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オーロラ特急    ノスタルジック旅日記 

旅好き、歴史好き、鉄道好き、クルマ好き、カメラ好きの団塊ボーイが社会科見学的な旅を続けます。

奥州・古城の旅 八戸南部藩の八戸城、義経伝説のおがみ神社

2016年09月26日 | 青森・秋田・岩手

八戸でJR八戸線に乗り換え、本八戸駅へ向かいます。目時・青森間は第3セクターの青い森鉄道としてJRから分離されましたが、八戸・久慈間はJRとして継続しています。

JR本八戸駅南口。八戸の市街地は南側に広がっています。


駅近くのおがみ神社

義経伝説


三八城神社。八戸城跡です。


義経伝説の弁慶岩

神社本殿


八戸出身の三浦哲郎文学碑

八戸城址碑

八戸城は盛岡南部藩10万石の藩主重直が死亡、異母弟の重信が盛岡藩8万石を継承、同じ異母弟の直房が八戸藩2万石を興して居館を築きました。この奥に本丸跡と南部直房の像があったのですが、私は八戸城の情報を何も持っておらず、知らずに通り過ぎてしまいました。根城が目的で八戸へきたのでやむを得ないです。


公会堂


市役所。伊調馨は八戸の出身です。




八戸城角御殿表門。

八戸市街の地図。十三日町、十六日町など、市が立つ日にちなんだ町名です。


夏掘正元ゆかりの地。小樽出身の作家夏掘正元の父親、悌二郎は三戸郡の出身で、小樽で弁護士を開業し道議会議員を務めたあと八戸に移り、初の八戸市長になりました。八戸港は戦前は大型船が入りにくい港でしたが、悌二郎が市長として八戸港の防波堤を築いたことにより工業港として発展し、高度成長時代に八戸は臨海工業地帯となりました。正元は小樽中学(現小樽潮陵高校)から八戸へ転校、早稲田大学へ入学、中退。早稲田の学生のころ八戸にはたびたび帰省したようです。小樽高商(現小樽商大)の学生だった小林多喜二は高商の講師だった悌二郎の講義を受講した模様。案内板の文字がまったく読めないのが残念です。正元より悌二郎のことを書くべきかと思いますが。


奥州・古城の旅 南部藩発祥の地、南部氏26代信直の三戸城

2016年09月26日 | 青森・秋田・岩手


二戸から再びいわて銀河鉄道に乗り、三戸に到着

三戸駅


三戸駅前

三戸は盛岡南部藩発祥の地です。駅前は南部町で、三戸城は三戸町にあります。


駅前のバス停。ちょうどいい時間のバスがありました。私は運転席でマンガを読んでいた運転手に城山公園へ行くかと聞いたのに、運転手は声は出さず首を若干うなずいただけ。多少時間があるのでバス停近くで待っていたら、私を無視して乗客ゼロでバスはそのまま発車していきました。近年はやり過ぎではというくらい親切な運転手、車掌、駅員などがいるなかで、こんなふざけた運転手がいるんですね。後日私はバス営業所へ抗議の電話を入れました。


結局タクシーで城山公園下まできました。

門住稲荷神社

三戸城址碑


三戸城は九戸城で紹介した南部晴政、晴継、信直の居城です。





綱御門下には石垣が残っています。





綱御門は1989年に復元されました。

天地有情の碑

網御門の内側


武者溜跡


鳩御門跡

桜庭安房屋敷跡



目時筑前屋敷跡。途中いわて銀河鉄道に目時という駅がありました。

石亀七左衛門屋敷跡

東彦左衛門屋敷跡

糠部上水道通水記念碑


満蒙開拓団の慰霊碑

欅御門跡


糠部神社の鳥居


第42代横綱鏡里の石碑。私はぎりぎり現役の鏡里を記憶しています。1958年初場所で初代若乃花(当時大関)が初優勝し、翌春場所で横綱へ昇進。鏡里は吉葉山とともに1958年初場所限りで引退しました。この初場所は新旧交代の場所でした。鏡里は引退後、年寄立田川を襲名、時津風親方(元横綱双葉山)の死後は一時時津風部屋を継承するも、豊山(元大関)に親方を譲り、自らは立田川を開きました。立田川部屋は1990年ころ飯田橋のホテルエドモントの前に部屋があったのを記憶しています。
青森県は北海道と並び多くの横綱を輩出、相撲王国と言われ、青森県初の横綱が鏡里でした。その後、若乃花、栃ノ海、2代若乃花、隆の里、旭富士と続きます。

