茶沢通り、と言われてああ、あの辺りねとすぐにわかる人はそれほど多くないかと思われます。甲州街道、環七などと比べればごくローカルな道です。
三軒茶屋と下北沢を繋ぐ道なので茶沢通り。なぜ三下通りにならなかったのか。「三下」という言葉がヤクザ用語でイメージが悪かったからかも知れません。
道路としてはそれほど古いものではなく国土地理院の年代別写真で見ると確立するのは戦後1945年から1950年の間のことです。

茶沢通りの起点は国道246の三軒茶屋交差点。靴のチヨダを右奥に行けば茶沢通り、左に行けば世田谷通りです。チヨダは古いです。
チヨダの右隣りにある田中屋という陶器店はもっと古い。江戸の後期に旧大山道と新大山道の分岐点だったこの場所に三軒の茶屋があったのですが、その一軒が田中屋です。田中屋は明治に入って火災で焼失してしまったのですが、その後陶器店に鞍替えをして現在でも営業を続けています。

茶沢通り商店街。写真で見ても一直線に下って行くことが分かります。

下った底にあったのは烏山川の暗渠です。

太子堂バス停。三軒茶屋はかつては太子堂村と呼ばれていました。現在でも246の北側の住所は世田谷区太子堂です。
小田急バスの下61系統は下北沢から茶沢通りで三軒茶屋へ。そこから246経由で上馬交差点。上馬から環七に入って野沢龍雲寺経由で駒沢陸橋までというルートです。高校の頃にこのバスを使って毎月下北沢までチェロのレッスンに通っていたのでした。

なので茶沢通りにあるバス停の名前は全て聞き馴染みがあります。淡島通りと交差するここ代沢十字路にもバス停がありました。

烏山川暗渠で下がって、代沢十字路で少し登ってその先はまた下り。下った先には北沢川の暗渠があります。

北沢川のちょっと先にある森巌寺に寄り道。

淡島堂。1836年に建てられた境内最古の建物。森巌寺開祖の和尚が故郷の和歌山県加太の淡嶋神社を勧請して建てたものです。
三軒茶屋と下北沢を繋ぐ道なので茶沢通り。なぜ三下通りにならなかったのか。「三下」という言葉がヤクザ用語でイメージが悪かったからかも知れません。
道路としてはそれほど古いものではなく国土地理院の年代別写真で見ると確立するのは戦後1945年から1950年の間のことです。

茶沢通りの起点は国道246の三軒茶屋交差点。靴のチヨダを右奥に行けば茶沢通り、左に行けば世田谷通りです。チヨダは古いです。


茶沢通り商店街。写真で見ても一直線に下って行くことが分かります。

下った底にあったのは烏山川の暗渠です。

太子堂バス停。三軒茶屋はかつては太子堂村と呼ばれていました。現在でも246の北側の住所は世田谷区太子堂です。
小田急バスの下61系統は下北沢から茶沢通りで三軒茶屋へ。そこから246経由で上馬交差点。上馬から環七に入って野沢龍雲寺経由で駒沢陸橋までというルートです。高校の頃にこのバスを使って毎月下北沢までチェロのレッスンに通っていたのでした。

なので茶沢通りにあるバス停の名前は全て聞き馴染みがあります。淡島通りと交差するここ代沢十字路にもバス停がありました。

烏山川暗渠で下がって、代沢十字路で少し登ってその先はまた下り。下った先には北沢川の暗渠があります。

北沢川のちょっと先にある森巌寺に寄り道。

淡島堂。1836年に建てられた境内最古の建物。森巌寺開祖の和尚が故郷の和歌山県加太の淡嶋神社を勧請して建てたものです。
名前に堂がつきますが権現造の立派な神社です。
淡島堂が淡島通りの由来になりましたが、そもそもその名称は和歌山が由来だったのでした。

とても大きなイチョウの木が何本もありました。木の後ろは幼稚園で市川海老蔵さんのお子様二人が通っていたという地元情報をいただきました。

森巌寺を過ぎればすぐに下北沢です。学生時代にもよく来ました。信号の少し先にロッキングチェアのある喫茶店があってお気に入りでした。

井の頭線のガードをくぐります。昔と比べるとなんだかすごく立派になったこの橋。ストリートビューで振り返ると2013年から2014年にかけて架け替えられていました。
これ以前はこんなコンクリの橋脚ではなく、盛土した土手にかかってたんです。こんな感じ。えらく立派になってびっくりぽんです。
まだ工事中のようですが、大きな土手がなくなって生まれた空間にまたお店とかができるんでしょうか。調べたらやっぱりそうでした。

