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オーロラ特急    ノスタルジック旅日記 

旅好き、歴史好き、鉄道好き、クルマ好き、カメラ好きの団塊ボーイが社会科見学的な旅を続けます。

関西・古城の旅 信長に刃向かった梟雄・松永弾正の信貴山城

2016年10月18日 | 近畿

関西の旅2日目の目的地は信貴山です。城郭考古学者・奈良大学教授の千田嘉保氏が日経新聞にコラムを連載しています。千田氏は9月のコラムで信貴山城について触れました。その記事がきっかけで信貴山城に行きたくなりました。


東京在住の私には信貴山と言われてもどこにあるのかピンとこない。路線図とにらめっこしつつ、JR俊徳道駅まできて、近鉄線に乗り換え、河内山本駅を経て信貴山口駅に着きました。

信貴山口駅では駅構内で西信貴山ケーブルと直結しています。

ケーブルカーは平日の昼間は30分に1本です。私が乗った時は他の乗客は1人だけでした。発車を待っている時間、車内でシートに座っていると座席が前のめりに傾斜しているので疲れます。多分、相当な勾配なので座席は山麓駅で水平ではなく前のめりになっているのでしょう。

中間点ですれ違います。


最大の急勾配区間です。


高安山駅。ここで西信貴ケーブルについて事後ながら調べたことを書きます。このケーブルカーの名称は西信貴ケーブル、正式名は近鉄西信貴鋼鉄線。西信貴というから、東信貴ケーブルも昔はありました。高安山駅から信貴山門駅まで山上の尾根部に鉄道があったのです。信貴山門駅から東側の東信貴ケーブルまで鉄道を延伸する計画もありましたが、実現せず、山上の鉄道と東信貴ケーブルは廃止となり、西信貴ケーブルだけが残りました。

信貴山鉄道の線路跡は信貴生駒スカイラインの一部となり、現在はバスが走っています。


信貴山朝護孫寺への参道、開運橋

国道236号線の信貴大橋。橋の下は大門池という名のダム湖です。



開運橋は登録有形文化財です。

信貴山は聖徳太子が「信ずべき尊ぶべき山」と称したことに由来。日本で初めて毘沙門天が出現した霊場です。聖徳太子が戦勝を祈願した際に虎を供にした毘沙門天が現れました。その日が寅年の寅の日の寅の刻だったので、信貴山は毘沙門天を祀り、虎を福の神とするようになりました。

観光センター



開山堂


世界一の福寅

赤門


かやの木稲荷


成福院


信貴山城跡は空鉢護法堂となっています。


多宝塔




標高437m、信貴山の山頂に近づきました。




空鉢護法堂

空鉢護法堂からの眺め

信貴山城址碑

信貴山城の痕跡はあまり残っていません。






松永屋敷跡

大谷池

虚空蔵堂



朝護孫子寺本堂。毘沙門天王を祀っています。

舞台

舞台から河内平野を一望できます。




千手院

信貴山門からバスで王寺にきました。王寺は東側から信貴山へいく拠点です。
信貴山城は痕跡は少なく、寺めぐりがほとんどでした。でも戦国時代の梟雄松永弾正の気分にひたれたのは収穫でした。
松永弾正久秀は足利将軍義輝を殺害、主家の三好氏を滅ぼし、奈良の大仏を焼き払い三つの悪事をはたらき織田信長には「三悪を成した老人」と言われました。斎藤道三、宇喜多直家と並び戦国時代の梟雄の一人です。
弾正は築城術にすぐれ、信貴山城には四階櫓を築き、天守の先駆的存在ともいわれています。信貴山城に次いで多聞山城を築き、多聞山城の櫓の形式を参考に各地の城に多門櫓がつくられるるようになりました。多聞山城の遺構はほとんど残っていません。信長も弾正の築城術を参考にしたように思います。
弾正は茶人としても優れ、信長に反旗を翻し信貴山城に籠城した最後の時、信長が熱望した茶器「平蜘蛛の釜」を破壊し、滅亡します。
信長には離反した家臣が多いですね。明智光秀を筆頭に、荒木村重、松永弾正など。家臣ではないが浅井長政、将軍義昭も離反者かもしれない。これら有為転変の多い武将は興味深い。









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