かつての職場内にある印刷博物館へ。できて四半世紀経っているのに中はきれいです。あんまり人が来ないからきれいなのかも。
アプローチの途中にあった井戸を除くような映像展示はいつの間にか撤去されていました。
「写真植字の100年」展を見に来ました。私は印刷会社の営業職でした。Rさんも若い頃は写植のオペレータだった人です。写植というのはとても身近な存在でした。
企画展は常設展を一通り見るコースの一番最後にあるという変わった配置でした。私は常設展は見飽きているので飛ばしました。
大正末期に石井茂吉と森澤信夫によって写植機が開発されるあたりの説明は興味深く見ました。詳しい実態をあまり良く知らなかったので。
初期の写植機の光源とレンズと文字盤だけという佇まいが美しい。
知らない人が見たら機織り機と見間違えそうです。
そこから50年をかけて機能を高めて行った歴代の手動機。
私は1984年に入社してすぐに学研の学習雑誌を担当しました。
すでに大半の出版物は手動機ではなく電算写植で組版される時代でしたが、子供用の雑誌ではあらゆるPOPな写研書体を使って手動機中心で版下を作っていました。
「中三コース」などの雑誌ではまだ金属の活字を手で並べて作るページまでありました。すぐに消え去る多くの技術を体験できたのは幸運だったかもしれません。
1987年に発表された最後の写研手動機、PAVO-KY。高度な図形処理機能をもち作図や表組、特殊な並びの文字組をCRTで確認しながら作業出来ました。
実機の展示はこの後RYOBIが参入したところまでで終わり。一番お世話になったサイバート、グラフ、シンギス、サンプラスなどの電算写植はほとんど紹介されませんでした。
写植の100年という割には前半部分の比重が高い。文字盤の見える手動機ほど機械の見栄えもしないから仕方ないか。
なつかしい写研の書体。ナール、スーシャ、ゴナOSなど。
仕事ではほぼ100%写研の書体で指定されていました。1990年代になってDTPが始まるまでモリサワの書体は全て「使えません」で断っていました。
これは私が所属していたのが板橋工場を中心とする出版部門だったからで、商業印刷部門ではもっと多様にいろいろ使われていたようです。
MacintoshによるDTPが一般化して、今まで日陰の存在だったモリサワ書体があっという間に主役の座におどり出ます。
石井の書体を見慣れたデザイナーからはさんざんな言われようでしたがそれも昔の話。リュウミンが森川龍文堂の明朝体の略だったことを初めて知りました。へ~。
最後の記念写真を撮ろうのコーナー。点や払いなどいろいろな漢字の部首が置かれていてそれを持って撮影する趣向。
私はガンダレになりました。