夏目漱石は、昨日紹介した『いま、心をひかれる「明治人」』で第二位のファン投票数を獲得した。周知の通り彼は屈指の反骨精神の持主で頑固者だった。ウソ付きを徹底して嫌った。<夏目君は幼児より虚言(ウソ)を吐いたことがなかった。もし余儀なき事故ありて約束を違えることなど起こりし時は、平素の強情なるに似ず、自ら非常に愧じて、後日幾回となく弁疎をなし、相手の満足するまで気に掛けて止まなかった。尤もこの時代の武士の子供は一般に不文律として、虚言を吐くな、人の物を盗むな、喧嘩したらまけるなを、言わず語らず、固く守っていたころであるから、今日からみると、当時の子供の心理状態は多少今日とは相違していたのである。殊に夏目君は虚言つきと言わるゝことを、神経質かと思わるゝ程に、気に掛けていた。>(「腕白時代の夏目(漱石)君」 篠本二郎氏(「漱石全集」岩波書店刊)

∇一時期教科書から夏目漱石や森鴎外の肖像が消え、千円札が野口英世に変わってしまった今時、夏目漱石の名前は聞いたことがあっても、「坊ちゃん」や「我輩は猫である」、特に「猫」を通読した人は決して多くはあるまい。まして夏目漱石の名前の由来となった「孫楚漱石」が「蒙求(もうぎゅう)」に載っていることを知る者は殆どいないだろう。改めて書棚から岩波の全集を引っ張り出してぺラペラ捲ってみたが、第一漢字が難しくて読めまいと思った。仮に全部ルビをふっても、語彙が難しくて理解し難い。さて、「坊ちゃん」は、<親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰を抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談に、いくら威張っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃したからである。小使に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴があるかと云ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。>で始まる。いかにも頑固者の夏目漱石らしい初期の作品である。

∇小宮豊隆が全集の解説で述べているように、この作品で<漱石の計画したところは、生意気な中学生一般、教育のばけ者のような校長、裏表の多い教頭、そういう校長だの教頭だのご機嫌ばかりをとっている太鼓持のような教師、その他いろんな教師一般を描き出すという点にあった>。「坊ちゃん」が発表されたのが漱石39歳。ロンドン留学後の神経衰弱に悩まされ、教師という職業に飽き足らぬ不満を抱えていた。「坊ちゃん」の舞台はかつて松山中学に赴任していた一年間の体験談を装っているが、内情は大学での不満が紙背に伺える。翌年教壇を断って朝日新聞に入社するのだが、小宮に宛てた手紙がそれを語っている。<世の中はみな博士とか教授とかをさもありがたきもののように申しをり候。小生にも教授になれと申し候。…しかしエラカラざる僕の如きは殆ど彼らの末席にさへ列するの資格なかるべきかと存じ、思い切って野に下り候。生涯はただ運命を頼むより致し方なく前途は惨憺たるものに候。それにもかかはらず大学に噛み付いて黄色になったノートを繰り返すよりも人間として殊勝ならんかと存候。…大学は月給とりをこしらえてそれで威張っている所のように感ぜられ候。月給は必要に候へども月給以外に何もなきものどもごろごろして、毎年赤門出で来るは教授連の名誉不過之と存候。……>(明治40年3月23日)

∇漱石は権威に媚びず、中味の伴わない輩や事々を極度に嫌った。明治44年帝大からの博士号授与を断った。<拝啓。昨20日夜十時頃、私留守宅へ、本日午前十時学位を授与するから出頭しろと御通知が参ったそうであります。…学位授与と申すとニ、三日前の新聞で承知した通り、博士会で小生を博士に推薦されたについて、右博士の称号を小生に授与になる事かと存知ます。然るところ小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、これから先もやはりただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております。従って私は博士の学位を頂きたくないのであります。…右の次第故学位授与の儀は御辞退致したいと思います。敬具。>(福原学務局長宛)我儘で頑固一徹で、内面に任侠に近い義侠心を持った、「坊ちゃん」を地で生きたような漱石を老生は愛す。作品では「草枕」「思い出す事など」「夢十夜」「硝子戸の中」「倫敦塔」「カーライル博物館」等々の小品群や随想類。そして特に彼の日記・断片類、書簡集そして俳句・漢詩を好む。鏡子夫人の書かれた「漱石の思い出」や正岡子規との往復書簡、“木曜会”の弟子達が随所に残した逸話などを併せ読んでいると、いつの間にか時の経つのを忘れてしまう。「石に枕し、流れに漱(くちすゝ)ぐ」というべきを過って、「石に漱(くちすゝ)ぎ流れに枕す」と言ってしまって言い訳を通した晋の孫楚の上をいく、硬骨・夏目漱石を読める幸せを感じている次第である。