1967年に建築された模擬天守

三戸城の碑


追分石


子持石

模擬天守に連なる歴史民俗資料館は休館日でした。

三戸城絵図。両側を馬淵川と熊原川に挟まれ舌状の河岸段丘の上に築かれています。最上部に本丸、その途中の大手道に重臣の屋敷を配した連郭式山城です。なんとなく安土城に似ています。

樹齢400年のさいかちの木

南部政直屋敷跡。彦九郎政直は26代信直の孫で、盛岡南部藩2代藩主です。信直は居城を九戸城へと移しているので、孫の政直が三戸城に屋敷を持っていたのは不思議です。


糠部神社本殿

樹齢800年のスギ

太鼓櫓跡

本丸跡


本丸跡は広い駐車場になっています。

本丸跡の食堂・売店

三階櫓跡

本丸に隣接する谷丸の跡地

大御門跡

心字の庭石

明治期の三力士、関根川・佐上山・八幡山の碑。三戸は江戸時代から草相撲が盛んだったそうです。

上段御馬屋跡

鶴池

繭子の像

亀池


淡路丸跡

大清水

三戸町市街


門住亭


三戸の町並みです。

いい雰囲気の歯科医院です。


金物店

三戸中央病院

旅の2日目は八戸に泊まる予定。八戸へ向かいます。











奥州・古城の旅 九戸政実の乱、豊臣の大軍が包囲、落城した九戸城

2016年09月26日 | 青森・秋田・岩手
北海道・東日本パスを利用し3泊4日の予定で奥州、岩手・青森の城めぐりの旅に出かけました。


東北本線・小牛田(こごた)駅に到着

一ノ関駅に到着

盛岡駅に到着、1日目は盛岡で宿泊

IGRいわて銀河鉄道の盛岡駅

路線図。目時までがいわて銀河鉄道、目時以北は青い森鉄道です。

いわて銀河鉄道の電車

いわて沼宮内駅で乗り継ぎです。新幹線側の駅舎

JR東日本のポスター。ファイターズ大谷選手と駒ケ岳


いわて沼宮内の駅舎


青い森鉄道の電車。相互乗り入れです。

二戸駅。新幹線も停車します。九戸城は二戸市にあります。

二戸駅前

九戸城の城山下を流れる馬淵川。九戸城は西は馬淵川、北は白鳥川、東を猫渕川に囲まれた要害の平山城です。

久府坂と街道分岐点

酒店


安養寺・成田山

九戸城址入口


九戸城パンフレットが入っているポスト

パンフレット


堀跡






大手門付近



二の丸は現在発掘調査中です。





九戸城跡1/500模型

奥州南部氏に御家騒動が起こり、1591年に九戸政実は南部26代の信直に対して挙兵しました。信直は豊臣秀吉に援軍を要請し、九戸の決起は豊臣への反旗となり、豊臣秀次を総大将とする蒲生、浅野、井伊、南部、津軽、松前など6万の大軍に包囲されついに落城、九戸一族は惨殺されました。
御家騒動の発端は24代晴政の死後、実子の晴継が25代となるも不審死を遂げ、その後継争いに晴政の長女の婿養子・信直(晴政の従弟)と次女の夫・九戸実親が対立。九戸も南部の一族で、政実は実親の実兄です。南部一族どうしの争いのうちは九戸側が優勢でしたが、豊臣の大軍が相手では勝ち目はありませんでした。
このあたりの経緯は安部龍太郎の「冬を待つ城」が必読です。歴史上のどの争いもどっちが正当かは紙一重です。結論は勝てば官軍です。



