オーロラ特急    ノスタルジック旅日記 

旅好き、歴史好き、鉄道好き、クルマ好き、カメラ好きの団塊ボーイが社会科見学的な旅を続けます。

2019桜の旅 護国寺の安行桜は八分咲き、播磨坂の河津桜は葉桜

2019年03月12日 | 東京
護国寺仁王門仁王像仁王門の内側豊山高校側の安行桜。八分咲きです。石段両側の安行桜「からすの赤ちゃん」歌碑私立獣医学校発祥の地。現在の日本獣医生命科学大学(武蔵野市)です。民謡碑音羽富士音羽浅間神社の鳥居音羽富士の山頂石段上の仁王像音羽大仏本堂本堂前の枝垂れ桜本堂左手の安行桜。八分咲きというか、満開に近いです。音羽幼稚園の安行桜音羽ゆりかご会護国寺惣門。文京区指定有形文化財です。惣門豊島岡御陵。皇族の墓地です。不二家本社の喫茶室
ペコちゃんお茶の水女子大学の建築中の建物。隈研吾事務所の設計です。木材を活かした隈流の外観ではなく、金属板を壁面に張っています。お茶の水大学の正門図書館流通センター。以前の同潤会大塚女子アパートの跡地です。女子アパートは2003年に解体され、図書館流通センターのビルができました。図書館流通センターは全国の図書館への図書の納入、図書館業務の受託を行う大手企業です。公共図書館のスタッフの多くは同社のスタッフで、図書館の図書も同社から納品された本が大多数です。日本図書館協会、大手取次、大手出版社などが出資しています。
都バス大塚車庫の跡地。中央大学が東京都から借地し新キャンパスをつくることが決定しています。私立大学の生き残り戦略として都心回帰が顕著になっていますね。池袋も老舗の立教大学に加えて帝京平成大学、東京福祉大学、さらにサンシャイン東側には埼玉県から東京国際大学が進出してきます。明治通りの都電・学習院下近くにあった喫茶店です。店名は「学習院下」から「学下」に変わりました。
木工家具の店熟成肉専門店・中勢以。とんかつとハンバーグがおいそうですが、予約が必要みたいです。河津桜はすでに葉桜でした。播磨坂にただ1本の河津桜です。河津桜は「チャイルドブック」のチャイルド本社前にあります。共同印刷本社ビル。共同印刷といえば「週刊少年ジャンプ」の印刷所で、ジャンプは1990年代には650万部というとてつもない販売部数を記録しました。もう一つ、共同印刷はプロレタリア作家・徳永直「太陽のない街」のモデルとなった印刷工場です。
共同印刷はかつては大日本印刷、凸版印刷に次ぎ業界第3位でしたが、今はトッパン・フォームズ、NISSHA(旧日本写真印刷)に抜かれて業界5位です。事業の多角化に積極的な大凸、フォーム印刷などの得意分野に特化するトッパン・フォームズに負けるのは兎も角としてNISSHAにも負けているのは意外でした。NISSHAは美術印刷、高品質印刷に強い関西が地盤の会社で収益率は高く、共同は出版印刷に強いが出版不況の影響を受けて厳しいと思います。共同は輪転機を回すのが得意という昭和の時代の印刷会社なのかもしれません。
ここで最近の業界ニュースをチェックしたら、なんとNISSHAの東京の事業部門は共同に譲渡されることが昨年秋に発表されていました。正確には共同が9割、NISSHAが1割を出資した新会社がNISSHAの東京事業を継承することになります。いやはや生き残り競争は熾烈ですね。
松平播磨守の上屋敷があったことから播磨坂と言われました。松平播磨守は水戸藩の支藩、常陸石岡藩の藩主です。文京区には水戸藩の屋敷跡が多いです。小石川後楽園は有名ですが、大塚3丁目、現在の教育の森公園一帯、本郷の東大農学部一帯も水戸藩邸でした。カフェ・アリッサラ。以前はラーメン店でしたが。播磨坂の南側から見た河津桜
パティスリー・レセンシエル。シュークリームがうまそうです。
文京区立小石川図書館
団平坂。団平は大名でも文化人でもなく米つき職人だそうです。一般町人の名前が地名になるのはきわめてめずらしい。石川啄木終焉の地そのすぐ隣にできた石川啄木顕彰室啄木最後の歌の歌碑。「呼吸すれば胸の中にて鳴る音あり。」館内展示
私は小・中学校を函館で過ごし、高校は札幌でした。いまは文京区の住民です。啄木は岩手から東京に出て小石川区小日向に住みました。現在の鳩山会館の近くです。体調を悪くし一度帰郷し、その後北海道へ渡り、函館、小樽、釧路と職を求めて移動します。函館で新聞社の職を得たのですが1907年(明治40年)8月の函館の大火で函館を離れ小樽へ移ります。函館大火は1934年(昭和9年)3月の大火が有名ですが、函館は何度も大火に遭っています。半島から突き出た砂州の上にできた町なので強風が吹く日が多いんですね。私も子供時代の強風の日を覚えています。冬の強風の日はストーブの煙が煙突から吹き返してきてます。家中が煙くなったりストーブの火が過剰燃焼したり大変でした。
「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」この歌は函館時代に大森浜で歌ったものです。大森浜は私もよく遊びに行きました。啄木は再び上京し朝日新聞で校正の仕事を得ます。そのころ大逆事件が起こり、啄木は事件の裁判記録を入手して幸徳秋水らの社会主義運動に関心を持ちます。1912年、26歳で小石川区久堅町(現在の小石川5丁目)で没します。
春日通り裏手の和菓子店・一幸庵
護国寺・茗荷谷を歩き終えて、学下コーヒーに入りました。店の前に「店主に話しかけないでください」という張り紙があります。席に付くと店主らしい人が「当店はパソコン禁止ですが大丈夫ですか」と。私が隣の席にバッグを置くと「荷物は床の荷物入れのカゴに入れてくださ」と。ルールが厳しいです。しばらくすると2人の客が入店。店主はかなり長々とコーヒーについての説明をしている。店主は長話をしていいらしい。ちなみにお客は先客が1人、私が1人、あとから来た客が2人の合計4人。オーディオ装置は凝っていて静かにジャズが流れていました。音はよかった。コーヒーは1杯600円。味は私の好みではなかった。

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