鈴なり横丁とザ・スズナリ。ここはほとんど変わってなくて安心しました。

井の頭線のガード辺りで茶沢通終点かと思っていましたがもう少し続くようです。道が大きく右にまがる辺りに新しい建物がありますが、ここは13年前はこうだった場所です。

同じ場所で後ろ(下北沢駅方向)を見るとまだ更地のままでした。

今回は茶沢通りを歩ききる日ですので下北沢の再開発見学はまた今度。とりあえず先に進みます。またかつては川だったと主張する通りがありました。
暗渠マニアの方のサイトでこれが北沢川の支流の森巌寺川の暗渠だと知りました。本当にこういうマニアの人たちの不断の努力には頭が下がります。

てなこと言ってるうちにここが茶沢通りの終点。東京都道420号鮫洲大山線にぶつかって終わりです。鮫洲大山線と言えばあの環状6.5号線のアレです。
道路拡張のための用地買収が進むこの通りは日本民藝館の帰りに自転車で一度通っていました。

南に少し下ると東北沢駅前。地下化された小田急線が地下に潜るその場所がここです。

東北沢駅前。ということはこの場所も10年前は踏切だったということですね。

東北沢駅のホーム一番新宿寄りから。地下のホームなんですが線路の向こうに空が見えています。

本日のコース(水色の線)南から北に。烏山川の低地と淡島通りの尾根と北沢川の低地を過ぎてその先は別の川筋にそって東北沢まで。
この地形図を作っていた時は、まだ森巌寺川という名称が見つかっておらず「ここにも川筋がある」と書いてあります。
ブログを書いている途中で森巌寺川と分かったのですが、レイヤーもないペイントで作っているので地図を直す気にもならないのでした。
淡島堂が淡島通りの由来になりましたが、そもそもその名称は和歌山が由来だったのでした。

とても大きなイチョウの木が何本もありました。木の後ろは幼稚園で市川海老蔵さんのお子様二人が通っていたという地元情報をいただきました。

森巌寺を過ぎればすぐに下北沢です。学生時代にもよく来ました。信号の少し先にロッキングチェアのある喫茶店があってお気に入りでした。

井の頭線のガードをくぐります。昔と比べるとなんだかすごく立派になったこの橋。ストリートビューで振り返ると2013年から2014年にかけて架け替えられていました。
これ以前はこんなコンクリの橋脚ではなく、盛土した土手にかかってたんです。こんな感じ。えらく立派になってびっくりぽんです。
まだ工事中のようですが、大きな土手がなくなって生まれた空間にまたお店とかができるんでしょうか。調べたらやっぱりそうでした。

鈴なり横丁とザ・スズナリ。ここはほとんど変わってなくて安心しました。

井の頭線のガード辺りで茶沢通終点かと思っていましたがもう少し続くようです。道が大きく右にまがる辺りに新しい建物がありますが、ここは13年前はこうだった場所です。

同じ場所で後ろ(下北沢駅方向)を見るとまだ更地のままでした。

今回は茶沢通りを歩ききる日ですので下北沢の再開発見学はまた今度。とりあえず先に進みます。またかつては川だったと主張する通りがありました。
暗渠マニアの方のサイトでこれが北沢川の支流の森巌寺川の暗渠だと知りました。本当にこういうマニアの人たちの不断の努力には頭が下がります。

てなこと言ってるうちにここが茶沢通りの終点。東京都道420号鮫洲大山線にぶつかって終わりです。鮫洲大山線と言えばあの環状6.5号線のアレです。
道路拡張のための用地買収が進むこの通りは日本民藝館の帰りに自転車で一度通っていました。

南に少し下ると東北沢駅前。地下化された小田急線が地下に潜るその場所がここです。

東北沢駅前。ということはこの場所も10年前は踏切だったということですね。

東北沢駅のホーム一番新宿寄りから。地下のホームなんですが線路の向こうに空が見えています。

本日のコース(水色の線)南から北に。烏山川の低地と淡島通りの尾根と北沢川の低地を過ぎてその先は別の川筋にそって東北沢まで。
この地形図を作っていた時は、まだ森巌寺川という名称が見つかっておらず「ここにも川筋がある」と書いてあります。
ブログを書いている途中で森巌寺川と分かったのですが、レイヤーもないペイントで作っているので地図を直す気にもならないのでした。
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