二の丸跡

本丸堀

本丸虎口

本丸石垣。東北最古の石垣です。


本丸跡




本丸跡から見た三の丸跡の市街地



追手門跡


追手門付近



本丸石垣



土井晩翠「荒城の月」の碑。「荒城の月」のモデルは豊後岡城、会津若松城、仙台青葉城などいくつも説があります。

搦手門跡






石沢館(外館)跡



発掘調査

九戸城戦没者碑





本丸下を歩きパンフレットポストの場所へ戻ります。

城山下のモダンな中華レストラン

元警察署庁舎。移転したようです。

豊臣の大軍が滞陣した馬淵川

古戦場まつりのポスター。ゲストはプロレスラーの藤波辰爾です。

二戸駅に戻りました。
九戸政実の乱と一般にいいますが、私はこの場合の乱という言い方に違和感を感じます。歴史的に乱とは応仁の乱、島原の乱、大塩平八郎の乱など、朝廷・幕府への反乱または内乱状態をいうものであり、この九戸政実の場合は、豊臣政権に反乱したわけではない。南部信直と南部家の正統を争ったもので、あくまでも南部家内の御家騒動です。その御家騒動の一方に豊臣が加担し、大規模な戦いとなりました。またこの時点ではまだ豊臣秀吉の天下統一は成ったわけではなく、九戸・南部の戦いを最後に天下統一が完成します。中央の政権への反乱でも内乱状態でもないということです。小田原北条家との戦いも北条の乱とは言わないですからね。
話変わって歴史上の変とは、政権交代を伴う軍事行動や謀略・陰謀事件を指すようです。その代表は本能寺の変で、ほかにも桜田門外の変、禁門の変など。乱、変のほかに、役の定義もあいまいです。
西南戦争ともいえば西南の役ともいう。神風連は乱で西南戦争は乱ではないのか。私は西南戦争は鹿児島私学校の乱、あるいは西郷隆盛の乱というのが正しいと思うがどうでしょう。






















みちのく津軽の旅(5) 津軽鉄道金木駅、太宰治「斜陽館」へゆく

2015年04月03日 | 青森・秋田・岩手
津軽の旅、3日目の午後、津軽鉄道で金木(かなぎ)の斜陽館へ行きました。斜陽館は太宰治の生家です。
弘前からは五能線に乗り、五所川原駅で津軽鉄道に乗り換えます。JRは五所川原駅、津軽鉄道では津軽五所川原駅といいます。五所川原というのは語感が重くいいですね。

津軽鉄道の車両

津軽鉄道の駅広告

JR駅の展示。五所川原もねぶたが盛んで、五所川原のねぶたは「立ねぶた」といい、青森、弘前とは異なる独特のものです。

JR五所川原駅

津軽鉄道の本社社屋

津軽鉄道の津軽五所川原駅


駅舎内


これらの車両がストーブ列車として運行されるようです。

津軽鉄道の古い車両が保存展示されています。

津軽鉄道は直線が多く津軽平野をまっすぐ進みます。

金木駅

太宰治が戦時中に疎開した新座敷。もとは斜陽館の離れにあったそうですが、戦後少し離れた場所に移設されたようです。


斜陽館。重要文化財として指定されている壮大な近代和風建築です。設計は堀江佐吉ですが、建築工事の途中で佐吉は他界したため四男・伊三郎の手で完成しました。
戦後津島家はこの建物を手放し、地元業者が旅館として運用していましたが経営が破綻。その後は金木町(当時。現在は五所川原市)が運営し町営(現在は市営)の記念館として公開されています。


津島家時代の帳場。津島家は津軽の豪農・大地主で小作人が300人もいたそうです。金融業も営み斜陽館の向かいには銀行の店舗(現在の青森銀行金木支店)があります。


洋間

斜陽の間


仏間

蔵。内部は展示室になっています。



土間

太宰治生誕祭は金木の隣、芦野公園駅の太宰文学碑の前で毎年6月19日に開催されます。桜桃忌は三鷹の禅林寺で命日の6月13日に開催されます。

有名な写真家・林忠彦が銀座のバーで撮影した太宰のスナップ写真を使ったポスター

JR東日本の「大人の休日倶楽部」のポスター。芦野公園での撮影です。

五所川原市金木庁舎(旧金木町役場)




金木駅の駅名板。棟方志功の文字でしょうか?

金木駅にて。芦野公園へも行きたかったのですが時間がなく今回は断念しました。

五所川原駅にて

岩木山。津軽ではどこからでも岩木山を見ることができ、まさに津軽の名峰、シンボルですね。

3日間の津軽の旅を終えました。岩木山、竜飛岬、青函トンネル、高倉健の映画「海峡」、五能線、八甲田丸、青森桟橋、弘前城、建築家・前川國男、同・堀江佐吉、津軽鉄道、太宰治、斜陽館、充実した想い出深い旅でした。













みちのく津軽の旅(4) 弘前市内の歴史的建築物を巡る

2015年04月02日 | 青森・秋田・岩手
弘前市は歴史的建築物の宝庫ともいえる町です。明治期に弘前城の石垣修復工事を担当した大工棟梁・堀江佐吉による旧弘前市立図書館、旧青森銀行本店など、日本の近代建築の第一人者・前川國男の市立病院、市民会館、市立博物館など8つの建築物、他にも洋館、教会、レンガ造りの各種建築物が市の各所にあります。

