
久地円筒分水から平瀬川上流方向を見ると、2本のトンネルで津田山を越えていることが分かります。
左側が溝の口周辺での度々の氾濫を抑えるために流路を変更する過程で昭和16年に掘られた旧トンネル。
その後も丘陵地帯の急速な宅地開発が続いて山の保水力がなくなったことからさらに氾濫が続いたため昭和45年に掘られたのが右側の新トンネルです。
ん?
ということは昭和16年に作られた久地円筒分水の伏せ越しは元々そこにあった広瀬川を越えるためではなく、流路変更と同時に行われた一つの計画だったということですね。

ということで、円筒分水を後にして今度は多摩川に向かう平瀬川に沿って歩きます。

久地かすみ堤の末端に来ました。こちらが今日見たかったもう一つの土木遺産です。
霞堤は武田信玄が発明したと言われる堤防の仕組みです。予め本堤防の一部を切っておいて溢れる水を計画的に被害の少ない地域に導く形の堤です。

久地かすみ堤は元々、霞堤として作られた物ではなく、多摩川の本堤として江戸時代中期に築造されたものが大正時代の拡張・改修により結果的に霞堤状になりました。

昭和11年~17年の航空写真。水色の楕円部分に水を溢れさせることで赤線のかすみ堤の南側一帯を守ることができます。

現在は堤の北側に流路変更で導かれた平瀬川が通っています。桜並木でもある土手の一部が国によって売却されそうになりましたが住民運動によって保全が決まりました。

2019年の台風19号では堤防が決壊していないのに配管を逆流した多摩川の水によってこの場所でも洪水が発生しマンション住民の方1名が亡くなっています。
「想定を超える雨量」というのはこの先常に意識しておかなければなりません。

平瀬川と多摩川の合流地点。

平瀬川の最終部分の堤防の上部が透明素材でできているのがちょっと珍しい。
これも台風19号の氾濫の影響でした。広瀬川堤防のかさ上げに際して「景観や圧迫感等の住民要望を受け堤防構造を検討」した結果、アクリル板となったそうです。

多摩川に入りました。奥に見えているビル群は二子玉川周辺。多摩川左岸は一通り歩いていますが右岸はほとんど軌跡を残していません。

二子神社。

二子神社の一角が二子公園という名の植え込みになっていて、そこに岡本太郎が制作した「岡本かの子文学碑(昭和37年)」があります。

あちこちの電柱にその場所の古い写真が掲示されています。2022年の高津区制50周年を記念したイベントのひとつです。

江戸時代中期に庶民のブームとなった「大山詣」の道、大山街道。国道246号線の旧道的存在です。絵踊時代から変わらぬルートで溝の口に戻ります。

歴史を感じさせる建物も多い。今でも赤坂から大山まで70kmを歩く人はたくさんいます。

川崎市大山街道ふるさと館。大山街道の歴史、民俗等に関する資料や郷土ゆかりの人物の美術、文学作品の展示を行っています。

入口は地味ですがけっこう凝った作りの建物でした。外壁上のいくつものスロープや階段が建物最上階に続いています。

展示室内もスロープを組み合わせた複雑な構造。設計は富永譲+フォルムシステム設計研究所。1991年。展示も面白かった。

久地円筒分水から南に下る二ヶ領用水・川崎堀を越えて。

溝口神社。日本人と外国人のご夫婦が七五三のお祝いをされていました。おめでとうございます!

溝の口駅に戻りました。なんとこんなところで和歌山ラーメンの「まっち棒」が営業していました。
20年以上前に池尻大橋にあったお店には何回も行きました。現在は東京ではここ溝の口一店舗だけのようです。

ラーメンとランチ餃子と無料ライスで1050円。あまりにも久しぶりでどういう味だったか忘れていましたが美味しかったです。
余談ですが。和歌山ラーメンと言えば新大塚の麺一筋にもよく行きましたが調べてみると昨年ビルの解体に伴って閉店していました。諸行無常だなあ。
ということで半日の溝の口散歩でこんなにたくさん書くとは思いませんでしたが、非常にお散歩に適している溝の口でした。
来年は駅の南側にある洗足学園の学園祭に行くつもりです。
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