青森銀行記念館(旧青森銀行本店。重要文化財)、堀江佐吉の建築です。堀江佐吉はもともとは津軽藩のお抱えの大工でしたが、明治初期に函館で西洋建築を学び、弘前に帰って数々の西洋建築物を設計・建築しました。

現在の青森銀行本店

安寿と厨子王と母、3人の像。安寿と厨子王の像がなぜ弘前にあるのか調べましたが、母子の出身地は奥羽、陸奥のどこかは不明のようです。伝説、小説の上の話です。福島県いわき市にも母子の像はありました。

旧市立図書館。堀江佐吉建築

平面図



旧図書館の内部

現在の市立図書館

岩木山



旧東奥義塾外人教師館。堀江佐吉建築

外人教師館内の喫茶室。弘前はコーヒーが日本で初めて普及した町だそうです。幕末に蝦夷地防備に赴いた津軽藩士が病気の予防薬として珈琲を常用し、函館から珈琲を持ち帰って飲用として普及させたとのことです。


外人教師館の裏手の弘前ミニチュア歴史的建築物群。東武ワールドスクエアです。


前川國男建築の弘前市庁舎。手前は弘前城の外濠

青森の有力地方紙・東奥日報の本社。普通のビルです。

旧第八師団長官官舎。現在は弘前市長公舎。堀江佐吉の長男の設計


城内の弘前市民会館。前川國男の設計


市民会館のすぐ裏手の弘前市立博物館。前川國男の設計


博物館の前庭の植栽。頑丈な作りの雪囲い。さすが雪国、豪雪地帯です。



城内の緑の相談所。前川國男の設計

県立弘前中央高校の講堂。前川國男の設計

藩祖・津軽為信の像

弘前城の三の丸を見渡せる位置にあるライオンズマンション。宝くじが当たったらこのマンションに住みたい。

三上ビル(旧弘前無尽社屋)。初期の鉄筋コンクリート造り

田中屋。津軽塗りの店

斜陽館のような和風建築の旅館

宿泊したホテル・ドーミーイン。ビジネスホテルなのに温泉大浴場があるのはうれしい。設備も最新です。


弘南鉄道の中央弘前駅。大鰐温泉へいきます。

中央弘前の駅舎

中央弘前駅前のショッピングモール・ルネスアベニュー。スイスのシオン城のような建物です。

弘前昇天教会。ジェームス・ガーディナーの設計。ガーディナーは立教女学校(築地居留地)、明治学院、遺愛学院(函館)、フランス大使館、オランダ大使館などを設計したアメリカ人建築家です。



えきどてプロムナード

JR弘前駅


裏側の弘南鉄道弘前駅。黒石へいきます。

紀伊國屋書店

青森県の老舗デパート・中三。中三は五所川原で創業した老舗デパート。一時は青森、弘前、秋田、盛岡、五所川原、二戸に店舗を構えていたが経営破綻し、今は青森、弘前の2店舗で再建途上です。北海道の丸井今井も棒二森屋も五番館もすべて自力経営は頓挫しています。五番館は消滅しました。地方の老舗デパートには厳しい冬が続きますね。
【後記】後日、中三弘前店は毛綱毅曠の建築だということを知りました。不覚です。もっと詳しく見ればよかった。毛綱毅曠は釧路出身の建築家で、2001年に他界しました。有名なのは釧路フィッシャーマンズ・ワーフや釧路湿原展望台など。毛綱毅曠の建築物は出身地の釧路に多く、本州には数ヵ所しかありません。その希少な一つです。

蓬莱橋付近の土淵川


弘前市立病院。前川國男の設計

夕食を食べた洋食店「磊」。「みついし」と読むそうです。

弘前市内に前川國男の建築物が8つあります。市民会館、市立博物館、市立病院、緑の相談所、市役所、弘前中央高校講堂の6つの建物を今回撮影しました。残りの木村産業研究所と弘前市斎場は今回は見送り。
前川國男はパリへ留学しル・コルビュジェに学び、帰国後のデビュー作が木村産業研究所です。なぜ前川作品は弘前に多いのか? 前川國男は新潟の出身ですが、母親がこの弘前の出身で、母親の縁で弘前で建築設計のデビューをし、その後も弘前との良好な関係が続いたようです。
堀江佐吉といい前川國男といい、弘前に今も建築物が残っているのは嬉しい限りですね。弘前市には「趣のある建物」を指定する制度があって、歴史的建築物の保存維持に積極的な活動を続けている成果です。
【後記】毛綱毅曠設計の中三弘前店も「趣のある建物」に指定してほしいですね。